大河ドラマのせゐではないが、平安時代にはまつてゐる。

 

平安末期の治天の君、後白河法皇といへば、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽と、五代の天皇に渡つて院政を敷き、清盛、義仲、義経、頼朝と渡り合つた専制君主として知られてゐる。NHKで演じた俳優は、中尾彬、平幹二朗、松田翔太、西田敏行。中でも中尾彬の風貌は忘れがたい。

 

後白河院は、今様(流行り歌)を集大成した『梁塵秘抄』の著者としても名を残した。それは現代の歌謡曲のやうなもの、と云ふより、和歌を演歌調にしたものと云ふ方が、イメージ的に近いかもしれない。
 
書かれた当時は五千首を収め、万葉集に匹敵するやうな大部の著作だつたが、現在伝わつてゐるのは、五百七十一首。仏教を礼賛した和讃臭いものばかり残つて仕舞つたので、面白いものはあまり多くない。
 
では、和歌はどうだらうか。岩波書店の『新日本古典文学大系』から、後白河院の和歌を調べてみる。すると千載和歌集に七首、新古今和歌集に四首見つかつた。あまり技巧に走らない素直な歌であつた。これまで描かれて来なかつた人物像がここにある気がして、大学ノートに書写する。
 
二首目、詞書(ことばがき)がよくわからない。和歌には訳が付いているが、詞書は注のみ。古語辞典と高校の文法書を引張り出して逐語訳を試みる。
 

秋歌下

 

月照紅葉といへる心をゝのこどもつかうまつりける時、よませたまうける

 

院御製

 

もみじ葉に月のひかりをさしそへて これや赤地のにしきなるらむ

 

 


 

「月照紅葉といへる心」……『月がもみじを照らす』といふことが出来る境地。さう考えたが、間違つた。「いへる心」とは、四段活用の「云ふ」の已然形「云へ」に助動詞が接続して、体言「心」が付く。下の『活用表』を見ると、「いうことが出来る心地」の意味ならば、可能の助動詞「る」の連体形「るる」が接続して「云はるる心」でなくてはならない。
 
「いへる心」は、四段活用の已然形「云へ」に完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」が接続したもの。意味は、「云ふ」という行為が完了・存続することだが、「月照紅葉といへる心」……『月照紅葉』と云つた趣向、あるいは単に『月照紅葉』と云ふ情景、でよいと思ふ。
 
 
「ゝのこどもつかうまつりける時」の「ゝ」は繰り返し文字で「をのこども」となり、これは「人に仕へる者ども」「従者」「側近」の意味。
 
「つかうまつり」とは「お仕へ申し上げる」「~して差し上げる」「お作りする」ことで、「ける」は過去・詠嘆の助動詞「けり」の連体形。併せると「側近たちが和歌をお作りした時」となる。
 

 

最後の「よませたまうける」は、使役の意味で、院の和歌を「側近に詠ませた」「代詠させた」と思つたがこれも違つた。
 
四段活用の動詞「詠む」の未然形「詠ま」に、使役・尊敬の助動詞「す」の連用形「せ」が接続し、さらに四段活用の動詞(用言)「給ふ」が付くのだが、この場合の「す」の意味は使役といふより尊敬。
 
単なる「給ふ」といふ尊敬語に、さらに使役の形による尊敬を加へて、「誰かにお詠ませになる動作をくださる」の意を表はすことになり、一段と厚い尊敬の表現となる。「給ふ」に、連用形に接続する助動詞「けり」が連なるので「給ふ」は「給ひ」と活用する。にもかかはらず「よませたまうける」とあるのは、発音の都合上「ひ」が「う」となるウ音便とのこと。

 

過去・詠嘆の助動詞「けり」には伝聞の表現にも用いられる。ただし、「ける」と連体形であるのに、体言が続いてゐないのは何故か。「係り結び」ならば「ける」で終はつてよいが、「ぞ、なむ、や、か、こそ」つまり「係りの語」はない。これは、辞書にも文法書にも見つからず、ネット検索。

 

「係り結び」でなく連体形で終はるのは、(1)余情(詠嘆)を表はす場合、(2)「ける」の直後が「和歌」なので、これを体言とみなす(準体法)場合、とあつたが、ここでは「準体法」が正解だらう。意味は、伝聞として「お詠みになられたさうである」としよう。

 

では、以下に大系の訳を参考に私訳を処々交へて、十一首を紹介。

 


 

千載和歌集

 

 

春歌下

 

御子におはしましける時、鳥羽殿にわたらせたまへりけるころ、池上花といへる心をよませたまうける

 

78 池水に みぎはのさくら ちりしきて 波の花こそ さかりなりけれ

 池の水面(みなも)に岸辺の桜が一面に散り敷きて、波の花は今が盛りだよ

 

 

秋歌下

 

月照紅葉といへる心をのこどもつかうまつりける時、よませたまうける

『月照紅葉』と云ふ情景を側近たちが和歌にお作り申し上げた時、お詠みになられたさうである

 

360 もみじ葉に 月のひかりを さしそへて これや赤地の にしきなるらむ

 赤いもみじの葉に月が、金糸銀糸の光を差し添へてゐる。これぞ赤地の錦と云ふものだらう

 

 

賀歌

 

御子にておましましける時、鳥羽殿に渡らせ給へりけるころ、八条院内親王と申ける時、かの御方にて、竹遐年友といへる心を講ぜられけるに、よませ給うける

 まだ親王でいらつしやつて、鳥羽離宮でお過ごしになつてをられた頃、妹の八条院が内親王と申した時分に、彼女の御邸にて、『竹は遐年(かねん:長い年月)の友』と云ふ趣向で熟考されて、お詠みになられたさうである。

 

606 幾千代と かぎらざりける 呉竹や 君がよはいの たぐひなるらん

 この幾千年と限りのない長寿の呉竹こそが、君の齢に並ぶものでせう

 


 

 

恋歌二

 

逐日増恋といへる心をよませ給ける

 

717 恋わぶる けふの涙に くらぶれば きのふの袖は 濡れし数かは

 恋の苦しみに嘆く今日の涙に比べれば、昨日までに涙に濡れた袖など濡れた内に入るものではないのに

 

 

恋歌三

 

位の御時、皇太后宮初めてまゐり給へりける

後朝(きぬぎぬ)につかはしける

 

797 万世を 契りそめつる しるしには かつがつけふの 暮ぞ久しき

 幾久しくと初めて契つた証しには、まだ出て来たばかりと云ふのに、今日の日暮れが久しく思はれてなりません

 

 

同じ御時、忍びて初めてまうのぼりて侍りける人に、朝政(まつりごと)のほどまぎれさせ給ふことありて、暮にける夕つかたつかはしける

 

798 今朝問はぬ つらさにものは 思ひ知れ 我もさこそは 恨みかねしか

 けさは後朝の便りができなかつたけれど、便りのないつらさから私の仕事を思ひやつてください。私もあなたと同じやうにつらく、恨んでも恨みきれない気持ちだつたのです

 

 

恋歌四

 

うへのをのこども、老後恋といへる心をつかうまつりけるによませ給ける

 

866 思ひきや 年の積るは 忘られて 恋に命の 絶えむものとは

 思つてもみなかつたことだ、年を取ることが忘られて、若々しい恋に息が止まる思ひをするとは

 


 

新古今和歌集

 

 

春歌下

 

題しらず

 

146 惜しめども 散りはてぬれば 桜花 いまは梢を ながむばかりぞ

 惜しみながらも散り果てゝ仕舞つた桜花よ、今は梢を眺めて物思ふのみ

 

 

冬歌

 

鳥羽殿にて、旅宿時雨といふことを

 

579 まばらなる 柴の庵に 旅寝して 時雨に濡るゝ 小夜衣かな

 今は亡き父母の離宮に旅寝をすれば、時雨の音にも、夜着を涙に濡らす

 

 

雑歌上

 

御悩み重くならせたまひて、雪のあしたに

 御病気が重くおなりになつた、雪の朝に

 

1581 露の命 消えなましかば かくばかり 降る白雪を ながめましやは

 露のやうにもろい私の命が消えてしまつてゐたならば、これほどまでに美しく降る雪を、しみじみと見入ることがあるのだらうか

 

 

雑歌下

 

最慶法師、千載集を書きて奉りける包紙に、墨を擦り筆を染めつゝ年経れど書きあらはせる言の葉ぞなきと書き付けて侍ける御返し

 最慶法師が院の下命を受け、千載集を清書して献上する際、包み紙に「墨を擦り筆を染めつゝ年を経ましたけれども、ここに書き写せる私の和歌はございません」と書き付けてありましたことへのお返しに

 

1726 浜千鳥 ふみおく跡の つもりなば かひある浦に あはざらめやは

 浜千鳥の足跡のやうに書き連ねた歌文が山と積るならば、千鳥が貝のある浦に出会ふやうに甲斐あつて和歌の浦に面目を施すこともあらうから

 


 

をんなにも、をとこに対しても優しさを分け与ふ。さうして逸話を漁れば、芸や技に優れた民への畏敬の念を忘れない帝でもあつた。さうした後白河院をいつかドラマで見たいものである。

 

テレビ用レコーダーに五つハードディスクを接続し、たくさん番組を録画してあるのだが、たしか合計で18TB(テラバイト)ほどあつた容量も疾うの昔に一杯だ。新しくハードディスクを追加するときりがないので、もう買はない。したがつて新しく録画するためには、録画番組を消さなくてはならない。

 
英語や仏語の学習用に、映画が二、三百録画してあるのでこれを逐一見ては不要なものを削除する。番組表の映画タイトルと説明を一応は検討した上で録画予約してゐるので、実際は残したいものが多く、削除率は50パーセントぐらゐか。
 
ウィキペディアやアマゾンを参考に、評価の低いつまらない映画なら即、消さうと思ひつつも、絵画や小説とは比べものにならない資金がつぎ込まれてゐるので、その出来不出来は実際の処、見ないと分からない。他人の評価と自分の基準がずれてゐることも多いのである。
 
放映されるのはテレビ東京がダントツに多いので、ここ30年以内のアメリカ映画が主体である。歴史的な名作は少ない。たまにやるフジテレビや日テレの方に名作が多いやうだ。
 
かうして、昨年末からかなり集中して映画を見始めた。おかげで最近やつと、ブラッド・ピット、ジョニー・デップ、キアヌ・リーヴス、マット・デイモン、ロバート・ダウニーの区別がつくやうになつた。
 
黒人ではウィル・スミス、ウェズリー・スナイプス、サミュエル・ジャクソン、フォレスト・ウィテカー、テレンス・ハワード、アンソニー・マッキー、モーガン・フリーマンと云ふ、覚えにくい名前も口を衝いて出るやうになつた。
 

 

さて、このやうなわけで、昨晩見たのは、「7セカンズ(7 Seconds)」(2005年)と云ふイギリス映画だつた。
 
 
舞台はルーマニア。元軍人タリバー(ウエズリー・スナイプス)らがカジノの売上金強奪を企てるが、謎の集団に襲はれ失敗。仲間は死亡、愛人は捕へられ、タリバーはからうじてトランク一つを奪ふ。
 
偶然出会つたNATOの女性憲兵アンダース(タムジン・オースウェイト)を巻き込んで、彼女の車で逃走。警察を振り切ると一人で、誘拐された愛人の救出を図るが、殺された仲間の兄が地元を取り仕切るヤクザで、タリバーの裏切りを疑つてゐた。
 
一方、解放されたアンダース軍曹は警察から関与を疑はれ、潔白を証明しなければならなかつた。上官の尽力を得て、単独でタリバーと事件の背景を調べる為、タリバーの殺された仲間の身内に会ひに行く。
 
トランクの中身は実はゴッホの名画で、謎の集団とは、これを奪ひ返さうとするロシアン・マフィアだつた…。
 
 
以上、この映画を紹介することは今回のブログの目的ではない。この映画に端役で出てゐた女性が気になつたのである。アンダース軍曹はかなりの美人であつたが、その彼女が、タリバーの仲間で殺された男の自宅を尋ねて、あひ対した悲し気な未亡人が、此れ又劣らぬ美女であつた。
 
この女優を調べようとしたが、この映画自体がマイナーな為、ウイキペディア日本語版はなく、英語版を見ても、その外の映画紹介サイトを見ても「タリバーの仲間で殺された男の妻」の女優の名は出てゐない。「7セカンズ キャスト」でグーグル検索して、写真を全部表示させたときに初めて彼女は現れた。
 
リサ・ロヴブランド/Lisa Lövbrand。1978年ストックホルム生まれ。父はスエーデン人、母はフィンランド人。映画にはスティーヴン・セガールの「沈黙の激突(Attack Force)」(2006年)など4本ほど出演してゐるやうだが、女優としてよりも、歌の方が検索にヒットする。歌手だつたのだ。
 
 
 
 

 

そこで、YouTube検索して、最初に出た "Lisa Lövbrand - I Will Wait For You (Live Nyhetsmorgon 2011)" を聞いてみたところ、これにはまつてしまつたのである。

 

 

 

 

このメロディーは聞いたことがあるなと思ひつつ、映画「シェルブールの雨傘」のテーマ曲であることが分かつた。私はこの映画を見てゐないのだが、なぜか日本語の歌詞が口をついて出てくるのが不思議。以前に、さう、岩崎宏美の「シェルブールの雨傘」を聞いてゐたからなんだ。

 

フランスのミュージカル映画 "Les Parapluies de Cherbourg シェルブールの雨傘"(1964年)の挿入歌 "Devant le garage ガレージの前で" は、 Michel Legrand ミシェル・ルグラン (1932-2019) 作曲、Jacque Demy ジャック・ドゥミ (1931-90) 作詞である。

 

この映画の英語版 "The Umbrellas of Cherbourg" では同じ曲が、 "I Will Wait For You" と云ふタイトルで、Norman Gimbel ノーマン・ギムベル (1927-2018) によつて作詞された。

 

 

下段にリサ・ロヴブランドが歌ふ "I Will Wait For You" へのリンクを貼つたので、是非聞いてほしい。訳も以下に挿入した。

 

ライブ映像でノイズのため鮮明ではない。舌足らずで大変癖のある歌ひ方だが、せつなく胸に迫る。かうまで自分のものにしてゐるのは、ジャズ歌手ゆゑか。

 

 

 

I Will Wait For You (Music by Michel Legrand/Lylics by Norman Gimbel)

 

If it takes forever, I will wait for you
For a thousand summers, I will wait for you
'Til you're back beside me
'Til long touching you
'Til I hear you sigh
Here, in my arms

永遠にならうとも 待つわあなたを
幾千の夏が過ぎても あなたを待つわ
私のもとに戻つてくるまで

あなたに触れるまで
私の腕の中に あなたの

息づかひを感じるまで

Anywhere you wander, anywhere you go
Every day remember how I love you so

In your heart believe
What in my heart I know
That forevermore

I'm gonna wait for you

どこにゐようとも どこに行かうとも
いつも忘れないでね 私がこんなにあなたを愛してることを

心の中で信じてね

私が誓つてゐることを

いつまでもずつと

あなたを待ち続けると

The clock tick away the hours go, one-by-one
And then the time come all the waiting's done
The time you return, find me here, and run
Straight to my waiting arms

時計がチクタク、時を一つづつ刻んで

待ち時間が過ぎて願ひが叶ふ時が来る
あなたが戻り 私を見つけて、まつすぐ腕の中に
飛びこんで来る日がきつと来る

If it takes forever, I'll wait for you
For a thousand summers, I stay right here I wait for you
'Til you're back beside me
'Til I'm holding you
'Til I hear you sigh
Here, in my arms

永遠にならうとも 待つわあなたを
幾千の夏が過ぎても じつとここであなたを待つわ
私のそばにあなたが戻つて来て
私があなたを抱きしめるまで

私の腕の中に あなたの

息づかひを感じるまで

 

 

※オリジナルの歌詞は、リサ・ロヴブランドの歌に合はせて多少変へてゐる。

日本語歌詞は、以下のサイトの和訳を参考にした。
Matt Monro - I Will Wait For You シェルブールの雨傘

 
 
 
 
 

 

最後に、岩崎宏美版のリンクを追記した。彼女の歌い方はフランス語のオリジナル曲直伝だが、リサを聞いて仕舞ふと、没個性的と云ふか平板に聞こえる。愛する人がアルジェリアに出征してゆき逢へなくなる、と云ふ悲しみが強く感じられない。

 

 

 

 

 

 

リサ・ロヴブランドやタムジン・オースウェイトなどはこの先テレビ映画で見ることはないであらう。天は惜しげもなく二物を与へる。また録画を削除できなくなつて困つたことだ。

 

 

 

 

久々の桜紀行。

NHKのニュースでちらちら写っていた神奈川一の河津桜。

 

2月27日、散り際を想定しながら、神奈川県足柄上郡松田町に行った。場所は「西平畑公園」と「あぐりパーク嵯峨山苑」。現地はまだ散り始めてはおらず、満開だった。桜の下を散策するのが大好きなのだ。

 

「西平畑公園」松田山の中腹より。神奈川からでも富士がでかい。ただし、カメラでは小さくしか写らないので、結構ズームしている。

 

月曜日なのに、JR松田駅から人混みがずっと数珠繋ぎで閉口。私と同世代以上の年配がほとんど。あとは娘を連れた家族連れ。

 

帰り路では、台湾娘だかベトナム娘だか、ドレスアップしたアイドル風少女が群集して、あちらでもこちらでも映え撮りの真っ盛り。観光バスで来た団体さんかな。

 

 

 

菜の花がまぶしい。開花期間が長くていいなあ。

 

 

 

お母さんも滑りたいのだ。

 

 

 

 

 

こちらの富士は「あぐりパーク嵯峨山苑」より。「西平畑公園」の最上部からさらに十数分登る。観光客はほとんど折り返してしまうので、空いている。ゆったり見られるのでこちらの方が良かった。

 

 

奥様登場♬

 

 

相模湾(太平洋)まで見わたせる。

 

あたたかな小径。

 

河津桜と紅梅のコラボ。

 

最後は、菜の花と白梅のコラボです。

 

 

 これから5人の画家を取り上げたい。

 

 

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 1890年7月29日 37才
ジュール・パスキン       1930年6月02日 45才
エルンスト・R・キルヒナー   1938年6月15日 58才
アーシル・ゴーキー      1948年7月21日 44才
ニコラ・ド・スタール     1955年3月16日 41才

 

 

 彼らの生涯を順番に語る前に、ロシア系ユダヤ人作家、イリヤ・エレンブルグの著書『芸術家の運命』のパスキンの章から、結びの部分を引用する。

 

 晩年のパスキンには、経済的な不自由はなかった。批評家も、画商も、出版業者も、みんな頭を低くして パスキンを訪ねてきた。自殺したときは四十五歳だったから、まだまだ先は長かった筈である。恐らくは抵抗力がなくなったところへ、 過去の不幸や心の痛手が重なって現われたことが、自殺の原因だろうか。しかし、問題はそれだけではない。

 

 かつてパステルナークは、「血の通った詩は殺される」と言った。こう言ったとき、パステルナークはたぶん 真の芸術家にふりかかる宿命的な報復行為のことを考えていたのではなくて、単に詩とはなかなか思うようにいかない仕事だということを、 身にしみて感じていただけなのだろう。

 

 どんな連盟や協会にいくつ加盟していたところで、鋭い感受性がなければ芸術家というものはあり得ない。 平凡なことばが人の心を動かすためには、カンバスや石材に命がかようためには、息づかいが、情熱が必要なのである。すなわち、 芸術家は早く燃えつきる。なぜなら、かれは二人分の生活をしているからだ。創作生活のほかに、かれには世間の人間に勝るとも劣らぬ 毛むくじゃらの生活、錯綜した生活があるのである。

 

 「健康に有害な産業部門」という法律上の概念がある。つまり、健康に有害な労働にたずさわる労働者には、 特別な衣料やミルクが与えられ、労働時間も短いのである。芸術もまた「健康に有害な産業部門」だが、詩人や画家を護ろうとするものは 一人もいない。そればかりか、職業の性格からして、ちょっとした擦過傷が命とりになり得るという事実を、だれもが忘れている。

 

 そして、長い列をつくって墓穴の前を通りすぎ、花を投げる……

 

 

 


 

 

パスキンの生涯

 

ジュール・パスキン 

 

 ジュール・パスキンはセファルダンであった、と英語の年譜には一言書かれている。セファルダン(Sephardin)とは、スペインから追われたユダヤ人の子孫で、フランスやイタリアやバルカン諸国に住みついた人々を指すのだが、欧米ではよく知られた言葉なのだろう。

 

 イリヤ・エレンブルグ(1891-1967)は、パスキン(1885-1930)とも、モディリアーニ(1884-1920)とも交友があり、同じセファルダンであった二人は出会う機会はなかったけれども、お互いに性格や雰囲気がよく似ていたと記している。二人とも描く対称は女性が中心であり、ボヘミアンだった彼ら二人の写真を見ても、どこか虚無を秘めたその眼差しは確かに似ている気がする。

 

 しかし、ほぼ同時期にモンマルトルやモンパルナスを徘徊していた画家パスキンとモディリアーニが出会わないはずはない。エレンブルグは、モディリアーニの死の8年後、再びパリに戻ってきたパスキンと初めて出会ったので、二人に交友はなかったと書いてしまったようだ。

 

 モディリアーニが生前唯一開いた個展の会場ベルト・ヴェイユは、パスキンを扱う画廊でであったし、アポリネールもその『芸術論』の中で、次のように書いて良き時代を彷彿とさせてくれる。

 

 「カフェ・ロトンドには、キスリングやマックス・ジャコブ、リベラ、フリエスなどの姿が見かけられる。カフェ・ドームにはバスレルやパスキンなどの常連がくつろいでいる。プティ・ナポリタンでは、ピエール・ロワやジョルジュ・デ・キリコ、そしてモディリアーニが一杯やっている。ヴェルサイユの店では、マルケが時の移りゆくままに腰をおろしている。こうしたカフェがモンパルナスのオアシスである。」

 

 


 

 

 パスキンは、そう、ボヘミアンであり、コスモポリタンだった。言い換えれば、無頼派であり、さまよえる画家だった。ざっとその一生をたどってみよう。

 

 パスキンは、1885年3月31日にブルガリアのヴィディンで、本名ユリウス・モディカイ・ピンカスとして生を受けた。(ジュール・パスキンという名は、おそらくユダヤ人的な響きを持たないものに作り変えたものである。)

 

 ブタペスト、ウィーン、ミュンヘン、ベルリンで修行時代を送ったパスキンは、ミュンヘンで挿絵画家として認められた後、1905年、二十歳でパリに出る。

 

 パリを中心にした活動十年ののち、第一次大戦の徴兵を避けて、ニューヨークに渡り、テキサス、フロリダ、キューバ、ニューオーリンズに旅行。この地で結婚し、1920年にパリに戻ってからも、アルジェリア、チュニジア、イタリア、パレスチナ、カイロ、ニューヨーク、スペイン、ポルトガルへ旅行。

 

 たびたび開かれる個展では成功も勝ち得、創作活動も精力的だったが、次第に体調を崩し、女性関係及び制作の苦労に神経をすり減らせ、1930年に自殺した。

 

 旅に生きる人生とは苛酷な人生である。

 

 旅に生きた人で長命だった人は寡黙にして聞いたことがない。加えて彼は浪費家であり、夜毎の乱痴気騒ぎを好み、飲酒癖はアル中にまで発展したが、私の見る限り、一生を通して仕事の質も落としていないパスキンが、心身のバランスを崩さないわけがなかった。

 

 

座っている女たち

 

 マルセル、クラウディン、アンドリー、ヘンリエッタ、マドー、クローデア、ミシナ、キキ、クララ、ポーレット、アイシャ、ルース、リディス、シモーネ、ジュヌヴィエーヴ、ヒルダ、マリアンヌ、ジャネット、エレーヌ……

 

 パスキンは、多くのモデルに囲まれて生きて、たった一人で死んでいったが、私には、彼が日本の無頼派の小説家太宰治にもよく似ているように思われる。若い頃の肖像写真を見ると、ポーズだけでなく、顔つきまで酷似する。

 

 そうして、太宰における山崎富栄のように、ルーシー・クローグはパスキンにとって運命の人であった。

 

 


 

 

【二人の女性との出会い】 パスキンの正妻は、エルミーヌ・ダヴィッド(1886-1970)という画家で、二人は1907年、友人のアトリエで出会っている。

 

 当時パリの国立芸大(エコール・デ・ボザール)に通う女子学生だったエルミーヌとは、まもなくモンマルトルのアトリエで暮らすようになった。パスキンは23才だった。7年後、徴兵を避けてニューヨークに逃避行するときエルミーヌを伴っており、さらに4年後、二人はかの地で結婚し、アメリカ国籍も取得している。

 

 エルミーヌの絵は写真で見ただけだが、一流とはいえないまでも決して悪い絵ではない。ピカソにおけるフランソワ-ズのごとく、巨人の影に隠れがちであるけれども、しっかりとした個性を持ちあわせた自立した女性であった。

 

 一方のパスキンの愛人だったルーシーとは、1911年にパリで出会っている。本名をルーシー・ヴィダルといい、やはり画学生だった。このときエルミーヌのときと同様、ルーシーもパスキンのモデルをつとめている。

 

毛皮を巻いたルーシー

 

 1914年にパリを離れたパスキンがルーシーと再会するのは、エルミーヌと共にニューヨークから戻ってきてしばらくのことである。そのときルーシーは、パスキンの友人のノルウェー人画家、ペール・クローグ(1889-1965)の妻となっていた。

 

 ルーシーには画才はなかったけれど、情熱的な可愛い女だったらしく、浮気の絶えない夫クローグとはたまたま別居していたために、パスキンとルーシーの恋は一気に燃え上がったようだった。

 

 聡明な正妻エルミーヌは、二人の仲をいち早く察知し、パスキンをルーシーにあずけるつもりになっていた。しかし、何度もパスキンと二人きりの旅行をしながらも、ルーシーに夫と子供を捨て去る覚悟はなく、パスキンは次第に心の安定を欠くようになっていた。エコール・ド・パリの日本人画家フジタの妻ユキは書いている。

 

 

 「パスキンは生涯でただ一人の女しか愛さなかった。その女はルーシー・クローグである。このように強烈な愛は特記するに値するほど稀なものである」と。

 

 


 

 

【その死と女性たち】 パスキンは、長年の過度の飲酒と不節制、生来の旅行癖のため、心臓と肝臓はひどくむしばまれていたが、連夜の馬鹿騒ぎを止めようとはせず、パーティーの資金稼ぎのために画商好みの作品を乱作し続けた。

 

 そして、「人間は、とりわけ芸術家は、45才以上生きていることはない。――それまでにベストをつくせなかったとしても、その後になって、名声を高める程のものをうみ出すということはないだろう」というのが口癖だった。

 

 弱った心と体が、自分独自の表現を追い求める内部の葛藤と、画商の営利主義、三角関係による煩悶に耐え切れなくなり、また数年来の自殺願望もあっただろう。

 

 

 「もうぼくは何もできない。もう十分に働いた」――友人には遺書めいたものも書き送っている。

 

 

 1930年5月、すでにエルミーヌと別居していたパスキンは、ひとりきりで、大きな個展のための制作にうち込んでいた。カフェでパスキンの姿を見かける者はなく、ルーシーへの便りも途だえていた。

 

 6月2日、まさに個展の前日、パスキンは自殺を決行する。浴槽で手首を切り、血文字で壁に「許してくれ、ルーシー」と書き残すと、ドアノブにひもをかけた。そして座ってドアにもたれた姿勢のまま、首を吊った。おそらく大量のアルコールを飲んでいたと思わる。

 

 パスキンが発見されたのは死後3日めのこと、第一発見者は、錠前屋に鍵をこじあけさせたルーシーだった。

 

 パスキンは、――いや、モディリアーニも、太宰も、その他大勢の若くして命を落とした作家たちも、ことごとく生活人であることができず、皆、芸術家という生きものをデスパレートに演じ続けたのだった。

 

 

エルミーヌ・ダヴィッドの肖像

 

 パスキンの人生に深くかかわった二人の女性、エルミーヌとルーシーの仲は、パスキンの生前も死後も良好だったようである。遺産相続人にも二人が指名されたが、正妻エルミーヌは、残された全作品をルーシーに譲り、1970年に天寿を全うするまで創作活動を続けた。

 

 一方のルーシーは、翌1931年、パリにルーシー・クローグ画廊をオープンし、1976年ごろになくなるまで、パスキンの絵を展示していた。ルーシーの夫、ペール・クローグは、妻ルーシーを愛した友人パスキンの死の2年後、モンパルナスと訣別し、故国ノルウェーに戻ったという。

 

(2000年2月3日執筆のエッセイに加筆)

 

 

 


 

 

 

 


 上記の模写作品の原画「ペルシアの王女」"La princesse persane" は、ジュール・パスキンが1924年、P40号キャンバス(102×73cm)に厚紙を貼った上に油彩で制作。おそらく現在なお個人蔵と思われる。

 

 この絵のモデルが誰だったのか記録はないが、パスキンの5年間のアメリカ時代のあと、二度目のパリ時代(1920年~)の作品にあたる。

 

 当時のペルシアは、百年あまり続いたカージャール王朝の末期にあり、最後の第7代国王、アフマド・シャー(1898-1930/在位1909-1925)は、レザー・ハーン(パーレビ王朝初代国王)のクーデターのため王位を追われ、フランスに逃れている。

 

 彼の父・第6代国王、ムハンマド・アリ・シャー(1872-1925/在位1907-09)は1909年ロシアに亡命し、イタリアで客死していることから、モデルの女性が本当の王女だったとすれば、この第6代の娘か、もしくは第5代、ムザッファル・ウッディーン(1853-1907/在位1896-1907)の娘の可能性もあるだろう。

 

 絵が描かれたのはパスキンのアトリエか、或いはパリのホテルの一室だろうか。彼女の清楚かつ凛としていながら、どことなく淋しげなたたずまいは、流浪の境涯を暗示しているように見える。

 

 

 

 

 
 
 

 

(※前回のブログ「シュガー・マウンテン(わた菓子の丘)」(ニール・ヤング作)は、YouTubeへのリンクを追加し、英文歌詞と拙訳を並べた対訳式に修正しました。)

 

 


 

 

今回の楽曲「サークルゲーム(回転木馬)」の作者ジョ二・ミッチェル(1943-)は、ニール・ヤング(1945-)と同じカナダ出身のシンガーソングライターである。

 

ふたりは1965年頃には友人であり、ジョニは、ニールが「シュガー・マウンテン」をリリースした当時の彼を取り巻く状況を理解しており、二年後に自身が「サークルゲーム」を発表したあとで、次のように語っている。

 

「シュガー・マウンテンで暮らしたいなら」と始まるニールの歌は、彼の失われた青春への哀歌でした。

 

こう続くのですけど、

 

「シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。」

 

けれども私は思ったのです。神様、私たちが二十一になったらその後はゼロです。なんて寒々した未来なんでしょう、って。それで私は詩を書いたのです。彼のために。次いで私自身のために。

 

何というか、ささやかな希望のようなものが欲しくなって。「サークルゲーム」という歌です。

 

 


 

 

 

 

 

 

The Circle Game written by Joni Mitchell
サークルゲーム(回転木馬)ジョ二・ミッチェル作(1967年)


Yesterday a child came out to wonder
Caught a dragonfly inside a jar
Fearful when the sky was full of thunder
And tearful at the falling of a star

昨日ひとりの子供に驚きが目覚めた
ビンの中には捕まえたトンボ
空いっぱいの雷が恐ろしかった
ひとつ星が落ちたのが悲しかった


And the seasons they go round and round
And the painted ponies go up and down
We're captive on the carousel of time
We can't return, we can only look behind
From where we came
And go round and round and round
In the circle game

そして四季はめぐりめぐって
色とりどりのポニーが上下する
わたしたちは時の回転木馬に捕われ
もう帰れない、できることは来し方を
振り返るだけ
そして四季はめぐり、めぐり、めぐる
それはサークルゲーム


Then the child moved ten times round the seasons
Skated over ten clear frozen streams
Words like “when you're older" must appease him
And promises of someday make his dreams

それから子供は四季を十度めぐり
氷の小川のリンクで十度あそんだ
「大人になれば」という言葉が彼をなぐさめ
いつかは夢が叶うと約束する


And the seasons they go round and round
And the painted ponies go up and down
We're captive on the carousel of time
We can't return, we can only look behind
From where we came
And go round and round and round
In the circle game

そして四季はめぐりめぐって
色とりどりのポニーが上下する
わたしたちは時の回転木馬に捕われ
もう帰れない、できることは来し方を
振り返るだけ
そして四季はめぐり、めぐり、めぐる
それはサークルゲーム


Sixteen springs and sixteen summers gone now
Cartwheels turn to car wheels through the town
And they tell him, "Take your time, it won't be long now
'Til you drag your feet to slow the circles down"

十六の春と十六の夏が過ぎていった
荷車がトラックに替わって今は町じゅうを走る
四季たちが彼に教える「ゆっくりしなよ、もう間もなくさ
きみが時計の針を引き留めたくなるまでは」


So the years spin by and now the boy is twenty
Though his dreams have lost some grandeur coming true
There'll be new dreams, maybe better dreams and plenty
Before the last revolving year is through

そして月日は飛ぶように去って子供は二十歳
実現するはずの壮大な夢はあてが外れたけれど
新しい夢が、素晴らしい夢がたくさん生まれるだろう
最後の季節が一回りする前に


And the seasons, they go round and round
And the painted ponies go up and down
We're captive on the carousel of time
We can't return
We can only look behind from where we came
And go round and round
And go round and round
And go round and round and round
In the circle game

そして四季はめぐりめぐって
色とりどりのポニーが上下する
わたしたちは時の回転木馬に捕われ
もう帰れない、できることは来し方を
振り返るだけ、なのに
四季は、めぐり、めぐる
さらに、めぐり、めぐる
なおも、めぐり、めぐり、めぐる
それはサークルゲーム

 

 

歌詞拙訳

 


 

先程引用したジョ二・ミッチェルの言葉は、「サークルゲーム」が「シュガー・マウンテン」のアンサーソング(返歌)だったことを明かしている。

 

思うに、楽曲、歌唱の素晴らしさは間違いなくジョ二・ミッチェルに軍配が上がる。また詩の喚起するイメージもリアルで、美しく楽しい。色とりどりのポニーが上下する回転木馬をはじめとして、すべて現実に存在するものをモチーフにしているためである。

 

しかし、詩の内容に踏み込んでみると、ニール・ヤングのつぶやきの方が胸を打つ。

 

ジョ二は、子供の頃の夢は潰えたとしても、人生にはそれに替わる夢が次々と現れると歌うのだが、私には絵空事のように思えてしまうのだ。

 

「季節がめぐる」という言葉が幾度も繰り返されるけれど、それ自体は当たり前の事実であって、何かを暗示しているわけではない。So What? だから何?と問わずにはいられない。

 

 

 

ニールが歌うのは、失われた青春への哀歌ではない。決して悲しみを歌っているのではない。彼が思い描くのは、両親がいる風景への郷愁である。

 

シュガー・マウンテンで、絶対的な保護者の下で幼少時を生きた体験こそが、その後の長く、つらく、苦しい人生を支えてくれる、宝となることを教えてくれる。それはかけがえのない、心と体と魂の記憶なのだ。

 

 

 

 

アンドリュー・ワイエス作「雪の丘」(1989年)

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

Sugar Mountain written by Neil Young
シュガー・マウンテン(わた菓子の丘)ニール・ヤング作(1964年)


Oh to live on Sugar Mountain
With the barkers and the colored balloons
You can't be 20 on Sugar Mountain
Though you're thinking that
You're leavin' there too soon
You're leavin' there too soon

シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。


It's so noisy at the fair
But all your friends are there
And the candy floss you had
And your mother and your dad

お祭りは、ちょっと騒がしい。
だけど、きみの友達はみんないるし、
そう。きみの手にはわた菓子だってある。
それに、きみのお母さんも、お父さんもいる。

Oh to live on Sugar Mountain
With the barkers and the colored balloons
You can't be 20 on Sugar Mountain
Though you're thinking that
You're leavin' there too soon
You're leavin' there too soon

シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。


There's a girl just down the aisle
Oh to turn and see her smile
You can hear the words she wrote
As you read the hidden note

すぐそこの廊下に、女の子が一人いる。
ほら。振り向いて、その子の笑顔を見れば
きみは、その子の言葉を聞くことができる。
秘密のノートを読みながら。

Oh to live on Sugar Mountain
With the barkers and the colored balloons
You can't be 20 on Sugar Mountain
Though you're thinking that
You're leavin' there too soon
You're leavin' there too soon

シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。


Now you're underneath the stairs
And you're giving back some glares
To the people who you met
And it's your first cigarette

今、きみは階段の裏にいて、
近づいて来るヤツらを、
きみはにらみ返している。
そう。きみが初めて吸う一本のタバコ。

Oh to live on Sugar Mountain
With the barkers and the colored balloons
You can't be 20 on Sugar Mountain
Though you're thinking that
You're leavin' there too soon
You're leavin' there too soon

シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。


Now you say you're leaving home
Because you want to be alone
Ain't it funny how you feel
When you're findin' out it's real?

ついにきみは家を出ると言う。
一人になりたいからだと。
ほら、不思議な気持ちだろ?
まさかそれが現実になるなんて

Oh to live on Sugar Mountain
With the barkers and the colored balloons
You can't be 20 on Sugar Mountain
Though you're thinking that
You're leavin' there too soon
You're leavin' there too soon

シュガー・マウンテンで、色々な動物や
色々な風船と一緒に暮らしたいなら
きみが二十歳になってはダメなんだ、
この丘ではね。きみは思うかもしれない
もう行かなきゃならないのかと。
少し早すぎるじゃないのかと。

 

日本語歌詞拙訳

 

 

 

 

 

子供の遊び(Jeux d' enfant)

 

 

 

https://jp.mercari.com/user/profile/811991474

 

 

 

 

メルカリで販売中の額装作品13点を紹介します。タイトル又は画像をクリックすると、詳細な商品説明ページが開きます。

 

 

※ 塗装まで完了した竿(さお)状の枠を、4つに切って組んだものを『モールディング額』といいますが、接合部は切りっ放しの為、切り口が雑だったり継ぎ目に隙間があったりします。 

 

一方、白木の竿を組み立てた後に、継ぎ目処理と塗装仕上げを行ったものは、『本縁』と呼ばれ、丈夫で高級な仕上がりとなります。作品には本縁を採用しています。

 

 

 

 

額装「パリのシュリー橋」

 

 

※ 原画は現地制作した水墨画(825×335mm)です。

 

 パリは東西に大きく蛇行するセーヌ川によって貫かれ、上半分が『右岸』、下半分が『左岸』と呼ばれています。そしてセーヌの中州に、サン・ルイ島が浮かんでいます。 

 

シュリー橋は、サン・ルイ島の東端をかすめる形で、右岸のパリ4区と左岸の5区を結びます。橋は中央の鋳鉄アーチの左右を、2つの石造アーチがガードする構造で、大変美しいものです。

 

 この絵は2004年の秋、右岸の歩道にイーゼルを据えて制作しました。

 

 

 

 

 

額装「パリのノートルダム」

 

 

ノートルダム大聖堂の “Notre-Dame” は「我らが貴婦人」聖母マリアのことを指しています。パリのシンボルとして900年にわたって世界中の人々から愛され続けて来ました。

 

 原画は、2004年の秋セーヌ川の左岸の遊歩道にイーゼルを据えて描いた水墨画(825×335mm)です。2019年4月の火災により尖塔と屋根を焼失する前の貴重な姿を留めています。

 

 

 

 

 

額装「サント・ヴィクトワール山」

 

 

※ 原画は現地制作した水墨画(825×335mm)です。 

 

セザンヌの描いた絵によって「サント・ヴィクトワール」の名は世界的に知られるようになりましたが、現地に行ってみるとその途方もないスケールに驚いたことを思い出します。

 

 この絵は、2003年の12月にサント・ヴィクトワール山の中腹、ボールキュイユ(Beaurecueil)村の近くにイーゼルを据えて制作しました。

 

 

 

 

 

額装「ポン・ヌフ、パリ」

 

 

 

※ 原画は現地制作した水墨画(825×335mm)です。 

 

パリは東西に大きく蛇行するセーヌ川によって貫かれ、上半分が『右岸』、下半分が『左岸』と呼ばれています。そしてセーヌの中州にシテ島が浮かんでいます。 

 

ポン・ヌフはシテ島の西端をかすめる形で、右岸のパリ1区と左岸の6区を結びます。1602年に完成したパリ最古の橋で、長さは238メートルあります。 

 

この絵は2004年の秋、手前にあるポン・デ・ザール(アート橋)にイーゼルを据えて制作しました。

 

 

 

 

 

額装「パリのサクレクール寺院」

 

 

※ 原画は現地制作した水墨画(825×335mm)です。 

 

パリ中のいたるところから見ることが出来る純白のサクレ・クール寺院は、標高130mのモンマルトルの丘にそびえています。 寺院は約40年の歳月をかけて、1914年に完成しました。正面には、ルイ9世とジャンヌダルクの銅像が設置されています。

 

 この絵は、2004年10月に、パリのメトロ・アンヴェール駅近くの街頭にイーゼルを据えて制作しました。

 

 

 

 

 

額装「アトリエのプレス機」

 

 

※ 原画は1989年古径版画工房(当時)で制作したリトグラフです。

 版画工房では、このようなプレス機を用いてリトグラフを刷ります。修業時代、厳格な刷師と共に肉体労働に汗を流した思い出が詰まっているため、この絵にはとても愛着があります。

 

 

 

 

 

額装「裸婦座像」

 

 

【原画】リトグラフ (405×290mm)ベラン・アルシュ紙。均整の取れた美しいモデルを、アルミ板にリトクレヨンでクロッキー。

 

 

 

 

額装「裸婦立像」

 

 

【原画】リトグラフ (405×290mm)ベラン・アルシュ紙。20代前半のモデルを、アルミ板にリトクレヨンでクロッキー。 

 

 

 

 

 

額装「裸婦全身像」

 

 

【原画】 MBM木炭紙(650×500mm)に木炭デッサン。ポーズするモデルを見ながら制作しました。 

 

容貌とプロポーションの美しさ、ポーズの再現性の確かさ、ブレのない静止姿勢・・・第一級のモデルを使用しています。制作には20分間のポーズを30回、延べ6日で10時間を費やした渾身の力作です。 

 

モデルの息遣いが聞こえる様です。

 

 

 

 

 

額装「大きな裸婦」

 

 

【原画】 MBM木炭紙(650×500mm)に木炭デッサン。ポーズするモデルを見ながら制作しました。 

 

容貌とプロポーションの美しさ、ポーズの再現性の確かさ、ブレのない静止姿勢・・・第一級のモデルを使用しています。制作には20分間のポーズを30回、延べ6日で10時間を費やした渾身の力作です。 

 

モデルの息遣いが聞こえる様です。「裸婦全身像」のトリミング作品。

 

 

 

 

 

額装「子供の遊び」

 

 

【原画】 アルシュ水彩紙(260×360mm)に描いた卵黄テンペラ画。2021年作。 

 

遊びをせんとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけん

遊ぶ子どもの声聞けば

我が身さへこそ揺(ゆる)がるれ

 

あどけない子供たちの明るい声が聞こえてくる楽しい作品をお部屋へ。

 

 

 

 

 

額装プリント絵画「若い女性」

 

 

【原画】アルシュ水彩紙(310×230mm)に卵黄テンペラで制作。アートギャラリーの女性を描いた肖像画より。

 

 

 

 

 

額装テンペラ肉筆画「横浜の女」

 

 

アルシュ紙(フランス製)に卵黄テンペラで描いた、稀少な細密絵画。2021年制作。画面保護剤塗布。絵の裏面と額縁の裏板(内側)に制作データシート貼付。

 

「イタリアルネッサンスのドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)と、現代アメリカの巨匠アンドリュー・ワイエス(1917-2009)のテンペラ技術を元に、現代的なテンペラ画表現を目指しています」 

 

「誰もいない部屋の中で女は息づき、静かに想いを馳せる…」

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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今日は天気予報が外れて、朝から雨。

 

私にとって雨は好ましい。何より花粉のこの季節、両目も鼻も朝からずっと快適だ。

 

予報で雨が降る予定だった月曜日にジョギングしようと思っていたところ、この雨を見て今日に決めた。

 

3月と4月は花粉症のランナーには鬼門である。鼻と口から思い切り花粉が入って、肺が花粉に広がることを想像するとぞっとする、実際のところはどうなのかわからないが。

 

雨の日は、極端に人出が少なくなる。すれ違うランナーも、犬と散歩する人も、こんな強い雨の日は皆無である。これもまたありがたい。

 

雨で体感温度が下がると呼吸が楽になって、体温の上昇も抑えられるので、タイムも晴れの日より大概アップする。

 

 

体力は昔とは雲泥の差で、今は1キロ5分ペースで走るのがやっと。1キロ5分ペースで走ると、5.5キロで27分30秒換算となる。

 
私は週に5.5キロを2回走る。今年になって20回走ったが、27分台で走れたのは3回だけ。3月初めに3回目のコロナワクチンを打ったので、2週間のブランクが出来て取り戻せないままだった。
 
それでも前回の木曜日には何とか28分28秒まで上がって来たから、今日はワクチン接種前の28分02秒あたりを目指したいところ。目標。往路14分、復路14分。
 
ジョギングコースにしている川沿いに着くまでに、ウインドブレーカーはびしょ濡れになった。短パン姿になって、ズボンは腰に巻き、スタート。
 
上半身は、走りながら腕まくり。体が温まらぬうちは予想外に寒い。そして強風。雨は何ともないが逆風には致し方なく、前傾姿勢を深くするも、思うように進まない。
 
コースは大部分アスファルト舗装されているが、500メートルほどが土なので、この雨で大きな水溜り。靴がぐちゃぐちゃになりそうだ。水たまりを避けていると余計にタイムは上がらない。折り返し地点で14分30秒。

 


 

復路は順風。軽快ではないが、あとは無我夢中。500メートルの標識が来るたび腕時計を見ると、1キロ5分10秒前後のペースを刻んでいる。

 

雨は小降りになった。手も腕も冷たくない。アスファルトの水たまりを避けきれず靴底まで雨は浸みているが、ぐちゃぐちゃ音がするほどではない。

 

残りあと1キロ。道路横断の際の車待ちはない。ここから500メートルは土。大きくラップを落とさないように走る。

 

ラスト500は全力疾走。今日は絶対に誰も見ていないが、傍目にはどう見えるんだろう、アラカンの走り。最後こけそうになってゴール。タイムは28分05秒だった。復路13分35秒、後半は持ち直した。

 

冷えない内に身支度して、小雨の中すがすがしい気分で歩く。年末に出た自己ベストの26分57秒まであと1分8秒。何とか秋にはクリアしたいものだ。

 


 

帰路、傘の若い女性とすれ違う。さて黒いマスクだったか白いマスクだったか。若い人は圧倒的に黒が多い気がする。瞳が強調される所為だろうか。

 

コロナが蔓延し出してからというもの、道で若い女性とすれ違う際、大きめに避けられることがある。子連れの女性は特にそうだ。気持ちはわかるのだが何か嫌なものだ。

 

私には傘はないが、傘の彼女は避けなかった。といって道を独占するでもなく、ごく自然に、ごく近い距離ですれ違う。ちょっと不思議な感じがした。

 

ずぶ濡れで帰宅。妻は隣家より戻っていない。日曜には甥っ子夫婦が子供を連れて、義姉の家にやって来る。それは彼女には祝祭なのだ。

 

私はいつものように風呂につかり、一息をつく。戸棚に菓子があった。懐かしい、しるこサンドというクラッカーである。“愛知”ふるさとの味と書かれていた。

 

 

名古屋人のあんこ好きは知る人ぞ知る。一昨年実家に戻って2ヶ月ほど自炊したとき、近くのスーパーでこれを見つけた。たぶん前回食べたのは中学生ぐらいだろうから、45年ぶりだ。

 

それが昨年、妻が近くのスーパーで偶然、松永製菓のしるこサンドを買ってきた。名古屋のローカルなクラッカーが神奈川に進出していたのか、と感慨深い。クラッカーは珈琲に合うので、それ以後好物にしている。

 

こんな日曜ならばじゅうぶん、私には大安吉日なのだった。

 

 


 

 

 

 

 

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表題は、Jeffrey J. Mayer氏の “If You Haven' t Got the Time to Do It Right, When Will You Find the Time to Do It Over ?” の訳である。

 

絵描きの端くれとはいえ、自営業となるとやらねばならぬことは多い。締め切りがきまっているものは、否応なしにやることになるが、締め切りの決まっていないものは後まわしになって、いつまでも残ってしまうものだ。

 

氏の書いた『ビジネスマン 奇跡の整理術・時間活用術』(三笠書房)に出会ったのは1998年のことである。

 

若い頃、大手建設会社に入った時に新人研修でよく、この類いの本を紹介されたものだが、日本人の書いた本は、今考えると網羅的であるゆえに、効果が薄かった。たしかにいいだろうなと思っても、読者を一歩押し出す力が決定的に欠けているのだ。(おそらくは単にページを埋めるために書いている部分が大半なのである。)

 

一方、アメリカ人であるメイヤー氏の『時間活用術』は誠にシンプルで実際的だった。合理精神、実用主義の原語 Pragmatism (プラグマティズム)は19世紀後半のアメリカで生まれたそうだが、

 

このような哲学思想を産めるような社会的な土壌があるか、あるいはよそから鉢植えを持って来ることで満足してしまうお国柄か、の違いがアメリカと日本の国力の違いを際立たせることになったのだろう。

 

 


 

この本から私が学んだのは、ただ一点 『マスターリスト』 というメモ紙の書き方である。下の写真が私の使っているマスターリストである。

 

 

マスターリストとは、やらなければならない仕事を、一行に一項目ずつリストに書き出すもので、その書き方は、

 

1.一番左に、書き出した日付を書く。

2.真ん中に、仕事の細かな内容を書く。

3.一番右に、完成すべき日付を書く。

4.これをその仕事を思いついた順に、出来るなら締め切りと、その重要度の順に書き出していく。これを日々書き足し、点検し、優先度を考えながら仕事を進めていく。

5.一項目の仕事が終わったら赤線を引いて消す。

 

メイヤー氏は一行に一項目にしなさいというのだが、私の場合は仕事だけでなく家事・雑用も含めてこまごまと、ひとつの仕事を工程ごとに分解してリストアップするため、項目がやたら多くなって紙がもったいないので中央で仕切って二段組みにしている。これで1枚に74項目書ける計算だ。

 

これを1998年から始めて現在マスターリストは、39枚目となるものが机の前に掲示してある。

 

24年間で39枚というのはあまりに少ないのだが、これには訳があった。

 

こまごまと書かれたリストの中で、すぐさま仕事が終わって赤線を引けるものがある一方で、重要ではあっても優先順位の低いものがいつまでも実施されずに残ってしまうのである。

 

daily(日々)に実施するつもりだったものが、weeklyになり、monthlyになり、ついにはyearlyになってしまう。がんがん消費され、書き換えられるべき1枚のマスターリストがいつまでもいつまでも机の前に掛かっているのであった。

 


 

これでは役立たずであるからと、段々に考えて実行しているのは、もう一枚の『小さなマスターリスト』である。サイズはメモ用紙大。罫線を入れ、「日付」と「最優先事項」の文字を入れてプリントし、カットする。一日のやること一覧表である。

 

 

1.重要ではあっても月日を要するもの、長期目標のようなもの、優先度の低いものは大きなマスターリストに記入して今まで通り机の前に掲示する。

2.今日、または明日中に行うべきものは、小さなマスターリストに書いて机の隅に置く。

3.いずれも完了次第赤線で消す。

 

こうすることによって仕事の円滑な回転が復活した。還暦を越えて体力・知力の衰えた今となっては、紙に書いていないことは一切出来なくなってしまったほどだ。

 

こうしてこの小マスターリスト 『最優先事項一覧』 を使い始めて3年あまり経過した。

 


 

最近、なかなか赤線で消すことの出来ない項目がひとつある。

「No.26 サイドボード引き出し2ケ修理」 という雑用なのだが、記入した日付は2月3日である。

 

これがまたもや dailyから、weeklyとなり、monthlyとなって3月7日の今日現在にも残っている。

 

さてさて、大マスターリストに移すべきか、いやいや、優先度が低いだけでなく重要度も低いから、書き移すのも無駄というものだ・・・。この引き出しにはハンカチや靴下なんかが入っている。

 

そうしてこれは今朝のこと。妻がサイドボードの引き出しを引いたとき、例によって前面板が外れてしまった。取っ手も兼ねている前面板のダボ穴がゆるくなって、引くたびにダボが外れるのを2月3日以来ほったらかしにしているのである。

 

 

朝食後、新聞を読んでいる私に妻が言った「トントンして直せないの?」

 

彼女は、前面板に釘を打てといっているわけではなくて、《金槌で叩けば抜けなくなるんじゃないの、やってよ!》といっているのである。それでは手ではめるだけの処置と五十歩百歩だが。

 

私が引き出しの修理方法として以前から心に描いていたのは、

 

1.石灰カゼイン糊を使って、ダボ穴とダボを接着させるやり方だった。見た目が脱脂粉乳のようなカゼイン粉を一晩水に浸して膨潤させてから、これに適量の消石灰を混ぜると良質で強力な糊が出来て、木工に最適なのだ。(これを水で薄めると地塗り塗料や木材塗装前の目止め液になるので、絵画用に大変重宝している。)

 

ダボの接着に必要なのはほんの少しなのだが、高価なカゼインが手元に残りわずかなのと、作って片づける手間が面倒なのでどうもやる気がしなかった。

 

2.そのうちにGMボンドでくっつけてやろうかと考える様になった。ダボとダボ穴の双方にGMボンドを塗布して5分ほど置き、生乾きの状態で圧着するこのやり方はカゼインの次に適した、簡便な方法だが、ヘラで着けた後の処理とかどうもおっくうに感じてしまう。

 

3.またさらに、エポキシ樹脂ボンドをダボ穴にはさむ手もある。容器からA剤とB剤を同量取り出して、ビニル手袋した手でこね合わせて一体とし、これをダボに塗ってから穴に叩き込むのであるが、GMボンドよりももっと面倒で・・・。

 

というわけで1ヶ月以上ほったらかしにしていたのである。仕事じゃないからね。

 


 

しかし、妻の「トントン」という幼児語の響きに即座にひらめいた。

 
「寒冷紗を挟めばいいんだ!」
 
寒冷紗とは目の粗い薄布のことである。ガーゼの目をもっと粗くしたもので私にとっては、これも絵画材料であって基底材の一部として用いる。
 
この寒冷紗を小さく角切りにしてダボに当て、そのままダボ穴に挿し込むと、ダボ穴の緩みがなくなってダボが抜けにくくなる。あとは木槌でトントンすればいい。
 
石灰カゼインも、GMボンドも、エポキシ樹脂も湿式である。湿式だから汚れものが出て片付けが面倒なのだが、寒冷紗は完全な乾式である。汚れものもゴミも出ない。
 
手順を頭の中で描いた瞬間に体が動いていた。それから取り出したハンカチや靴下を収めるまでの所要時間は15分。
 
 
 
一仕事を終えたあとにマスターリストに赤線を引くのは何よりも快感である。5.5キロメートルを走り抜け、帰宅して熱い風呂に浸ったような快感である。
 
そして、
 
「(No.26)サイドボード引き出し2ケ修理」 
の項目だけでなく、1か月前から小マスターリストに放置されていた
 
「(No.34)アメブロ作成UP」 
の文字に赤線を引くことができた快感!!
 
 

 

 

 

 

 

 

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 ひと頃、私たちは、彼には指が十八本あるに違いないと信じていた。(中略)

 で、なければ狂気にとりつかれているんだと言って憚らない者もいた。(中略)

 

 Jr.がついていた時代のフィニアス・ニューボーンはそうした男で、まるで自分の映画に登場するヒチコックのように、ジャズシーンにとっては重要なピアニストだった。(中略)

 

 彼の名を聞かなくなって少したった。

 

ジャズ・マンがネクタイをしなくなり、Tシャツを着て堂々とステージに現れるようになるまでの、――僅かな年月、私はニューヨークにいた。

 

 そこはユニヴァーシティ・プレイスにある小さなバァで、世界一の大酒のみと称するバァテンダーがほとんど一人で切りもりしている店だった。

 

彼は早番で、私も昼以外そこへ通ったことはなかった。NYU(ニューヨーク大学)の寮が真前にあり、夜中はガキで一杯になると、その『世界一の大酒飲み』が顔を歪めて教えてくれたからだ。

 

 ある夜、テキサス人の親指みたいな雨に追われて飛びこむまで、だから私はそこがジャズ・クラブだとは知らなかった。

 


 

 ピアノがボスと、すぐさま判るトリオがその夜は人だかりにもまれていた。飲むでなく、食べるでなく連中はピアノの回りに集り、ただ聞くでもなくただ騒ぐでもなく浮かれていた。
 
 シンとして水平な感情、――と書いたところで伝わるわけがない。喧嘩が今まさにはじまろうという直前、温度が気分から失われて行き、アドレナリンが時間を凍らせる、あの雰囲気が店に溢れていた。
 
私はたまげて、いつもは決して腰かけない椅子にへたりこんだ。
 
ヤクザ映画が、映画館から家路を辿る客をみんなヤクザにしてしまう、あの瞬間。戦争映画が、誰をもたくましい父親にしてしまう、あの瞬間。そうしたものがそのピアノのすべてだった。

 

 彼らが演奏を終るころ、私はすっかりくたびれ果てていた。

 

作業着を着たピアニストが私の傍に歩いて来た。爪が泥に汚れていた。つい先刻まで土木工事で糊口(ここう)を得ていたといった風情だった。

 

アメリカの音楽市場がどれほど厳しいかは私はよく知っていた。ヒノ・テルだかナベ・サダだか知らないが、トキョーでどう言われようと、彼らはこの町でチンドン屋と大差なく扱われていた。だから私の憐憫が決して傲慢だったなどと誰にも言わせまい。

 


 

「一杯、飲んでくれ」と、私は言った。

「コニャック」礼も言わずに彼は叫んだ。

 

謙譲の美徳なんてここに存在しないことを私は思い、自分を押えた。

酒を受けとり、彼は目の高さに翳(かざ)した。私を見つめた。

 

「すごいもんだ」と、私は言った。

「ありがとう」彼は、やっと応えた。おそろしく皮膚のたるんだ、でぶの黒人だった。

 

「あれを思い出したよ」

「あれってのは何だ」

「フィニアス・ニューボーンJr.だ」

「知ってるのか?」

「ディスクを三枚持ってる」

「いいのか」

「すごいぞ」

 

彼はその後四杯、コニャックを私のツケで空にした。それから腰を上げ、

「どうもありがとう」と、言った。

 

「I,The Piano」

(俺がフィニアス・ニューボーンJr.だ)

 

そして、バァテンダーが抛(ほう)ったミンクの半コートを羽織り、運転手つきのコンティネンタルに乗りこんで十四丁目の方角に去って行った。(後略)

 

 

矢作俊彦 『 I,The Piano 』

 


 

以上は、油井正一著『ジャズ―ベスト・レコード・コレクション―』(新潮文庫/1986年)に収録されたエッセイである。

 

小説家矢作俊彦については残念ながら知るところはないが、当時ジャズをかじり始めたばかりの私に、強烈な印象を与えたこの一節は、購入以来36年を経た今でも、ときに脳裏に甦る。

 

そして、ときにカセットテープをレコーダーにセットする。

 

『Stockholm Jam Session Vol.2/Phineas Newborn Jr. 』 

ストックホルム ジャム・セッション第二集/フィニアス・ニューボーン・ジュニア

 

 

これは図書館にPhineas Newborn Jr.を探しに行って、偶然見つけたアルバムだったが、3曲目の 『 My Ship 』 の何とも言えない揺らめくようなリズムが、私の心を鷲掴みにした。

 

そして折に触れて聞き続けてきたけれど、曲の意味するところはずっと知らないままだった。フィニアスについても、ずっと謎のままだった。

 

インターネットの時代となって随分たつが、調べてみたのはつい最近のことで、My Shipには詞があったのだ。

 


 

My Ship

 

作詞: Ira Gershwin アイラ・ガーシュイン
作曲: Kurt Weill クルト・ワイル

 

My ship has sails that are made of silk

私の船の帆はシルクで織られていて
The decks are trimmed with gold

デッキは金で縁取りされている
And of jam and spice there's a paradise in the hold
船底にはジャムとスパイスが満ちたパラダイス

My ship's aglow with a million pearls

私の船は幾百万の真珠できらめき
And rubies fill each bin

どの箱にもルビーがあふれる
The sun sits high in a sapphire sky

太陽がサファイアの空に高く張り付くとき

When my ship comes in
私の船は港に入る

I can wait the years

私は何年でも待てる
Till it appears

それがやってくるまで
One fine day one spring

ある春の晴れた日
But the pearls and such

だけど真珠やなんかは
They won't mean much

あまり意味がないかも

If there's missing just one thing
もしひとつだけ現れないなら

I do not care if that day arrives

そんな日が来てもかまわない
That dream need never be

あの夢だって要らなくなる
If the ship I sing

もし私の歌う船が

Doesn't also bring

運んで来ないとしたら
My own true love to me

最愛の人を私のもとに

 


 

歌を聞くなら、Julie Andrews ジュリー・アンドリュースが一番好い。

ピアノを聞くなら、このアルバムしかない。フィニアスのソロ・ピアノ(13分01秒)は、唄うのだ。

 

 

 

 


 

 

 

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