今回の内容は、ブログではなくて「時空を超えて~歴代肖像画1千年」というメールマガジンです。2006年から年に1~2回の不定期で配信しています。安土桃山時代の代表的絵師・狩野永徳が描いた織田信長の肖像画と、信長の遺体の行方について書いたもので、文字数は12,000弱、原稿用紙にすると30ページ分ぐらいになります。

 

 


 


 

時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0003

 


 

2019年11月29日発行


★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を一緒に読み解いていきましょう。

□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 織田信長の肖像画(四)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主・織田信長の墓所について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容


◆◆【1】織田信長の肖像画(四)◆◆

 京都・大徳寺本坊に伝わる織田信長の肖像画を紹介する。作者は狩野永徳であり、描いた作品のほとんどが焼失した永徳作の、直筆の信長像として大変興味深い作品である。

 なお、本稿は2007年01月01日にまぐまぐから配信した原稿を加筆改定したものである。



★★★織田信長肖像画(大徳寺蔵)の参考画像ページはこちら
⇒⇒⇒ http://www.shouzou.com/mag/p3.html
 

 

◆◆【2】肖像画データファイル◆◆

作品名:織田信長の肖像
作者名:狩野永徳
材 質:絹本著色(日本画・軸装)
寸 法:114.0×51.2cm
制作年:1584年
所在地:山城・大徳寺(京都府)
注文者:豊臣秀吉

意 味:織田信長の葬儀又は三回忌のために作られた追善供養のための肖像。

 小袖・裃(かみしも)姿の信長を描いた本作品は、同サイズで制作された束帯姿の肖像画と共に、元々は秀吉が創建した大徳寺の塔頭寺院・総見院に伝来した。

 裏側から塗られた下絵(裏彩色)が、二本差しで、左右が色違いの小袖をまとっているのに対し、完成作では一本差しで単色の小袖であることから、秀吉の命によって地味な装いに改変されたと考えられる。

 また絵の軸木に、天正12年5月という年紀が記されており、最終的な完成は1584年といわれている。


◆◆【3】像主・織田信長(1534-1582)の墓所について◆◆

 織田信長の墓所については、畿内を中心に数箇所点在するうちで、二つの寺院が注目されている。静岡県富士宮市の西山本門寺と、京都市の阿弥陀寺である。

 まず、西山本門寺は、1344年創建の広大な日蓮宗寺院であり、山号は富士山という。古くから地元では信長公の首塚が本堂奥のヒイラギの古木の根元にあると伝わる。

 本能寺の変のとき、原志摩守宗安が、滞在していた本因坊算砂・日海上人(1559-1623)の指示で、自害した信長の首と自刃した父・胤重、兄・孫八郎清安の首を持ち出して、富士郡本門寺の本堂裏手に埋めたという。『原家記』
 


 この原志摩守宗安は、信長の小姓だったらしいが、変の20年後に西山本門寺の18世日順上人(1602~1688)を生んだこと以外は不明である。

 『小田原北条氏重臣・松田憲秀のこと』(松田邦義氏)によると、原志摩守とは憲秀に仕える原胤栄(1551-1589)の家臣であり、宗安の父・胤重を指すと思われる。彼は変の年、小姓の二子と共に信長に臣従していたのだろうか。

 また、『千葉一族』chibasi.netというサイトによれば、1582年に本能寺で死んだはずの父・原胤重は、1586年11月に原胤栄から「志摩守」の受領名を授かり、同じ日に兄・孫八郎も「胤」字を授かり元服(14才前後)している。

 このような矛盾があることに加え、信長家臣団は各地に派遣されており今だ無傷であるにもかかわらず、信長の首を、京都から父祖の地・尾張を飛び越えて、400キロも離れた徳川家康の領地まで運ぶ行為の不可解さ。

 さらに、重臣を従えた家康一行が、京都から伊賀越えして岡崎に戻るのに辛酸をなめ尽くした経緯や、旧武田家臣・穴山梅雪にいたっては落命した事実を考え合わせると、筆者は西山本門寺首塚説に疑問を感じている。
 


 実際に信長の遺骨が埋葬されたと考えられるのは、京都市上京区今出川上る二丁目鶴山町14にある蓮台山阿弥陀寺である。

 阿弥陀寺は、1555年玉誉清玉が近江国坂本に創建したのち、西の京蓮台野(現在の上京区今出川大宮)に移転した壮大な寺院である。

 清玉上人とは、織田家によって育てられた孤児らしい。信秀あるいは長男の信広が戦に向かう途中で、行き倒れた身重の女に出くわしたが、出産後亡くなったため引き取られた赤子とも、女は信秀の側室だったとも伝わる。

 赤子は織田家の子らと一緒に育ち、13才で南都・興福寺に入るも、信長とは昵懇の間柄だった。京の阿弥陀寺は寺域が八町(900メートル)四方もあったとされ、清玉上人に信長や正親町天皇も帰依し、東大寺再建をも任されている。
 


 信長の墓所については、阿弥陀寺に伝わる『信長公阿彌陀寺由緒之記録』に詳しいので、これを以下に逐次抜粋意訳して紹介する。

 1.光秀が信長の首を見つけられなかった理由
 2.討死の衆大勢の遺骸を引取り埋葬した次第
 3.当寺の織田一族の墓が無縁となった理由
 4.寺宝および本文書作成の次第

 1.光秀が信長の首を見つけられなかった理由

 天正10年6月2日明智日向守光秀が謀反によって、本能寺に押し寄せ合戦に及んだことを聞きつけた清玉上人が、配下の坊主と塔頭の僧侶20人ばかりを召し連れ本能寺に駆け付けた。

 寺域に詳しい上人は裏手に回り、垣を破って到着したが、宿所には火がかかり信長公、既に切腹と知った。傍らを見ると、墓の後ろの藪の内に10人ほどが内寄って、枝葉を折りくべ火を焚いている。

 近寄ると見知った武士ばかりで、信長公の遺言に従って敵に遺骸を渡さぬようここで火葬して埋めた後、殉死すると言う。上人は、出家者の役目であるからと遺体を引き取って、火葬の後阿弥陀寺に埋葬することを約束した。

 そこで武士たちは一人二人残して、敵に向かっていった。上人一行は骨を衣に隠して本能寺の僧侶を装って退出し、阿弥陀寺に深く隠し置いて、ほとぼりがさめてから密葬し、墓を築いた。

 信長公の遺骨を納めた根本の寺は当寺に相違なく、光秀が骸骨さえ見えぬと怪しんだ訳はこのような事情による。
 


 2.討死の衆大勢の遺骸を引取り埋葬した次第

 信長公長男三位中将・信忠公の当日の宿舎は妙覚寺であったが、異変を聞いて二条の新御殿に移って自害されたが、遺骸を火中に打ち込み焼き捨てよとの遺言のため行方知れずとなるところだった。

 駆け付けた清玉上人は、残っていた家来衆に場所を聞き出し、お骨をことごとく拾い集め、持ち帰り、信長公墓に相並べて墓を築き、今に至るまで命日の法事と水向けに相勤めている。
 

信長公御法号
奉号惣見院殿贈大相國一品泰巌大居士
天正十年壬午六月御年四拾九歳
但廣幡内府殿御家之旧記ニハ初号天徳院殿後改テ惣見院殿華巌ト記有之

信忠公御法号
奉号大雲院殿三品羽林仙巌大居士
右御同日
御年廿五歳
 

 6月2日昼2時頃のこと、惟任日向守光秀が本能寺・二条の軍の終わって後、川原にて休憩しているところへ、清玉上人が見舞いと称して餅・焼飯を夥しくあつらえて持参すると、光秀喜悦にて軍士に分配し賞玩した。

 そこで上人は「討死の衆中に当寺の檀越も多い故、死骸を取り拾い墓所に葬りたい」と願ったところ、光秀は「家来どもの死骸は無用であり感心なこと」と許可された。

 これにより馬車にて、信長公御家来中、本能寺並びに二条の新御殿にて同時に討死の衆112人の死骸ことごとく引き取り、これをいちいち実検の上、印して戒名をつけ墓所に葬った。
 


 3.当寺の織田一族の墓が無縁となった理由

 惟任日向守を討ち果たし、天下の武将となった羽柴筑前守秀吉は、信長公のご遺骨が阿弥陀寺にあることを知っており、当寺にて法事を催す旨を下命したところ、清玉上人は手前にて相応に営むゆえ、ご無用と辞退された。

 ならばと法事料300石の御朱印を下したが、上人はこれも受けなかった。秀吉は「永代の御廟の相続のためにも寺領として納められたし」と三度までも上使を寄越したが、上人はすべて押し返したために秀吉を立腹させてしまう。

 「ならば向後、阿弥陀寺には家門共に一切かかわらず、別に寺を一宇建立し寺領を付け、皆々そこへ参詣申し付ける」と伝えると、「御勝手次第になされ」との回答に秀吉はいよいよ激怒。

 これにより、織田家も公儀をはばかり御仏参もなく、一向構わなくなった。秀吉公は紫野大徳寺境内に総見院を建立し、御朱印寺領を下付したため、大名衆皆々紫野へ御参詣となって阿弥陀寺は廃れ、いよいよ無縁寺になった。

 天正15年頃には太閤の命により京の区画整理が行われ、8町四方あった阿弥陀寺は移転後1町四方となる。この中に本坊塔頭立て込んで手狭のため、子孫による参詣のある墓以外は、遺骨を取りまとめ信長公墓所の周りに共同墓とした。

 清玉上人は、秀吉が信長公の御一族に天下を譲り、執権におさまるならともかく、信長公によって立身出世した者が、織田御家門を御家来とするなど不義不道の人非人にて、右のような仕打ちとなるともいたしかたなしと申した。
 


 4.寺宝および本文書作成の次第

 1675年の大火で阿弥陀寺は全焼し、信長公の宝物も数多く失われた中で、手槍一筋、後陽成天皇の勅額、信長公・信忠公の木像、御位牌がようやく残された。木像造立の施主は青木加賀法印で石灯籠に1585年との彫り込みがある。

 以上の由緒は真実であるゆえに毎年100日の御公儀の見回りがあり、年に三度まで巡察にも来られ、信長公の宝物やご帳面も改めた由。

 昔の記録は先年の大火によって焼失したため、塔頭の老輩や、檀越の古老の記憶による証言を留め置き、その外前後始終を考え合わせ、住持常誉が後代のためにこれを書き置くものである。
 

享保十六辛亥歳(1731年)仲夏
当寺第廿世
常誉説音

 


 現在の阿弥陀寺には、信長、信忠の墓の外に、森蘭丸、森棒丸、森力蔵、福富平左衛門、津田権之佐信貞、津田九郎次郎、赤座七郎右衛門、團平八郎、湯浅甚助、櫻木伝七郎、青柳勘太郎、桑名吉三の12基と共同墓(惣墓)が残る。

 当時の阿弥陀寺から本能寺までの距離、並びに阿弥陀寺から二条御所までの距離はいずれもおよそ3キロメートルで、歩いて35分ほどの距離だった。また能寺の広さは、縦200メートル横100メートルを有していたという。

 『信長公阿彌陀寺由緒之記録』は、江戸中期、本能寺の変の149年後に書かれた文書であり、信頼性を疑われてもいたしかたない点はあるが、

 これら信長の家臣の墓が存在する事実をもっても、遺体を収容した経緯は信頼できるのではないかと思う。

 常誉上人が文書を記録した意図は、顧みられなくなった阿弥陀寺の復興に繋げむとの一念であったろう。


◆◆【4】肖像画の作者について◆◆

 画家の名は狩野永徳(1543-90)。安土桃山時代の代表的な絵師であり、注文に応じて細画から大画まで、水墨画から金碧・濃絵まで、漢画・大和絵の画題を問わず自在に制作。

 織田信長や豊臣秀吉の御殿障壁画の作事を一手に任せられ、天下一と称された。戦乱により多くの作品が失われたが、現存する作品の内3点が国宝に指定されている。

 


 永徳洲信(重信)は、漢画と大和絵を融合させ、狩野派の様式と名声を確立し、古法眼と称された第二祖・狩野永仙元信(1477-1559)の孫である。

 父は、元信の三男・狩野松栄直信(1519-92)で、長男次男の夭逝により宗家を継いだ。元信と松栄は、足利将軍の御用絵師を務めており、当時の石山本願寺などに作品を残している。

 永徳(幼名・源四郎)は幼い頃から16才の年まで祖父・元信の英才教育を受けた。1552年正月第13代将軍足利義輝(1536-65)が帰洛した際に、75才の元信は9才の孫・永徳を連れて挨拶に馳せ参じたという。

 早い時期の代表作としては、上杉家に伝来した「洛中洛外図屏風」がある。

 将軍義輝が上杉謙信(1530-78)に贈るために、若き永徳に発注したもので、画面を覆い尽くす金雲の間に、京の貴族武家の邸宅と2千名超の民衆が描かれている。絵の完成直前に義輝が討たれ、後に信長が購入することになった。

 


 1564年、最初の天下人と近年称される三好長慶(1522-64)が死去。その菩提を弔うため大徳寺・聚光院が建立されたとき、永徳は「花鳥図襖」全16面と「琴棋書画図」全8面の障壁画(国宝指定)を描いている。

 1567から68年にかけては、五摂家筆頭の近衛家当主・近衛前久(1536-1612)の屋敷で障壁画を制作した。

 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、1567年竣工の織田信長の岐阜城は金碧障壁画に満たされていたとあり、翌年の信長入京以前に永徳は面識を持ち、岐阜城の作事に携わっていたともいわれている。

 1571年、大友宗麟(1530-87)の招きで、永徳と弟の宗秀季信(1551-1601)は豊後大分を訪れ、臼杵の丹生島城において金碧障壁画を制作。

 1574年、織田信長は、永徳作の「洛中洛外図屏風」と「源氏物語図屏風」買い取って上杉謙信の元に贈り、かの地の人々を驚嘆させている。

 


 1576年から信長の安土城建設工事が始まる。永徳は安土に移って制作に集中するため、弟・宗秀および父・松栄を京に残し、家屋敷一切を譲り渡す。

 これは万が一、安土城の作事が信長の不興を買っても、狩野一門が断絶させられることのないように配慮したものだった。

 1579年の安土城天守閣は無事竣工。これ以後も城内の御殿装飾に従事した。1581年には大工や他の職人たちと共に城に招かれて、永徳は長男・右京進光信(1565-1608)を連れて登城。褒美として300石の知行と小袖を拝領している。

 安土城の本丸御殿には永徳の手になる障壁画「(尾張・美濃・近江)三国名所絵図」が描かれ、正親町天皇のための「御幸の間」には金碧障壁画が、書院には近江富士の絵があったと伝わる。

 さらに信長は1580年、安土城の全容を屏風絵に描かせた。この絵は同年8月叡覧に供され、天皇の是非にとの所望を一蹴した信長だったが、翌年安土城を訪れたイエズス会の巡察使ヴァリニャーノ(1539-1606)への贈り物とした。

 この「安土城図屏風」は、天正少年使節一行と共に1585年ローマまで運ばれて法王グレゴリオ13世を喜ばせ、絵画館に陳列させたという記録が残る。

 


 1582年、本能寺の変で信長が斃れるとその菩提を弔うために、翌年秀吉によって大徳寺内に総見院が建立され、永徳が障壁画を任された。

 天下様の代替わりによって、建設ラッシュが来ると見越した永徳は、縁戚である土佐派絵師の頭領・土佐光吉(1539-1613)に書状を送り、一門の参加・協力を依頼している。

 1583年8月からは大坂城の本丸・山里丸の障壁画工事に駆り出され、果たして狩野一門総出で、大車輪の制作が続くことになった。

 1585年正月からは二の丸、西の丸の造営が始まり、1588年の3月に竣工。これと併行して、正親町天皇の仙洞御所に1585年「群仙図襖」「二十四孝図襖」を制作。1586年2月から翌年9月にかけて、巨大な城塞・聚楽第の造営。

 1588年6月から12月まで、秀吉の母・大政所の病平癒祈願のための天瑞寺の装飾工事。「松の間」「竹の間」「桜の間」「菊の間」と、客殿毎に異なる画題の障壁画で飾り、さらに「山水図」「虎渓三笑図」「富士図」を描いた。

 


 1589年2月からは後陽成天皇の内裏造営にともなう障壁画工事。  1590年3月から12月にかけて新設された八条宮家御殿に、「檜図屏風」「花鳥図屏風」「秋草図屏風」「源氏物語図屏風」を制作する。

 この頃、狩野派に対抗する絵師集団が存在した。能登出身の長谷川等伯(1539-1610)とその息子たちである。

 等伯は20年近く京都で活動を続け、初めて朝廷の作事、新内裏対屋(たいのや)障壁画工事を受注する。

 これを知った永徳は妨害工作を企んだ。

 1590年8月8日、武家伝奏役を務めていた権代納言・勧修寺晴豊(1544-1603)を永徳ら3人で訪問して、等伯の受注阻止を依頼。弟・宗秀は尻懸(牛馬の臀部に懸ける組紐)を、息子・光信は扇子10本を持参した。

 11日に晴豊は、前関白・九条兼孝を動かして、秀吉の作事奉行・前田玄以に圧力をかけ等伯への発注の撤回に成功。そこで13日に永徳ら3名がお礼のため、晴豊宅に樽酒と帯を持参、祝杯を交わしたという。『晴豊公記』

 


 永徳はこのあと、長年の過労のためか体調を崩して、京都五山の一、東福寺法堂の天井画「幡龍図」の制作を9月に入って中断。秀吉の命で、一番弟子の狩野山楽光頼(1559-1635)がこれを引き継いだ。

 9月14日永徳死去。47年の生涯だった。

 9月21日、光信は内裏障壁画工事完了のお礼のため勧修寺晴豊を訪問し、
 9月25日には、永徳の領地、山城国大原郡の百石を相続した。

(1593年、秀吉が造営した祥雲寺の障壁画工事をついに長谷川等伯が受注。狩野派と長谷川派が並び立つ時代が到来する。祥雲寺から智積院に移された「桜図」「楓図」「松に秋草図」ほかは、現在国宝に指定されている。)


◆◆【5】肖像画の内容◆◆

 織田信長の没後追善供養のために、豊臣秀吉から狩野永徳に発注された肖像画であり、永徳が参考にしたのは、息子・光信が信長の生前、御前にて写生した寿像だった。

 この光信作の寿像は、早稲田大学図書館所蔵『藝海余波(第7集)』に貼り込まれた、江戸時代の写しとされる作品であると推測する。

 画像ページの〈参考図1〉に見る通り、描かれた信長の姿かたち、サイズともほぼ同じであるため、

 永徳は光信作品を敷き写しした上で、毎年の法要に用いられるのにふさわしい表情、小道具、衣装に微調整したのであろう。

 


 宣教師ルイス・フロイスの『イエズス会日本年報』によると「(織田信長の葬儀の後)自然のままに写したる信長の肖像を僧院に遺した」と記されていることから、

 1582年10月10日から17日にかけてとり行われた大徳寺での葬儀に用いられた肖像画は、本作(正確には現状のように改変される以前の本作品)であったと考えている。

 近年の修復作業によって表装が剥がされ、本作品の裏側に彩色(裏彩色)が見つかった。そして表の絵柄と、裏彩色の絵柄が一致しないということが、2011年6月7日メディアによって報じられた。表裏の相違点を列記してみよう。

 

 

1.完成像では薄藍色一色に塗られた小袖は、裏彩色では左右が薄茶色ともえぎ色の「片身替わり」と呼ばれる当時流行の意匠であり、

2.小袖の文様は小さめの白い桐紋は、大きめの白い桐紋で朱色が点じられており、

3.脇差は短刀一本に対して、大刀・短刀の二本を佩いていた。

4.小さめの扇子は、大きく描かれていて

5.両下がりの口髭は、ぴんとはね上がっていた。

⇒ 〈参考図2〉参照。
 

 


 裏側に描かれた図柄こそが当初のオリジナルだったはずであり、

 永徳は、光信のシンプルな下絵を、おそらく公の場に発表するのにふさわしい姿、傾奇(かぶき)者でバサラ大名であった信長の出で立ちを彷彿させる姿に描き上げた。

 それはフロイスが、自然のままの信長と評した姿そのものであった。

 画賛はない。信長の頭上には賛を書くための十分な余白が取られているのだが、ついに賛は書かれなかった。

 これが10月の葬儀に用いられた肖像画だったと思われる。
 


 

 

 〈参考図4〉の大徳寺総見院が所蔵している束帯姿の信長像も、上部に画賛のための余白があるのに賛がなく、口髭の先端は、本作の裏彩色と同様上向きにはね上がっている。

 これらのことから、大徳寺本坊所蔵の本作品「裃(かみしも)姿の信長像」と、総見院所蔵の「束帯姿の信長像」は同時期に作られた姉妹作品であった可能性があるのだ。(元々は両作品とも総見院に伝来。)

 バサラ大名バージョンと、太政大臣従一位の正装バージョンである。

 肖像画は決して死蔵するために描かれることはないのであり、束帯姿の画像はおそらく、1583年の信長一周忌に用いられたのではないかと考える。

 またこれら2作品に画賛がないのは、永徳としては追慕像に賛は書かれるものとしてスペースを用意したにもかかわらず、秀吉の心変わりによって、亡き主君を称える文章など不要との指示が、大徳寺住持に下されたのであろう。
 


 そして1584年の信長三回忌のためには、2年前の葬儀に用いられた本作品の信長像が再び掛けられることになったが、信長の威光をもはや貶めたいと考えている秀吉は、元々の光信の下絵と同じ、簡素な衣装に描き替えさせた。

 小袖は単色で、紋様は小さく、脇差は1本、扇子も小さく、髭は下向きに。

 小袖は全体を白で塗りつぶされた上で、薄藍の絵具で覆われたのである。絹本著色画を塗りつぶせば、厚塗りとなり耐久性は劣化せざるを得ない。

 掛軸は何度も巻いたり広げたりするものであるから、厚塗りの小袖の胸倉や右肘部分には絵具の剥落が生じてしまった。

 短気そうに見える眉間のしわも、この際に加えられたものであろう。このしわさえなければ、実に自然で澄んだ表情をしているのであるけれど。
 


 画像ページには、永徳様式の信長肖像画を勢ぞろいさせたわけであるが、容貌はそれぞれ微妙に異なる。

 施主の思い通りに描き替えられて、表情・装束・室内意匠など変幻自在でお手のもの。肖像画というものは、着せ替え人形なのだということをつくづく考えさせられる。

 とはいうものの、


〈参考図5〉大雲院本を見て、内裏に参上する信長はこんな感じとか、

〈本作品〉大徳寺本は、敵が明智の手勢と告げられ、「是非もなし」とつぶやく信長で、

〈参考図3〉早稲田本は、1582年6月1日の夜更けの本能寺で、信忠と武田攻めを語り合う信長、あるいは、

 天下一の風光や、名馬や鷹、能役者、力士、棋士、芸術家、武将、名刀、茶碗等を前に上機嫌の信長、

 そんなことが空想できるのも肖像画ならではだろう。

 

 

 

 

 

 


〈参考文献〉

「絵師 ものと人間の文化史63」武者小路穣著(法政大学出版局)1990年

「戦国武将『お墓』でわかる意外な真実」楠戸義昭著(PHP文庫)2017年

「戦国武将の肖像画」二木謙一・須藤茂樹著(新人物往来社)2011年

「肖像画の視線」宮島新一著(吉川弘文館)2010年

「歴史読本 特集 日本の英雄 肖像大全」(新人物往来社)2006年

「日本肖像画史」成瀬不二雄著(中央公論美術出版)2004年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「狩野永徳展図録」京都国立博物館(毎日新聞社)2007年

「ブック・オブ・ブックス 日本の美術33 肖像画」宮 次男著(小学館) 1975年

「日本美術全集10 黄金とわび」山本英男著(小学館)2013年

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「日本美術全集17 桃山の障壁画」宮島新一他(学研)1971年

「史籍集覧.25 第五十八 信長公阿彌陀寺由緖之記録」常誉説音著 1731年 【国立国会図書館デジタルコレクション】

『藝海余波(第7集)』松平斉民収集 【早稲田大学図書館WEB展覧会】No.32館蔵「肖像画」展 -忘れがたき風貌- Part.2

 


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★★★織田信長肖像画(大徳寺蔵)

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