川上弘美『某』 | 空想俳人日記

川上弘美『某』

 前に読んだ筒井康隆『創作の極意と掟』の「妄想」についてブログ記事「筒井康隆『創作の極意と掟』」にこう書いたよ。
【もとは妄想であった女性作家の作品として、「川上弘美の諸作品」だと著者さんは言い、著者さんは彼女の作品をほとんど読んでいるそうだ。ボクも川上弘美の妄想は大好き、なんだ、一緒じゃん。ボクも川上弘美は相当読んだヨ。「物語が、始まる」「蛇を踏む」「いとしい」「神様」「溺レる」「おめでとう」「椰子・椰子」「センセイの鞄」「パレード」「龍宮」「光ってみえるもの、あれは」「ニシノユキヒコの恋と冒険」「古道具 中野商店」「夜の公園」「ざらざら」「ハヅキさんのこと」「真鶴」などなどなどなど。なんだなんだ。やっぱ、作家は、理想や思想や空想や構想や予想や夢想や奇想や追想よりも、妄想を大事にしなければならない、そう思う。久しぶりに、川上弘美小説を読みたくなったよ。】
 ということで、読んだのが、『大きな鳥にさらわれないよう』『川上弘美訳「伊勢物語」』、『伊勢物語』の翻訳後、インスパイアされて書かれた『三度目の恋』だったね。
 それでも、なあんか読み足らず、「そだ、まだ読んでない短編を読も」ってんで、『ぼくの死体をよろしくたのむ』も読んだわけ。
 それでもそれでも、もうちょっと・・・。てんで、この『某』を読むことにした。

川上弘美『某』01 川上弘美『某』02 川上弘美『某』03

 主人公には、つい先ほどからの記憶しかない。記憶喪失者の話かと思いきや、違った。記憶喪失物語は、だいたいが失われた記憶が蘇る物語で、これはドラマ化するには安直すぎるほど受けやすい。相方みっちゃんが、
「今、テレビドラマの3本が、記憶喪失の話なんだ」と、聞いた。ほりゃ、視聴者は、主人公と同じように記憶を辿る「わくわくする」という構図が描けてしまうので、金太郎飴のごとく、物語になりやすい。
 しかし、これは違う。記憶は蘇らない。新たな人格を形成していく。アイデンティティーを構築していく。昔、『僕って何』という芥川賞作品があった。三田誠広だったと思う。読んだけど、全然深くないので面白くなかった。
 記憶を蘇らせる記憶喪失物語や『僕って何』みたいなのは、肌に合わない。そんなんなら、最初から人間じゃない奴らが人間性を確立する話のが面白いじゃん。
 手塚治虫の『火の鳥』に出てくる不定形生物ムーピーを思い出した。また、ヨシタケシンスケの『なつみはなんにでもなれる』を思い出した。
 そして、ふと、読む前から、本当は、ボクたちは、「なんにでもなれる」はずの生き物なのじゃないか。そんなふうに思いながら、絶えず擬態を繰り返す主人公になりきって読んでいった。なので、男であろうが女であろうが、お釜であろうが、感情移入して読んだ。

川上弘美『某』04

【女子高校生の丹羽(にわ)ハルカ】
 病院と高校を行ったり来たりのハルカに二人の友人が出来る。が、その二人は仲が良くない。ときには三人で遊ぶこともあるが、二人は口をきかない。
 その一人と銭湯へ行く。そのシーンの中に、ハルカが描写する彼女に対し、自らの身体の描写が少ないのにちとがっかり。ま、いいか。
 停滞し出したので、医師が疾走を勧め、次の人格に。

【男子高校生の野田春眠(はるみ)】
 性欲ばかりが頭から離れない彼は、いったい何人の女とセックスするのか。最終的には、同じ高校の同級生、二人の女子と関係を続けるが、うまく行くはずはない。ばれた。体育館の裏へ呼び出され。この体育館の裏は、いつの時代でも、高校生活の真実が潜む場所なのだろう。
 ちなみに、彼は、決して本当の性欲一辺倒の男ではないと思う。ただセーブが出来ないだけ。いや、セーブする必要性が分からないだけ。いや、むしろ、セーブすること自体が無意味なのだ。

【高校事務職員の山中文夫】
 同じ高校の先生(ハルカの担任だった)とガールズバーへ行く。そこで知り合うリカという女。誰かに似ている。彼女といたい。でも、男子高校生のような性欲ではない。結局、セックスすることはするが、だからと言って、満足していない。というよりも、まるで近親相姦の気持ち。
 そうなのだ。ここで、これが自己愛だということがわかる。愛したリカは、かつての自分、ハルカだった。

【キャバクラ勤めの神谷マリ】
 前任3者が病院を自宅としていたのに、マリは嫌気がさしで遁走。夜逃げ屋の山田の家へ転がり込む。
 キャバクラでの源氏名はレミ。新入りのモナから昼間のバイトに誘われる。他者が語る動画から物語を拾い紡ぐ仕事。しかも彼女は「物語にならない物語」の係に。この「物語」というものは、人の存在を位置づけるものであることがわかる。ほら、ユヴァル・ノア・ハラリも「世界はフィクションで出来ている」(『まんがでわかる サピエンス全史の読み方』参照)と言っている。
 そして、ここで初めて登場する「誰でもない者」というコトバ。山田は、マリがそうであることをうすうす気づいていた。山田もそうかも。違った。夜逃げをする前は山田は佐伯ナオ。
 そして、山田、いや、ナオと4回目のセックスを。一番親密で気持ちのいい。野田春眠も山中文夫も味わっていないもの。
 そして、マリはナオと16年は一緒に。

【カナダで暮らす二十代女性ラモーナ】
 ナオが倒れて入院する。そして、死亡。マリは、夜逃げ屋の親方が偽造したパスポートでラモーナとしてカナダへ。
 ラモーナは、カナダのトロントで、共同生活をする。ナオトと香川さん。二人の遣り取りに対し次のように分析をする。
《言語は文化背景によってつくりだされるわけだから、表面上は同じ意味を持つ二つの言語があったとしても、それらの言葉の意味は、必ずわずかなずれを持つ。そのずれについて追求するのは、非常に困難なことだ。たいがいの場合、その文化の中でマイナーな立場の者は、目をつぶっていったん判断を停止し、違和感のある言葉の中を、ゆらゆらと適当に泳いでゆく。》
 フッサールの『現象学の理念』で有名な「エポケー」だよ。
 また、ラモーナは、これまでの自分を顧みる。
《今までに私が経てきた者たちには、食べるということへの関心が、ほとんどなかった。春眠のように、女たちとの関係をつくることに非常に意欲的である、あるいは、文夫のように、自分自身を追究することに積極的である、あるいは、マリのように、愛について感じることを希求する、など、何かとの関係性を吟味することに関しては大いに時間を割いていたが、おいしいものを食べて喜んだり、本を読んで愉しんだり、映画を見ることを慈しんだり、ということに関しては、ほとんど時間を割こうとはしなかった。》
 自分の位置よりも、自分を慰撫すること。そう、関係性ばかりに気を取られると自分が見えなくなるのだ、それをラモーナは気づいてる。 
 さらに、ラモーナは、肋骨に痛みを覚える。それは、先の香川さんが悲しんでいる時に起きる症状だ。「共感力」のせいだね。簡単に言えば、人の痛みを感じることが出来るということだ。人の痛みを知るということは、その痛みを和らげてやりたいという、自分の痛みも解消するために。
 ラモーナは帰国すると、かつてお世話になった、水沢看護師や蔵医師と再会する。マリが拒絶し遁走した相手だ。肋骨の痛みを相談もする。
 そして、ここで重要なのは、ラモーナは同じ仲間と出会うのだ。そう、マリの時に登場した言葉「誰でもない者」。「誰でもない者」たちと出会うのだ。アルファ、シグマ、カッパ(本人は津田に拘る)だ。彼ら(彼女ら)は、ラモーナを探していたのだ。おそらく、このラモーナが一番感情移入しやすい。あと、アルファが途中で変化して美貌溢れる女性になると、果敢にAV女優として振る舞いながら、爆発的なヒットを飛ばすととともに疲弊していく。ヒットするイコール有名になる。有名になることは疲れるのだ。AVで身体がセックスマシーンになるから疲れるのではない。有名になると疲れるのだ。ほどなく彼女は別の人格に。そして、アルファとともにシグマも変貌。津田くんは、奥さんの不倫で離婚。
 そんなラモーナは5年で、40代の男、片山冬樹になる。まだ続くのか。「誰でもない者」たち、だが、忘れてはいけない。本当に、彼らは人間じゃない生物なのだろうか、と。
 もちろん作者、川上弘美は、このあたりから哲学云々でなく、理屈じゃない、妄想なんだ、だろうと思う。
 ただ、妄想が大事なのだ。

【肉体労働に従事する片山冬樹】
 片山冬樹は、これまでの人格を踏襲しない。明らかに読者が「こうなるだろうなあ」に対して、期待に応えない、川上氏の脱線転覆事故がここで行われる。そうなのだ。文学の中で小説は「何でもあり」と言った筒井康隆氏を実現していく。
 片山冬樹がこれまで変身してきた自我はしっかり認知しているのだが、まったく無頓着に日々を生きていく。過去に何があろうと、新たな人生を歩むんだ、そんな意気込みも感じられる人だ。だから、爽快だが危険である。
 そう、この物語を読んでいると、ポジティブほど怖くて、ネガティブほど寄り添える。何故に、ここで肉体労働に従事する片山冬樹を登場させたのだろう。
 そうなのだ、ここから、多分、読者は、主人公たちに感情移入できなくなる。つまり、「誰でもない者」たちと言うのは、ボクたち人間とは違うと言い放つ。勿論、これは川上さんの妄想から生まれた人間じゃない人々の話。
 でも、ここに至っても、ボクは許せない、というか、これは人間に固執する話だ、そう思う。片山は、日々、まるでヴィム・ベンダース監督『パーフェクト・デイズ』みたいな生活を送る。けど、ちょっとおかしい。彼に記憶の中に、殺人の意識がある。なんだろう。暫くして、ユカをハルカと認識して抹消したこと、本当は絶対的他者であるユカを殺したと理解してみる。
 そのうち、前述のアルファとシグマが性的にひっくり返って、しかも、子どもを作る関係になっている。ここで見事、子どもが出来るのだが、その出来方が……。
 川上氏は、ここに至っても、ボクらを裏切る。人間離れした彼ら、それは、シグマの分裂として描かれる。シグマの嬰児として生まれるのでなく、シグマが二人になる。
 たぶん、読者は、そろそろついていけないのではないかと思う。ところが、ボクは夢の中に、同じような現象を経験する。
 過去を生きるボクが何度も登場する。そして、過去に戻るか今を生きるかの瀬戸際で、いつも、「やあめた」と夢を見ることを自己断念するのだ。
 これは、自分にとって、過去に戻って楽しい日々を送るか、今を選んで今を生きるか、なんだ。こんなボクは、いつのまにか、ラモーナから片山冬樹になっている間に、単に読者じゃなく、自分も、そこに参加していることに、気づく。
 片山冬樹は、自分が人を殺した記憶を持っている。それは、山中文夫だったころ、消えたリカがハルカだったと思い込むが、リカは他人だった、殺したのだ、そう思っていた。そして、かつての「誰でもない者」とも交流する。アルファとシグマは、それぞれ男女入れ替わり(アルファは女から男、シグマは男から女)、子どもを作った。ところが、妊娠したシグマは通常の出産じゃなく、二人のシグマに分裂したのだ。シグマはどちらも衰弱していく。どちらかを殺すしかない、と思った時、片山冬樹は、片山になった時点で自分も分裂し、自分の片割れ(もう一人の片山冬樹)を殺したことに気づく。
 先に話した、ボクの夢、過去がいっぱい登場する。そして、最後に過去に生きるか今を選ぶか選択を迫る。過去に生きるのは甘い。でも、ボクは、夢の中で選択をする。「起きればいいんだ」と目覚めて今を生きることを選択する。
 人間じゃないとする彼らを、いつまでも人間に固執しているのは、それは、ボクが単に読み手でなく、ここに登場する誰かにメチャ共感しているからだと思う。そして、共感できるのは、ボクは夢や妄想の中でも生きているからだ。
 それは、次の章の「ひかり」でより分かる。

【嬰児として変化したゆかり】
 ここで、また「誰でもない者」と出会う。高橋さんと鈴木さん。アルファやシグマと同様、イプシロンとミューという季語も持っているが、二人は「そんなの嫌だ」と言う。その二人に、ふつうの人間の子が生まれる。シグマの分裂ではない、みのりという名の男の子。彼は、ふつうに成長する。そうだ。ボクたちは名前を呼ばれて大きくなるのだ。AMIのオリジナルソングにも「ぼくたちは名前を呼ばれて大きくなった」という歌がある。

 なのに政府は国民を記号化する。ボクたちを非人間扱いにする。高橋さんと鈴木さんが成長する人間の子をでかしたことは、意味がある、と思う。
 そして、片山冬樹は、嬰児ゆかりに変身する。みのりとともに高橋さんと鈴木さんに育てられる。実りのように成長するのでなく、1年ごとに、実りに合わせて変貌するのだが。
 いつしか、みのりと同様に、人間そっくりに変身するのでなく成長し始める。あ、安部公房の「人間そっくり」というお話を思い出した。ボクは、「人間とは」を描くのに、もちろん内面の奥深くを探究する方法もあると思うのだが、この小説もしかりだが、そうではなく、人間そっくりな人間を仮説設定して、同じような人間を外から観察し交流するという手法があるではないのか、そう思う。いわゆる人間を客観的に判断するということだ。また、もひとつ、ここに出てくる人間もどき(あ、マグマ大使にも登場した)は、少数、つまりマイノリティだ。マイノリティの視点でマジョリティを描くことは、マジョリティの普通の人間を探求するよりも、ふつうを絶えず疑問視する意味で有効であり、有意義だと思う。かつて、ロボット漫画の大傑作、手塚治虫の「鉄腕アトム」は、ロボットなのに人間の心を持つ。その人間の心を持つロボットの視点から、人間そのものを暴き出している点でも、先駆的で有意義だ。
 この、みのりと寄り添うように生きる、ゆかりは、まさに、人間観察に一番適した環境である。ゆかりは、このお話の佳境的存在だと言える。
 0歳から20歳まで、みのりはいろいろ経験する。失恋もする。そして、いつしか気づく、寄り添ってきたゆかりこそ、愛するべき存在じゃないかと。そして、繋がる。ああ面倒くさい。セックスする。
 ボクがここを佳境だと言ったのは、単純に恋愛する二人を捉えてではない。その関係性で、もしも人間と非人間だとしても、愛し合うことで、お互いの命がいかに重要であるかと言うことを示唆している。
 昨今、同じ人間であっても、核家族化で、家族しか人間と思えない人々、いやいや、それを疎んじる人々、最初の生まれたばかりのハルカやその後の性欲しかないハルミ、そして、自己愛の文夫、それが今の人間じゃないか。それに対し、ここでの、ひかり、そして、みのり、この愛し方は、目を見張るものがある。
 時代は、無人タクシーもあり、あと、多くの国が地球温暖化で沈んでいるという件があるが、著者さんは未来の話に従ってるけど、それは、元アマンダと共に、訳の分からない人は無視してもいいと思う。
 ただ、ここの結末で、ひかりとゆかりに殺意を抱いて、ナイフを向ける輩、ひかりとゆかりが餃子を食ってる席の隣に来てタンメンを食う男。
 こいつが、ひかりとゆかりを殺そうとする行為は、新人類「誰でもない者」への殺意だが、この作品が、コロナ禍以前の作品か以後かよく知らないけど、コロナ禍で露呈した、自分よりも行動する人、コロナなのに動き回る人、ようは羨ましい妬ましい対象は抹殺すべきだ、そういう人の行動、「同調圧力」や「生贄探し」にピタンと当てはまる。巻末を見れば、2019年発表なので、コロナ禍前だ。ということは、このお話は、コロナ禍で露呈したマジョリティによるマイノリティの弾圧、同調圧力、生贄探しを既に予測していたということだ。凄いと思う。
 そんなわけで、「誰でもない者」が気に食わない、羨ましい。「俺だって、くっそ~」と言う人間が、みのりとひかりにナイフを向ける。

【みのりーひかり】
 ということで、ある意味あっけないのだが、ボクらと同種の人間が。自分たちは選択肢から一つしか選べずずっとそれで生きるのに、そうじゃない何でもなれる新たな人類をボクたちは憎んで起こす殺人事件。
 この頃は、無人タクシーや地球温暖化で水没した島々など、近未来的にも思える設定が見られるが、明らかに、このコロナ禍で露顕した同調圧力や生贄探し、ようは「出る杭を打つ」行為がここに描かれているのじゃなかろうか。この作品は2019年に出ているから、コロナ禍の前だ。なのに、作者さんは、あたかも予見するように、人々が妬み羨むような行動をするマイノリティな人種を叩くということを描いている。
 そんな事件で、ひかりは死ぬ。ひかりのかわりに、みのりが語るのだが、そのうち、みのりが初めて変身する、それは、ひかり。
 これで終わる。なんか、訳わからないうちに、終わっちゃったよ、と言う人は多いかもしれない。ただ、そこの、「訳わからない」っていうのは、最初からあったはずだ。それでも、我慢してお付き合いした人が、多分に、マリあたりまで面白がって、あとは、面白いかどうかも分からない、じゃなかろうか。
 それも、そのはずだ。実は、ボクたち人間は、マリあたりまでが共感できる。さらには、ボクのように、これまでの自分に無頓着な片山冬樹に共感できる、あたりまでじゃないかな、共感力は。
 それ以降は、反感力、あるいは分けわからんが働くと思う。
 ところが、どうだろう。もし自分が「誰でもない者」の一人、つまり、いったん人間を判断停止しエポケーし、彼ら「誰でもない者」の誰かひとりに共感できたなら、最後まで、凄く分かると思う。しかも、人間を自分のうちに観察するのでなく、自分とは違う異なる存在として。
 この小説は、それを狙っているのだと思う。人間自身が、人間の内面を語ろうとしたって所詮限度がある。じゃあ、人間じゃない、人間の心を持つアトム、とか、人間そっくりさんに、人間を語らせたらどうだろう、これが、この『某』なのだ。
 あちこちに散りばめられた、「誰でもない者」から見た人間の感想、それを追うだけでも、この作品から人間哲学が学べると思う。
 いやいや、哲学なんて難しい、そういうもんじゃない、純粋に、ああ、なんで好きなのだろう、あの人が。好きなら好きでいいだけど、好きって、どういう意味かな、ふと知りたくなる。
 この小説は、先にも述べた、記憶喪失の推理小説ではない。記憶なんか、誰でも喪失する。記憶を自分のアイデンティティにする、その過程が描かれている。

〈全体をみる〉
 主人公は人間じゃない、そんなSF物語か。いや、ではなく、やっぱり人間だと思う。ボクたちは、なつみのように何にでもなれる。でも、何かになるということは、選択するということだ。そして、選択した以外のモノを削除しなければならない。いや、見た目は削除だが、無意識に押し込めるというか。もともと、ボクたち人間は、多重人格だと思う。もちろん、ジェンダーの話をしてもいいが、そういうことだけではなく、ボクたちは、社会の中で何らかの役割を持って参加しながら生きていく。ただ、その際、ひとつに絞るのでなく、いくつも演じられる人がいる。この世の中では、ワークライフバランスという。
 もちろん、このお話のように、染色体にふさわしい外見に変貌することはできない。男の外見のボクは、見た目は男でしかない。しかし、このお話に寄り添うように、自らを七変化させながら主人公に共感しながら読めば、いかに自分がなんにでもなれる存在であるということがわかって来る。そう、「誰でもない者」である主人公に共感するということは、人間を対自物として観察するということだ。
 そして、だからこそ、世の中にいる人間たちも、単にひとつの選択をして演じているだけで、見た目も心も自分とは似てもいないかもしれないが、生まれながらにして似ていたかもしれないことがわかって来る。そう、生まれた時は「誰でもない者」だったかも。だから、成長は退化かもしれない、そんな表現も書かれているのだ。
 まさに、それを、作者さんは、「あなたも誰でもない者なんですよ」と言っている気がする。だから、「何にでもなれるんですよ」と。
 ボクも、なんにでもなれると思いながらも、60歳に変身して、今一番大事な自分を選んでいると思う。
 ちなみに、もし、ここに登場する「誰でもない者」が「某」という新人類だとすれば、これまでの旧人類は安部公房の「棒」かもしれない。


川上弘美『某』 posted by (C)shisyun


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