芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ | 空想俳人日記

芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ

 よし!大江の次はアベコベだあ、と。2024年が安部公房生誕100年ということで、これを読むことに。ちょい前に、リアルタイムに単行本の『箱男』を、生誕100年記念で映画化されると知って、昨年、文庫を手に入れて読んだんだけどね。ブログ記事「安部公房『箱男』(再読)」に感想書いたので。
 そして、芸術新潮だけど、実は、手に入れたのは、新潮文庫の『飛ぶ男』、そして『題未定』、それから、この本の順だよ。でも、逆に読むことにした。
 ということで、「【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ」だよ~ん。目次順にコメントするよ。

芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ01

☆|再録エッセイ|買物 文 安部公房
 ここに書かれてるアンリ・カルチエ・ブレッソンが撮影した安部公房の写真、見たことあるよ。いやあ、どこで見たんだっけ?

☆キーワードでひらく安部文学の扉
解説 鳥羽耕史
1 幽霊
 世の中、みんな商品だ、人間の名声だって商品価値がなきゃね、幽霊だって商品だよ、そんな戯曲『幽霊はここにいる』を思い出したりした。
2 家
 高校の時に読んだ『赤い繭』。「家を作るならあ~」って、自分が吐く赤い繭で家を作ったら今度は住むべき自分がいなくなっちゃったあ。これで、ボクの思考回路の礎が確立されたようなもんだよ。ちなみに、宮崎駿の『ハウルの動く城』の城は、これのでんぐり返しだよね。箱入り娘が「城を壊すならあ~」。
3 曠野、砂漠
 そうそう、満州から引き揚げた安部公房。日本という故郷から根を断ち切られ、抗いがたい政治の渦に巻き込まれた人間として描かれた『けものたちは故郷をめざす』。アンドレ・カイヤット監督の『眼には眼を』のどこまでも砂漠のシーンを思い出す。
4 運動
 一時期、いろんな共同体で活動してたよね。花田清輝や岡本太郎なんかとの「夜の会」は有名だね。日本共産党にも加わっていたけど、結局、彼には団体行動は似合わない。『壁』の中の『魔法のチョーク』のアルゴンくん。安部氏曰く、「アルゴン-すなわち、Ar。空気中に約一パーセント含まれている、一原子一分子、原子価0の稀元素であり、無味無臭、沸点低く、化学的に不活性。現代の芸術は、芸術そのものの自己否定からしか成立ちえないのだ。涙は失われた芸術の句点である。」と。
5 水
 やっぱ、安部公房スタジオが放った『水中都市』が一番思い浮かぶ。ボクは、安部公房スタジオ会員だったし、『水中都市』の公演を確か、昔の中日ビルにあった中日劇場で観た。そして、ロビーで安部氏に出会い、台本にサインを頂いた。
6 失踪
 なんたって、『砂の女』だねえ。ヤマザキマリさんが、十代でイタリアへ渡って貧困生活の中、自らの生きる支えとなった小説だよね。ヤマザキマリさんが著わした「100分de名著 安部公房『砂の女』」で記憶を新たにした。あと、『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』も。『他人の顔』『燃えつきた地図』も思い出した。
7 ノート
 ノート3冊で構成された『終わりし道の標べに』はともかく、『箱男』なんか、このノート、ほんまに同一人物が書いたのか、さらには、一人で書いたん?複数人が書いたんと違う?いやあ、リアリティは幻覚かもしれないぞ。
8 生理学と言語学
 そうそう、安部氏の表現は、なんか、モゾモゾと生理的なところを突いてくる。ボクはよく、「尾骶骨をミミズに噛まれたような」なんて表現を高校時代に使っておったが、もうこれは安部氏の受け売りよ。大脳生理学と言語や芸術は深いかかわりがあるんと思うよ。
9 機械
 いち早いワープロの導入。カメラ狂。そして、凄いのが、演劇でシンセサイザーを使って音楽まで作ってしまう安部氏。なんと、彼は、ボクと同じプログレの王者ピンク・フロイドの熱狂的なファンなんだよね。

☆石井岳龍監督インタヴュー
「映画『砂の女』は、もはや世界遺産です」

 石井岳龍監督は、『逆噴射家族』(当時は石井聰亙というお名前)しか知らへんけど、ボクも勅使河原宏監督の映画『砂の女』は凄いと思う。はたして、いつどこで観たかは記憶が曖昧だけど。脚本は原作と同じ安部氏。音楽は武満徹。主演は岡田英次とムーミンの声の岸田今日子だよ。

 2024年に石井岳龍監督による『箱男』が公開されるんだけど、いつ何処の劇場で公開されるか調べても出て来ん。誰か教えて。


☆|年譜|消しゴムで書いた68年
 そうそう、安部氏のエッセイに『消しゴムで書く』ってあったね。『内なる辺境』『実験美学ノート』など、エッセイもよく読んだなあ。

☆走る文豪
――クルマと安部公房
文 藤原よしお

 ごめんなさい。これはPass。

☆いま読みたい
安部公房ブックガイド10
解説 近藤一弥

1 壁
 もちろん、『S・カルマ氏の犯罪』は、実存主義者だと思うけど、それよりも、なんか『バベルの塔の狸』はユニークだったような気がする。自分の空想やプランをつけている手帳を「とらぬ狸の皮」と言う。そして、「とらぬ狸」が登場し、影を剝がされちゃうんだよね。そして、バベルの塔へ連れてってくれるんよね。ブルトン狸も登場する。シュルレアリスムはリアリズムを乗り越えるんだけど、安倍文学は、どっちかってえとリアリズムの底を暴くって感じだもんね。『赤い繭』は、先にも述べたけど、ボクの思考回路は、これで創られた。
2 第四間氷期
 ボクの安部公房デビューは、この『第四間氷期』である。高校2年の時、既に文庫が出てた。えら呼吸を行い、目は退化し、水中なので声を発することができないので"歯ぎしり"をモールス信号のように使ってコミュニケイションを行う水棲人間。また水棲人間は涙腺が退化し涙を流さない。そんな水棲人間の少年が小島に這い上がり、あまりの重力に地面にへばりつきながらも、風の音楽に吹かれて風が眼を洗い初めて涙を流す、そして息絶えるシーンが忘れられない。
3 人魚伝
 文庫「無関係な死・時の崖」で『人魚伝』は読んだなあ。水死体を食料に生き延びていた人魚との暮らし。人魚が自分を食いちぎる。食べ残された足首が植物のように成長し、自分の姿に再生する。男は自分が人魚を飼っていたのではなく、食用として飼われていたことに気付く。愛欲と食欲は同じかもしれない。石ノ森章太郎がマンガ描いてたとは知らなんだ。
4 砂の女
 これは、もう、先にも書いたが、ヤマザキマリさんが、十代でイタリアへ渡って貧困生活の中、自らの生きる支えとなった小説。ヤマザキマリさんが著わした「100分de名著 安部公房『砂の女』」で、記憶を新たにした。
100分de名著 安部公房『砂の女』 10
 この小説を書くきっかけになった山形県酒田市浜中部落の人々の写真が興味深いよ。
5 友達
 小説『闖入者』を戯曲化した作品だよね。主人公を仲代達矢が演じる演劇を観たよ。これも、いつどこで観たのか。ひょっとこしてもしかして、テレビで観たのかもしれない。劇中歌の「友達のブルース」、「♪夜の都会は糸のちぎれた首飾り あちらこちらへ飛び散って 温めてくれたあの胸は どこへ行ってしまった 迷いっ子 迷いっ子♪」(音楽は猪俣猛)が忘れられない。谷崎潤一郎賞受賞。三島由紀夫は『友達』について「何といふ完全な布置、自然な呼吸、みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖に充ちたユーモア、微笑にあふれた残酷さを持つてゐることだらう。一つの主題の提示が、坂をころがる雪の玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、古典悲劇を思はせるが、さういふ戯曲の形式上のきびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客の鼻面を引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。まことに羨望に堪へぬ作品である。」と述べている。
6 箱男
 これは、リアルタイムに読んでいる。高校2年だったと思う。ボクは2年10組だったが、現国の仁道先生がボクのクラスでなく9組の生徒と栄の街で箱を被って箱男体験を実行したことが羨ましくて仕方がなかった。
 昨年、この小説を再読し、感想をブログ記事「安部公房『箱男』(再読)」に書いた。そこで、ボクは以下のように述べている。
「 この小説は、当時よりも今読まれるべき小説じゃないかな。今の時代、マスメディア、テレビや新聞で報じられるニュースに、さらにインターネットで流される情報、みんな、そんなニュースや情報を大きな現実だと思って生きてやしないかな。ところが、インターネットのフェイクばかりか、そのもとなる情報が、捏造されたり大事な部分を隠蔽されたりして流されてて、それを信じて最も今大切な現実だと思い込んで生きているとしたら。
 あな、恐ろしや、だよね。つまり、言論ばかりでなく行動までが統制均一化されていく。これって、この小説でいう偽箱男づくりじゃなかろうか。ひょっとすると、書き下ろされた当時よりも、現代社会の方が偽箱男が多いのではないか。もしかすると、偽箱男が大衆化している、と。
 だからこそ、今こそ、この小説に参加し、自らの意志で自らの空想力と思考回路で創造して、一人一人の『箱男』物語を完成させねばならないんだと。」
7 笑う月
 これも、リアルタイムに読んでいる。でっかい本だったなあ。今は文庫になっててペランペランだけど。花王石鹸(後の花王)の商標を正面から見たような顔だよね、笑う月。ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』が1973年に発表されて、この『笑う月』は1975年。いやあ、「月」がボクにとって、単なる地球の衛星だけじゃない存在になっていったなあ。そういやあ、収録作品の中に「空飛ぶ男」があったなあ。
8 方舟さくら丸
 この作品について、『別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」』の第4章でヤマザキマリさんが語ってる。日本国民というだけじゃなく、何かの団体に帰属すること、もちろん、能動的には活動推進あるだろうけど、ひょっかして承認欲求がなせる業かもしれない、そう感想をボクが書いてる。あと、ヤマザキマリ著『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』の第六章『「国家」の壁』が「方舟さくら丸」についてだったなあ。感想で引用した内容をここにも。
「人間は群れの中で、生まれてきた不安に対して、自分の存在を承認されることで名前を与えられ、役割を与えられ、マイナンバーを与えられ、他者から存在を肯定されることで安堵を得られる生き物だ。逆に言えば「壁」の外に出ることは、自由になることであると同時に、無慈悲で非情な現実と向き合っていかねばならなくなることだ。誰も自分を映し出してくれない世界では、凶暴な孤独感にも苛まれるだろう。」
 さらに続くが、これが最重要だ。
「けれどもナショナリズムなどの集団的高揚感に身を委ねてしまうと、それはとても危険だ。そこでは価値観の共有が強制されるために、自分が船の舵を取ることはできず、また舵を取れるような知性も能力もむしろ推奨されないから、まかり間違うと太平洋戦争のように集団で滅亡へと突き進むようなことになりかねない。」
 今まさに、多くの人が知らぬ間に、そうなっている、そんな匂いのするキナ臭い時代だ。
「そういうことのないように、それぞれが自分自身で舵を取れる知性の力と想像力を備えようとする。たとえ群れの中で生きていても、流されずにたちどまって、俯瞰で人間の生きざまを観察する能力を持つことができるように、自立した精神性を鍛えること。社会が大きな不安と混乱に陥っている今のような時代にこそ、作家が鳴らした警鐘に耳を傾けるべきではないだろうか。」
 本当に、その通りです。
9 死に急ぐ鯨たち
 これもリアルタイムに読んだかな。『箱舟さくら丸』発表前後の論文、エッセイ、インタビュー、写真などを蒐集した作品。
《もし想像力の助けを借りないならば、この現実は「盲人に連れられて歩く盲人の群れ」を描いたブリューゲルの絵のように、楽観的に見える。しかし誰かおびえた一人が、駆け出すとしたらどうなるか。たちまち全員が反応を起こして、パニックをもたらすだろう。》
《鯨の集団自殺はなぞめいている。高い知能を持っているはずの鯨の群れが、突然狂ったように岸をめがけて泳ぎ出し、浅瀬に乗り上げて座礁してしまうのだ。もともと肺で呼吸する地上の動物だったから、何かのきっかけで先祖がえりの想像力で、水による窒息死に恐怖心を感じて、岸に殺到するのかもしれない。人間だって、鯨のような死に方をしないという保証は、どこにもない。》
《時代にとって怖いのは、異常が正当化されて正常が異端視されることである。そういう状況の中では、大多数の民衆には、ひたすら強大なボスを待ちうける気分が充満する。》
10 カンガルー・ノート
 これもリアルタイムに読んだヨ。脛にかいわれ大根が生えてくるという奇病を患った男は、訪れた病院の医師によって自走ベッドに括り付けられ、療養のために硫黄温泉を目指す、そんな、この小説を読みながら、自分も、その自走ベッドに載せられている錯覚に陥ったものだ。でも、ボクの脛には、かいわれ大根は生えていない。ただ、これを読んだ年齢は、既に脛を齧られる年齢ではあった。
 それにしても、ボクは先にも述べたようにピンク・フロイドが好きなのだが、安部氏がピンク・フロイドの曲を文面に登場させているのは、ひょっとかして、この小説、ピンク・フロイドが好きな人に向けて書かれた作品なのかもしれない(と思うのは、ボクだけだろうけど)。
《波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか? 櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁をたたく水の音。まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だしとそっくりじゃないか。バンド内の紛争でロジャー・ウォーターズが抜けた後、1987年に制作された新グループによる作品だ。ぼくは以前から髭を剃った馬みたいなウォーターズのファンだったから、多少の偏見はあったかもしれない。でも出だしの音色には、昔の雰囲気が色濃くにじんでいて、悪くない。いずれ家に戻る機会にめぐまれれば、あらためて全曲聞き直してみたいものだ。》(単行本P46)と、ピンク・フロイドを知らない人は、ここをどう読む? だいたいウォーターズの詩に惹かれるのも分かるけど、安部くんよ、ピンクの音楽はデイブ・ギルモアなんよ。
 さて、その前に「仔豚状の物体」や「中年の警官が尻尾の無い豚の絵を見せ」たり、これ、1977年の『アニマルズ』じゃん。それから、
《「なんだっけ? ピンク・フロイドの……むかし、サーカスのときよく聞いた、『エコーズ』……じゃなかったっけ……」/妙な符合だ。サーカスは知らないが、『エコーズ』ならぼくの大好きな曲である。夜、神経に逆毛が立って、眠たいのに寝られないようなとき、この曲はけっこう有効なのだ。狂気の静寂ってやつかな。》(単行本P193)という最後の方、1971年『おせっかい』の中のボクが一番好きなピンク・フロイド・ナンバーだよ。

 和訳された映像(Youtube)を貼り付けたが、この詩、小説ラスト《覗いてみた。ぼくの後ろ姿が見えた。そのぼくも、覗き穴から向こうをのぞいている。》に繋がるのではないかね。
 ボクの勝手な解釈だが、この『カンガルー・ノート』は、著者がカンガルーの母親の育児嚢で育まれるように仕事場に籠り、ピンク・フロイドの音楽を聴きながら、この小説を産んだのではなかろうか。「オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ」と生への執着を念じながら。

☆Kobo Abe as Photographer
|再録|安部公房フォト&エッセイ
都市を盗る

 フォト&エッセイ、多分はじめて観る。はじめて読む。面白い。特に、なるほどと思ったのは、②の
《便所はつねに存在しないようなふりをして、ちゃんと存在している。便所を使用している人間も、使用していないふりーいや、そんなふりは出来ないから、使用している当人ではないような顔をして使用している。》《便器は、下水道という都市にはりめぐらされた共通内臓の末端開口部であり、排便という行為は、自分をその末端に連結させるための部品化である。だから排便中の人間には顔がない。顔がないかわりに背中がある。匿名化を代償に、管理社会のスタンプを押された背中が見える。》
 ⑧「証拠写真」のアラン・ロブ=グリエとの話も「へええ」だ。

☆メビウスの輪を歩く人間
写真と安部公房

文 平野啓一郎
 興味深い一文を引用する。
《この時代のそのような「見る/見られる」という関係性の考察は、サルトルの影響抜きにしてはあり得ず、それは三島由紀夫の場合も、況んや大江健三郎の場合も同様だった。『存在と無』第三部の「対他存在」の考察で、サルトルは、「私から私自身へ指し向ける一つの仲介者」としての他者からの「眼差し」について語り、その不在の状況として、覗き見について論じているが、これは、三島が『豊饒の海』に至るまで執拗なまでに拘り、また安部が『箱男』で強調した主題だった。》

☆安部公房生誕100年をめぐる
BOOK,MOVIE,EXHIBITION

 文庫新登場の『飛ぶ男』『題未定』は入手済み。
 映画『箱男』の公開は、いつ何処の劇場なの?
 神奈川近代文学館で開催(10月12日~12月8日)される「生誕100年 安部公房展」は名古屋に来ないの? 「没後10年 安部公房展」(2003年9月27日~11月3日)を世田谷文学館へ観に行ってるので、まあ、いいかあ。当時は仕事で毎週のように東京行ってたからなあ。 その時の感想(ブログがない時にHPに載せてたのだけど閉鎖したので保存データから)を載せるね。

芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ02
芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ03 芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ04
  第1部 初期「詩作から小説へ」
  第2部 中期「プロットの展開」
  第3部 後期「構造の実験」
 そうそう、あのガリ版刷り自費出版詩集『無名詩集』、写真ではよく紹介されていて見たことがあったけど、実物を見たのは初めてでした。 感激。触りたかった。でも、ガラスが邪魔して触れませんでした。
 生前、彼が愛用していたカメラも展示されてましたね。コンタックスとミノルタが多かった。彼の父親もカメラが好きだったそうで、その影響らしいですよ。 『イメージの展覧会』のビデオ編集された映像もモニタから流れてました。音はいくつか置かれたヘッドフォンを通して聞くんですが、どのヘッドフォンも接触が悪いのか、 音がすぐに途切れてしまって・・・。安部公房のシンセ楽曲、まともに聞けませんでした。
 それと、おもしろかったのが、『飛ぶ男-繭の内側』と題するインスタレーション映像。安部公房自身が撮影した写真一万枚の中から一千枚を使ったそうです。 あっ、詳しい解説シートを入手しました。
芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ05
 「世界文学」の最も輝かしい旗手でありアメリカや西欧諸国は勿論、ソ連圏でも絶大な支持を得た安部公房、 わが国でも珍しい「シュール・レアリスム」の小説的な開花と言える作品からSFチックな未来小説、斬新で大胆な演劇活動など、 その多彩な活躍を21世紀に甦らせよう、というのが、この「安部公房展」の主旨なのであります。が・・・
 私はふと思ったのでありました。安部公房にせよ、三島由紀夫や川端康成にせよ、日本の戦後の文学は、国語の教科書以外は、 後に残らない。いや、文学に限らず、芸術全般、そうした文化と呼べるはずのものは、珍品・逸品みたいな骨董的価値観であるお宝として以外は、 何も築かれてはいないのではないのかなあ?
 日本の戦後には、流行があっても文化はないのかもしれないですね。 つまり、どんなに文化的なものであっても流行としか捉えられてこなかった。事実、最近になって、安部公房の話をある酒の席で話すことあったんですけど、 「そういやあ、その人の小説、流行った時があったねえ」ですって。 文明は塗り替えられ、文化は蓄積される、そういう時代観とは別に、文化はあたかも万国博覧会やオリンピックのように、 人の動員による経済効果という面でのイベントでしかない、そういう戦後日本の社会に象徴されるように、 文化も流行のひとつ、それが日本なんでしょうねえ。ああ、淋しい。
 もちろん、戦前、さらには、もっと昔、因習というか伝統なのかえ、そういう昔から伝えられているものは、 ある意味で極めて保守的かつ極めて閉鎖的に守られていて、その家系でしか入り込む余地がない、 天皇制度的な文化としてぬくぬくと育まれておりますが、 音楽にしても文学にしても、戦後はすべて流行歌であり、流行作家作品なんでしょうねえ。
 何が言いたいかと言うと、今回の「安部公房展」、主旨はそのとおりなんでしょうが、 例えば、安部公房の位置付けとして、もしシュールレアリスム、いわゆる超現実主義の系列を持ち出すとなると、 それは、日本には系列として作られないのですね。輸入されたアンドレ・ブルトンやその取りまきの作家連中、そして、 仲間としていたかどうか分かりませんが、絵画で言えばサルバドール・ダリ、こうした系列と蓄積は、 日本ではありえない。そのくくりに入れらはずなのだけれど、日本では、所詮、現代文学の一流行作家にならざるを得ない。
 これは、実は、戦後の日本は、とにかく経済を成長させねばならない、そこでは文化も商業の一商品。 これ、アメリカに近いですけどね。アメリカって、ヨーロッパと比べると、 歴史がないから、逆に歴史を大事にしなくてもいい、 なんでもあり、はい、明日だけ考えましょう、 「Gone To The Wind」ですもんね。でも、 映画の世界は、黒澤明を筆頭に、小津安二郎、そして溝口さんなど、海外がその蓄積の中に 位置付けてくれていますよね。実は、小説家、或いは戯曲作家として、安部公房もその一人であることを 日本人は誰も知らない、あな、悲しや。いい加減、高度成長時代じゃあないのだから、それこそ、 いつまでも右肩上がりの幻想を追わないで、 見落としていたものを見つめなおすとき、 それが日本の21世紀じゃないんでしょうか。
 追記・・・後日、予約しておいた「安部公房展図録」が届きました。とうとう発行が会期中には間に合わなかったようですね。
芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ06
 しかし、これほど立派な図録とは思いもよりませんでした。会場の様子が伝わってくるばかりでなく、 多くの方の寄稿文が、安部文学を改めて考えさせてくれます。その中でも、安部・ベケット・カフカの小説について書かれた『疎外の構図』の著者であられる ウイリアム・カリー氏の文章があります。引用させてください。
 「安部公房の死から十年たって、ひどくがっかりしていることがある。それは、日本の若者の多くが安部作品を知らないことである。 実際、その名前さえ知らない者が多い。それにひきかえ、外国では安部研究のひそかなリヴァイヴァルがあるようで、 とりわけ北アメリカやヨーロッパでは、多くの若手研究家が安部の小説・戯曲・評論に関する博士論文に取り組んでいる。」
 しかし、この現象を若者の活字離れということでは済ませられないと思います。先に書きましたとおり、日本における文化の在り方が 日本的であることに依存しない限り、流行現象でしかない悲劇があるんでしょうね。カリー氏は、最後にこう結んでいます。また、引用させてください。
 「五十年後に、安部は日本文学史においてどのように評価されるだろうか。純粋な美学的視点と、私小説―安部の時代まで根強かった―の限界、その両方から脱却した先駆的な日本の作家とみなされるだろうと私は思う。 日本人であることを強烈に意識しないで書くことを選んだ点でも革新的であった。安部公房は、世界のなかで存在するとはどういう意味があるかということに関してさまざまな想像的・哲学的考察を示したわけだが、 その過程で国籍を超えた人間観に到達しようとしていた。日本の小説家・劇作家・評論家としてはじめて、グローバルな社会のために書いたことになる。」
 確かにそうであると思います。しかし、海外からは、そう見られるかもしれませんが、肝心かなめの日本において、果たして日本的因習文化以外を文化として捉えられない日本人に、 彼を再評価するベースがあるのでしょうか。そう危惧しながらも、ウイリアム・カリー氏の言葉を信じてやみません。

 以上で、「【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ」を終わるね。


芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ posted by (C)shisyun


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