初めての中国地方の旅は、
山口県の岩国市でした。
新幹線のぞみで広島県入りし、
こだまに乗り換えて岩国に着きました。
先に安芸の厳島神社と平和公園を
紹介しましたので、順序は逆に
なりますけどね。
タイトルに掲げました
「周防なる磐國山を越えむ日は
手向けよくせよ荒しその道」
これは万葉集576歌(第4巻)です。
今から1289年前に詠まれました。
意味は、
「山口県の岩国の山越えをする日は
道祖神のお供えを念入りに。
険しい道が続きますので」
岩国の欽明路峠は、急な坂があり、
「山陽道四十八次」の最大の
難所といわれていたそうです。
岩国の城山は標高200メートルですが
最初から歩く気のない私たちは
岩国城ロープウェーを使用。
岩国城ロープウェーからの眺め
「周防なる…」の歌の作者は、
少典山口忌寸(いみき)若麻呂、大宰府
(福岡県)の4等官で正八位でした。
この歌の詞書(ことばがき)によると、
天平2年(730年)6月、
大宰府長官だった大伴旅人(たびと)が
重病になったので遺言のため、
朝廷に許可を得て、役人だった
親戚二人を早馬で呼びました。
ところが旅人は3週間ほどで回復して
しまい、見舞いに来た二人は馬で帰京
することになりました。
それで旅人の身内や親しい部下が、
駅家(うまや)まで見送りに行き
皆で酒を酌み交わします。
このときの送別の歌がのちに万葉集に
記録されたようです。
大伴旅人(665年-731年)は飛鳥から
奈良時代にかけての政治家で歌人。
万葉集の編者・大伴家持の父です。
旅人は、天武天皇の孫である長屋王
のもとで武官として出世しましたが
728年に大宰府の帥(そち)となり転勤。
齢(よわい)60となっていました。
その翌年に、藤原氏によって
長屋王と一族が誅殺されます。
けれども脚の病で死に損なったという
この年(730年)、秋になると大納言に
昇進し、めでたく帰京を果たすのです。
わざわざ京から縁者を呼び寄せたのは
都へ戻るための工作の打ち合わせの
ためだったのかもしれません。
「旅人が岩国山を越えられる様、どうぞ
藤原氏に対してお供えを念入りに。
都に戻る道は険しいですから」
と、こう読みたくなりませんか?
岩国城天守閣からの眺望
この天平2年は、大伴旅人が有名な
「梅花の宴」
を催した年でもあります。
正月13日、旅人は自宅に
九州各地からいろいろな職業の
友人(歌詠み)を招きました。
筑前守、筑後守、豊後守、壱岐守、
大典、少典、大判事、神司、薬師、駒師
陰陽師、薩摩からも大隅からも
その数31名。
旅人はこの宴会の挨拶で
「文章でなくては心を露わにできる
ものはない。ここに庭の梅を
題として短歌を試みよう」
と述べています。
そして、主人である旅人と合わせて
32の歌が詠まれました。
「春さればまづ咲く宿の梅の花
ひとり見つつや春日暮らさむ」
(筑前守山上憶良大夫)
「わが苑に梅の花散るひさかたの
天より雪の流れ来るかも」
(主人)
「梅の花折りかざしつつ諸人の
遊ぶを見れば 都しぞ思ふ」
(土師氏御道)
員外として追加された旅人の一首は
都に戻りたい一念で歌います。
「雲に飛ぶ薬食むよは 都見ば
いやしき吾が身 またをちぬべし」
歌の意味です。
「空を飛ぶ薬を飲むより、都を見れば
みにくい我が身も 若返るであろう」
これらには旅人自身の序文が加えられ、
後に息子の家持によって、万葉集
第5巻に収録されることになりました。
序文の冒頭近くに
次の一文があります。
「初春の令(よ)き月、
気淑(よ)く風和(なご)み、
梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」
その意味は
「初春の良き月
大気はうららかで風は和やか、
梅は白粉(おしろい)のように花開き
蘭は腰につける匂い袋のように薫る」
そして序文の最後は、
「文章でなくては心を露わにできる
ものはない。落花する梅の詩も書かれては
いるが、昔も今も文に託する思いは
変わらぬ。ここに庭の梅を
題として短歌を試みよう」
と結ばれるのですが、
あなたはもうお分かりです。
現在の元号「令和」の典拠とされた
のは、万葉集第5巻の大伴旅人作
「梅花の宴 序文」でしたね。
岩国旅行のブログが令和に
つながってしまいました。
人は誰しも、人生(たび)の最後は故郷に
帰りたいと思うものなのでしょう。
中央の錦川にかかる眼鏡橋が
有名な錦帯橋。