川上弘美訳『伊勢物語』 | 空想俳人日記

川上弘美訳『伊勢物語』

 川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』を読んで、まだ読んではいない彼女の本を読んでみよう、そう思って本屋の棚を見てたら、これを見つけたのね。へええ、『伊勢物語』訳してるんだ。読んでみよ。

川上弘美訳『伊勢物語』01 川上弘美訳『伊勢物語』02 川上弘美訳『伊勢物語』03

「むかし男ありけり」、これ読んだの、中学の時じゃなかったっけ。確かな記憶はあいまいだが、そんな気がする。あれえ、中学に古文ってあったっけ、中学は国語だよなあ、とも。でも、やっぱり、中学の時に文庫か何かで読んだ気がする。気違いかもしれない。
 男とは、在原業平だ、そう思っていたが、改めて読んで、ここに書かれている男が全て在原業平だとは思えなんだよ。まあ、男が在原業平であろうが平平平平であろうが誰でもいいんだけどね。

川上弘美訳『伊勢物語』04

 気になった段、メモ程度に書くね。

六段
 女が「あ」と声をあげると、鬼に喰われて、いなくなった。手の届かない女を長い間くどいて女を盗んだのに。
 ステキだ。

九段
《唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ》
 この歌、覚えてるよ。たぶん、他の段に比べて、お話が結構展開されているので、記憶に残ってるのでは。

十四段
 都に帰る男が「栗原のあねはの松が人なら連れて帰るんだけど、あなたは、あねはの松と同じでこの地を離れられない、残念だ」という言い訳の歌に、女が「まあ、あたしのことを思ってくれているのね」と喜んじゃうのは面白い。

二十二段
《憂きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつつなほぞ恋しき》という歌を川上さんは「あなたはすこし ひどいひと でも忘れられないひと きらい と思おうとしても やっぱり好き」訳したのに、「ほほう」と思うとともに、秀逸だ。

二十四段
 去っていった男。悲しんだ女。男の後を追うが追いつけない。清水が湧くところで女は倒れ、指から血を絞り出して歌を綴る。
「行ってしまったあなた もうあたくしは 消えてしまうしか ないのですね」という歌。そして息絶えた。三年も帰らず女が他の男と契りを交わすことに、「新しい人を愛してください」なんて、この男こそ在原業平だよな。

三十段
《逢うことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ》
 この歌の川上さんの訳が潔くて気持ちよい。
「逢うのは 一瞬 恨みは 永遠」

三十四段
 情けなくもやまれぬ、あわれな男ごころ。
「言葉にしようとすれば口ごもる 心にとどめようとすれば思い乱れる わたくしは孤独です このおもいを誰にもわかってもらえないのだから」
 上手いなあ、この訳も。ほんとに男は情けない生きものヨ。

三十七段
「わたくしではない男に 下紐解くな」とは、なんと直接的なこと。それに対し、
「二人で 結んだ紐ではありませんか」だってえ。まいったねえ。

四十段
 ふうん、親が許さぬ愛。女を親の命で連れ去る者。それに対し、男は泣きながら
「あなたご自身で 出ていったなら 別れはこんなにつらくなかった」と詠んでm気を失うとは。親は慌てて神仏に祈る。次の日の夜に息を吹き返す男。昔の若者は一途。今どきの訳知り大人はこんな恋はできへん。いやあ、現代の男に、教えてあげて。

四十二段
 多情の女と情を交わした男は女の心変わりを恐れ、2,3日行けない日があったので歌を詠む。
「あなたへと通う わたくしの足あとは まだ残っているでしょう そしてそのまま 誰かの足あとと 重なっていつことでしょう」
 あはは。疑い深い男。ただ、本当かもしれない。後が書かれてない。

四十七段
 男を浮気者と聞いてた女は、冷淡に
「大勢の女たちから引く手あまたなひと あなたを思わないことはないけど あてにはしていないの」と。男は
「川に流されれば 流れよる瀬があるというもの あなたこそが その瀬なのです」
 上手いこと言うのう、この男。

四十九段
 おいおい、いもうとに惚れた男かよ。
「若草のようなあなた 草の根の「ね」のように 共「寝」したく思われるあなた よその男が 共寝することを思うと くやしくてならぬ」という歌を詠む。すると、いもうと、
「初々しい草の芽のように なんとめずらしいお言葉を あたくしはただ あにいもうとだと 素直に思っていましたものを」
 ありゃりゃんりゃん。あに様、残念。

五十段
 互いの浮気を歌で言い立て合うとは、なかなか風情でござるよ。「どうせ、ひそかに別々の相手と遊んでいた時のやりとりに、ちがいない。」と締めてるところが痛快だ。

五十三段
 逢いがたい女に逢えた男、睦言かわしてるうちに夜明けを継げる鶏。
「なぜ 鶏が鳴いているのだろう わたくしの忍ぶ心は こんなに深い 夜だとておなじように まだまだ深いはずなのに」
 しゃあないよ、朝は時間通りにやってくる。

五十四段
「涙でぬれているのです」と、また男は泣く。

五十六段
「涙でぬれにぬれてしまうのです」と、またまた男は泣く。いやあ、泣いてばかりいる男であった。こりゃ在原業平だろうなあ。

五十七段
「ワレカラという小さな海老」「乾くにしたがってその体が割れるというワレカラ」「我から求めて この身を砕きほろぼしてしまった」
 歌の心にはダジャレを得意とすることが重要なり。

五十九段
《わが上に露ぞ置くなる天の川門わたる舟の櫂のしづくか》
 この歌で、わずらい息もたえだえの男が息をふきかえした。歌には、生きる気力、元気の素があるのだ。

六十二段
「男はそれから、衣を脱いで女に与えてやった。
 けれど女は、衣を捨て、逃げ去った。
 女がどこへ去ったかは、わからない。」
 なんじゃ、それ。どういうこと?

六十三段
 業平、登場!名前が出てきたぞ。幾つになっても恋がしたい、3人の息子がいる女。息子にせがまれて、業平は、女と二度も寝る。
「思う女にも、思わぬ女にも、ひとしく心をくだくのである。」
 なんじゃ、それ。ボクは思わぬ女とは、やれん!

六十五段
 帝の女と在原氏の少年。
「やめてください、みっともない。こんなことをつづけていたら、あなたもあたくしも、今に身の破滅をむかえてしまいますことよ」
 さあ、続きはどうなったか。この本を買って、読んでね。

六十九段
 さあ、いよいよ、この本が『伊勢物語』であるゆえんの段だよ。ダンダダン。
 伊勢の国へ狩りの使いにつかわされた男。斎宮の親が「この勅使を鄭重にもてなしなさい」というものだから、斎宮は心つくして男の世話を。ああ、大変だあ。男は女を寝床に連れ込んだヨ。
《君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか》という女の歌に泣いた男は、
《かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ》と。
 今晩もやる気の男。残念ながら長官が男のために酒宴を催しちゃったよ、明日の朝には尾張へ発たねばならんのに。そしたら、夜が明けようとする頃、女が盃を差し出し、皿には歌が。
《かち人の渡れど濡れぬえにしあれば》と「濡れはしないほどのそんな浅い縁」で途切れた上の句だけで下の句がないので、男は
《またあふ坂の関はこえなむ》と「逢坂の関をはるばる越え 伊勢まで 逢いにきます 逢いにきます」下の句を詠んだよ。
 いやあ、伊勢物語だねえ。「夢かうつつか寝てかさめてか」の伊勢物語だよ。「逢いにきます」を二度も繰り返す川上さんの訳もいいよねえ。

川上弘美訳『伊勢物語』05
川上弘美訳『伊勢物語』06
 
七十段
 六十九段の続きだよ。斎宮に仕える童女に
「逢えないあのかたのいる場所は どこ」という歌を詠んだよ。

七十一段
 六十九段の斎宮との交わり以外に、斎宮御殿に仕える女房から
「あなたに逢いたくて」と誘われ、
「恋しいというなら おいで」って受け入れちゃうよ。はあ? 業平くうん、どういうこと?

七十二段
 七十一段の続きだよ。ふたたび逢えず隣の国へ行くことになった、その斎宮づきの女房に対しての恨みつらみだよ。おいおい。
 七十五段あたりまで、そんな、なかなか逢えない女に対する恨みつらみじゃあないのかな。

七十九段
 在原家に親王が生まれた、祖父方の翁(業平51歳)が詠んだ歌。
《わが門に千ひろあるかげを植ゑつれば夏冬誰か隠れざるべき》
 親王は、業平の子だという噂。けれど、親王は業平の兄中納言行平の娘がうんだ子。これって、どういうこと?

八十段
 前段七十九段と同時期に業平が詠んだらしい歌。
《濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいく日もあらじと思へば》
「親王がうまれたとはいえ、在原氏は藤原氏にくらべ、衰運にあった。藤の花を献上した相手は、藤の花が象徴である藤原氏。」
 なあるほどお。陰翳をふくんだ歌だ。

八十二段
 桜の下での宴。
《世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし》
《散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき》
 いいねえ、桜の歌。天の川の歌もいい。「織女に宿を借りましょう」と詠めば、「織女は 一年のただ一度の おとずれを待つひと ここには 宿など ありますまい」と。
 月が山の端に隠れようとしてるのに、「山の端が 逃げ去って 月の隠れどころが なくなっtっしまえばいいものを」と詠み、また紀有常が返す。「すべての山よ 平らになってしまえ そして 山の端よ なくなってしまえ」と。この訳がいい。
 
九十段
 つれない女を思い続ける男。女は心うごかされたのか
「それならば、明日、簾越しに逢うことにいたしましょうか」
 男は嬉しくも信じられない気持ち。
《桜花今日こそかくもにほふともあな頼みがた明日の夜のこと》「今日 桜は こんなにも咲き匂っている けれど 明日 桜は 同じように咲き匂ってくれるだろうか」
 女の心が信じられない。いやあ、分かるよ、分かるけど、まず、逢えばいいじゃんねえ。

九十四段
「春の霞よりも 秋の霧のほうが 千倍も まさっているのでしょうか」春の霞とは元カレである自分、秋の霧は、女の今の男。女は
「千の秋をあつめても 一つの春にはかないません」と元カレのがよかった、みたいなことを詠みながらも、「けれど」と言って、「秋の紅葉も 春の桜も いずれ散ってしまうもの はかないもの」と。女のほうのが一枚も二枚も上手だ。

九十五段
 簾越しに逢ってくれた女に男は
《彦星に恋はまさりぬ天の川へだつる関をいまはやめてよ》
 歌にほだされて、女は男とじかに逢う。いい歌だよ。でも、じかに逢うって、直接やるってこと?
 
九六段
 できものが出来たから、暑い時期が過ぎて秋になってから、だって。そしたら「男のもとへ行こうとしている」噂が立っちゃって、女の兄が男に渡すまいと、むかえにきちゃった。
「木の葉が水に散りつもり 江が(入江)が浅くなってしまうように あなたとの 縁も浅かったのでしょうか」という歌。男は呪って「今に見ていろ」だって。見ていたら、どうなっちゃう?

百二段
 女が尼になった。男が歌を贈った。
《そむくとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ》
 この相手は、かつての斎宮だげな。六十九段、見てね。

百三段
 深草の帝(仁明天皇)に仕えてた男、帝の息子の親王が寵愛してた女と交わしてしまった。
《寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな》
 みれんがましい歌である、はいいけど、なんで交わっちゃったの?

百四段
 尼になった女、って元の斎宮でしょ。やっぱ。その尼に男が
「海女が藻を食わせてくれるように めくばせを わたしにしてくださいな」って、尼をナンパするのかよ。

百二十段
 まだ男を知らないと思っていた女を好きになったが、実は高貴な男と情を交わしていた、それを知った男は
《近江なる筑摩の祭とくせなむつれなき人の鍋の数見む》
 筑摩神社の祭は、女がそれまで男とちぎった数だけの土鍋をかぶって、鍋を神に奉る風習があったげな。へえええ。

百二十五段
 もう自分は死ぬだろう、病をえた男が詠んだ。
《ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを》
「いつかは ゆく道と 知っていたが それがまさか 昨日今日のことだとは 生きるとは なんと 驚きにみちたことだったか」
 最終段にふさわしい歌である。

 この「伊勢物語」が、物語と言っても、たんたんと、しかも、男と女のお話だとしても、男だけの男泣きで終わったり、男同士の友情であったり、けっして男女の卑猥な行為の話ではない。けども、在原業平を筆頭とする男どもは当時、イイ女がいたら歌を詠んで、自分に靡かせ、惚れた女と好き勝手なことやってたみたいだね。そして、やれなければ、しょっちゅう、泣いていたみたいだね。ああ、時に呪う、かな。
 ゆえに(どこがゆえにか分からんが)、この川上版『伊勢物語』の最大の面白さは、淡々とした地の文よりも、短歌を現代風に意訳したところにある。地の文では人物の心の中が全然見えないけど、それは短歌の31音に原稿用紙20枚分くらいに匹敵する心が表されている。それを川上さんは、直訳じゃなく、その心が伝わるように、時には、やさしく、時には荒々しく、時には、えいや~の感情吐露を施している。もう、たくさん紹介したよね。三十段の「逢うのは 一瞬 恨みは 永遠」みたいな。
 こういう素晴らしい意訳ができるのは、日頃、川上さんが、同じような不倫、いや、うそうそ、空想上、いや、妄想上で、在原業平と付き合っているからなんだよね。深入りすればするほど、分からない在原業平。そこで学習・経験したことが反映されているんだよね。はい、これこそ、ボクの妄想かな、失礼しました。


川上弘美訳『伊勢物語』 posted by (C)shisyun


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