大河ドラマのせゐではないが、平安時代にはまつてゐる。

 

平安末期の治天の君、後白河法皇といへば、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽と、五代の天皇に渡つて院政を敷き、清盛、義仲、義経、頼朝と渡り合つた専制君主として知られてゐる。NHKで演じた俳優は、中尾彬、平幹二朗、松田翔太、西田敏行。中でも中尾彬の風貌は忘れがたい。

 

後白河院は、今様(流行り歌)を集大成した『梁塵秘抄』の著者としても名を残した。それは現代の歌謡曲のやうなもの、と云ふより、和歌を演歌調にしたものと云ふ方が、イメージ的に近いかもしれない。
 
書かれた当時は五千首を収め、万葉集に匹敵するやうな大部の著作だつたが、現在伝わつてゐるのは、五百七十一首。仏教を礼賛した和讃臭いものばかり残つて仕舞つたので、面白いものはあまり多くない。
 
では、和歌はどうだらうか。岩波書店の『新日本古典文学大系』から、後白河院の和歌を調べてみる。すると千載和歌集に七首、新古今和歌集に四首見つかつた。あまり技巧に走らない素直な歌であつた。これまで描かれて来なかつた人物像がここにある気がして、大学ノートに書写する。
 
二首目、詞書(ことばがき)がよくわからない。和歌には訳が付いているが、詞書は注のみ。古語辞典と高校の文法書を引張り出して逐語訳を試みる。
 

秋歌下

 

月照紅葉といへる心をゝのこどもつかうまつりける時、よませたまうける

 

院御製

 

もみじ葉に月のひかりをさしそへて これや赤地のにしきなるらむ

 

 


 

「月照紅葉といへる心」……『月がもみじを照らす』といふことが出来る境地。さう考えたが、間違つた。「いへる心」とは、四段活用の「云ふ」の已然形「云へ」に助動詞が接続して、体言「心」が付く。下の『活用表』を見ると、「いうことが出来る心地」の意味ならば、可能の助動詞「る」の連体形「るる」が接続して「云はるる心」でなくてはならない。
 
「いへる心」は、四段活用の已然形「云へ」に完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」が接続したもの。意味は、「云ふ」という行為が完了・存続することだが、「月照紅葉といへる心」……『月照紅葉』と云つた趣向、あるいは単に『月照紅葉』と云ふ情景、でよいと思ふ。
 
 
「ゝのこどもつかうまつりける時」の「ゝ」は繰り返し文字で「をのこども」となり、これは「人に仕へる者ども」「従者」「側近」の意味。
 
「つかうまつり」とは「お仕へ申し上げる」「~して差し上げる」「お作りする」ことで、「ける」は過去・詠嘆の助動詞「けり」の連体形。併せると「側近たちが和歌をお作りした時」となる。
 

 

最後の「よませたまうける」は、使役の意味で、院の和歌を「側近に詠ませた」「代詠させた」と思つたがこれも違つた。
 
四段活用の動詞「詠む」の未然形「詠ま」に、使役・尊敬の助動詞「す」の連用形「せ」が接続し、さらに四段活用の動詞(用言)「給ふ」が付くのだが、この場合の「す」の意味は使役といふより尊敬。
 
単なる「給ふ」といふ尊敬語に、さらに使役の形による尊敬を加へて、「誰かにお詠ませになる動作をくださる」の意を表はすことになり、一段と厚い尊敬の表現となる。「給ふ」に、連用形に接続する助動詞「けり」が連なるので「給ふ」は「給ひ」と活用する。にもかかはらず「よませたまうける」とあるのは、発音の都合上「ひ」が「う」となるウ音便とのこと。

 

過去・詠嘆の助動詞「けり」には伝聞の表現にも用いられる。ただし、「ける」と連体形であるのに、体言が続いてゐないのは何故か。「係り結び」ならば「ける」で終はつてよいが、「ぞ、なむ、や、か、こそ」つまり「係りの語」はない。これは、辞書にも文法書にも見つからず、ネット検索。

 

「係り結び」でなく連体形で終はるのは、(1)余情(詠嘆)を表はす場合、(2)「ける」の直後が「和歌」なので、これを体言とみなす(準体法)場合、とあつたが、ここでは「準体法」が正解だらう。意味は、伝聞として「お詠みになられたさうである」としよう。

 

では、以下に大系の訳を参考に私訳を処々交へて、十一首を紹介。

 


 

千載和歌集

 

 

春歌下

 

御子におはしましける時、鳥羽殿にわたらせたまへりけるころ、池上花といへる心をよませたまうける

 

78 池水に みぎはのさくら ちりしきて 波の花こそ さかりなりけれ

 池の水面(みなも)に岸辺の桜が一面に散り敷きて、波の花は今が盛りだよ

 

 

秋歌下

 

月照紅葉といへる心をのこどもつかうまつりける時、よませたまうける

『月照紅葉』と云ふ情景を側近たちが和歌にお作り申し上げた時、お詠みになられたさうである

 

360 もみじ葉に 月のひかりを さしそへて これや赤地の にしきなるらむ

 赤いもみじの葉に月が、金糸銀糸の光を差し添へてゐる。これぞ赤地の錦と云ふものだらう

 

 

賀歌

 

御子にておましましける時、鳥羽殿に渡らせ給へりけるころ、八条院内親王と申ける時、かの御方にて、竹遐年友といへる心を講ぜられけるに、よませ給うける

 まだ親王でいらつしやつて、鳥羽離宮でお過ごしになつてをられた頃、妹の八条院が内親王と申した時分に、彼女の御邸にて、『竹は遐年(かねん:長い年月)の友』と云ふ趣向で熟考されて、お詠みになられたさうである。

 

606 幾千代と かぎらざりける 呉竹や 君がよはいの たぐひなるらん

 この幾千年と限りのない長寿の呉竹こそが、君の齢に並ぶものでせう

 


 

 

恋歌二

 

逐日増恋といへる心をよませ給ける

 

717 恋わぶる けふの涙に くらぶれば きのふの袖は 濡れし数かは

 恋の苦しみに嘆く今日の涙に比べれば、昨日までに涙に濡れた袖など濡れた内に入るものではないのに

 

 

恋歌三

 

位の御時、皇太后宮初めてまゐり給へりける

後朝(きぬぎぬ)につかはしける

 

797 万世を 契りそめつる しるしには かつがつけふの 暮ぞ久しき

 幾久しくと初めて契つた証しには、まだ出て来たばかりと云ふのに、今日の日暮れが久しく思はれてなりません

 

 

同じ御時、忍びて初めてまうのぼりて侍りける人に、朝政(まつりごと)のほどまぎれさせ給ふことありて、暮にける夕つかたつかはしける

 

798 今朝問はぬ つらさにものは 思ひ知れ 我もさこそは 恨みかねしか

 けさは後朝の便りができなかつたけれど、便りのないつらさから私の仕事を思ひやつてください。私もあなたと同じやうにつらく、恨んでも恨みきれない気持ちだつたのです

 

 

恋歌四

 

うへのをのこども、老後恋といへる心をつかうまつりけるによませ給ける

 

866 思ひきや 年の積るは 忘られて 恋に命の 絶えむものとは

 思つてもみなかつたことだ、年を取ることが忘られて、若々しい恋に息が止まる思ひをするとは

 


 

新古今和歌集

 

 

春歌下

 

題しらず

 

146 惜しめども 散りはてぬれば 桜花 いまは梢を ながむばかりぞ

 惜しみながらも散り果てゝ仕舞つた桜花よ、今は梢を眺めて物思ふのみ

 

 

冬歌

 

鳥羽殿にて、旅宿時雨といふことを

 

579 まばらなる 柴の庵に 旅寝して 時雨に濡るゝ 小夜衣かな

 今は亡き父母の離宮に旅寝をすれば、時雨の音にも、夜着を涙に濡らす

 

 

雑歌上

 

御悩み重くならせたまひて、雪のあしたに

 御病気が重くおなりになつた、雪の朝に

 

1581 露の命 消えなましかば かくばかり 降る白雪を ながめましやは

 露のやうにもろい私の命が消えてしまつてゐたならば、これほどまでに美しく降る雪を、しみじみと見入ることがあるのだらうか

 

 

雑歌下

 

最慶法師、千載集を書きて奉りける包紙に、墨を擦り筆を染めつゝ年経れど書きあらはせる言の葉ぞなきと書き付けて侍ける御返し

 最慶法師が院の下命を受け、千載集を清書して献上する際、包み紙に「墨を擦り筆を染めつゝ年を経ましたけれども、ここに書き写せる私の和歌はございません」と書き付けてありましたことへのお返しに

 

1726 浜千鳥 ふみおく跡の つもりなば かひある浦に あはざらめやは

 浜千鳥の足跡のやうに書き連ねた歌文が山と積るならば、千鳥が貝のある浦に出会ふやうに甲斐あつて和歌の浦に面目を施すこともあらうから

 


 

をんなにも、をとこに対しても優しさを分け与ふ。さうして逸話を漁れば、芸や技に優れた民への畏敬の念を忘れない帝でもあつた。さうした後白河院をいつかドラマで見たいものである。