別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」 | 空想俳人日記

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」

 2020年、新型コロナが世界中に席播きしたことで、日本も国民への統制が行われた。初めは、ナショナリズムによる新しい君主制か、そう思って叫んだが、自分自身、ナショナリズムをきちんと理解しているんだろうか。

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」01 別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」02

 そう思ったら、この本を見つけた。当初は、この中で、安部公房大ファンのヤマザキマリさんが『箱舟さくら丸』を語ってられるのが引き金となったが、それよりも、実際に読み始めて、そんなことよりも(これは後で話します)、きわめて大事な教えを頂いた、素晴らしく、いい本です。
 私たちは、ナショナリズムを「いい」とか「わるい」とかいう前に、ナショナリズムがなければ近代国家が始まらないことを、この本で痛く理解しました。

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」03

 第1章アンダーソン『想像の共同体』を書かれた大澤真幸さんのナショナリズムの紐解きはメチャ素晴らしいです。彼が、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体-ナショナリズムの起源と流行』を読んだことで、ナショナリズムは何か、ストンと腹に落ちるような感じでわかった気がしたと同様に、彼のここでの解説で、私もナショナリズムは何か、ストンと腹に落ちることが出来たのです。素晴らしい第1章です。
 とにかく、ナショナリズムは、国民という意識の萌芽で始まります。国民(ネーション)の3つの特徴や3つのパラドクスが語られてますが、これは、本を読んでください。
 で、ネーションは王国でもなく、宗教共同体でもない、俗語の言語に大いに起因していること。さらには、それが出版資本主義によって確立していったこと。
 興味深いのは、西洋諸国にアジアやアフリカ、そのまえにアメリカ、それがナショナリズム形成を促進したということ。植民地支配、そして、植民地から自立の過程でも生まれてます。詳しくは、本を読んでね。
 で、最も興味深いのは、ナショナリズムの誕生の中で、日本は後発的な、他国の模倣から始まると。そう、それが明治維新。ここで、初めて、日本にナショナリズムが誕生するんです。しかも、多くの人々に「私たち日本人は」とナショナリズムを浸透しやすい方法、それは、徳川幕府より以前からずっと続いていた、天皇制を主権に据えること。なので、明治維新は、明治革命でなく、天皇と庶民の間に入っていた幕府を解体し、天皇が庶民の親として、太陽として、日本は生まれ変わったのが明治維新なのですねえ。
 そんなことも、アンダーソン『想像の共同体』には書かれているそうです。いやあ、すごい、分かってしまった、ナショナリズム。
 さらに凄いのは、『想像の共同体』から少し離れながらも、「我々の死者」という概念。それは、「そのひとたちのおかげで、私たちの今がある」と思える死者。しかし、第二次大戦により、私たちは、「我々の死者」を失っています。それは、自国の戦死者が目指していたものを
目指すわけにはいかないからです。でも、本当に「我々の死者」がなくてもよいのでしょうか。そうすると、自分たちが死んだ後にやってくる将来世代のことも考えなくなってしまいます。自分さえよければいい。それが現代の日本です。
 そして、加藤典洋著「敗戦後論」が引き合いに出されてます。「現在の我々」が「我々の死者」を裏切らざるをえばいという謝罪も含めた形で「我々の死者」を取り戻すこと。言いかえれば、「我々の死者」に対し、宣言することです「あのような過ちは二度と繰り返さない」と。
 私たちは忘れてはならないのです、「我々の死者」のことを。そうでないから、現代のナショナリズムは危機的状況なのです。
「ナショナリズムの克服はナショナリズムを踏み台にしてのみ可能」、この言葉は重要です。そして、「我々の死者」を媒介にして「我々」のという限定ぬきの「未来の他者」につながることができるのです。「私たち日本人は」と「我々の死者」のことを忘れずに考えながら、「未来の他者」に「私たち人間は」と、繋げていくべきということですね。

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」04

 さて、長くなりましたが、続いて、第2章はマキャベリ『君主論』を島田雅彦さんが語っています。島田さん、お久しぶりです。というのも、ある時期、彼の小説を相当むさぼり読んだ時期があるのです。痛快かつ奇天烈な作品に、どっぷり漬かってました。
 そんな島田さんが、マキャベリ『君主論』を語るのも、奇天烈であります。『君主論』を、まともに読むと、「君主は何もやっても良い、脅しても、殺しても」みたいな、とんでもない本なのですが、これを斜めから読んでみたらこうだよ。ということです。
 実は、マキャベリは本来はルネッサンスの精神の持ち主。あのダ・ヴィンチと同じ。しかし、食っていかなければならない。ダ・ヴィンチだって、金づるが欲しくって、手掛けたこともない兵器の設計をして、媚びを売るように、マキャベリも、媚びを売ることで、地位を獲得したい、そんなための『君主論』と思えば、痛快丸かじり本、かもです。
 このルネッサンスという精神、実は、日本でも戦後の一時期、ルネッサンス研究が流行したことが書かれてますね。戦時中の軍国主義、人権軽視の超国家主義の下で、何の知性も感じられない命令に市民が強制的に服従させられてたことへの反動だと。
 ところが、現代に実現されることなく、今の日本のナショナリズムは、対微絨族がさらに進んでいくことのコンプレックスを逆転させるため、自分たちより弱いと思っている隣国にヘイトや差別をする形で、傷ついた自我を回復しようとする。また、帰属する国家なり組織が不正を働いたら、告発するのでなく、忠誠を誓い不正に加担する。当事者に聞いても「そういうものでしょう」当たり前じゃないですか」と返ってくるでしょう、と。そして、「あんたみたいなのを非国民だ」と言われるわけですね。
 ここで、杉原千畝の話が登場します。彼はナチスから逃れたユダヤ人に大量のビザを発給し、日本経由で彼らを脱出させた。職務上は、忠実に従うべき本省の方針に反した行為ですね。先のように、「あんたみたいなの、非国民だ」なんでしょうか。
 第1章で、「ナショナリズムの克服はナショナリズムを踏み台にしてのみ可能」という言葉を学びましたが、まさに、ここでは、ヒューマニズムでもって、克服されていると言えます。「私たち日本人は」ではなく、「私たち人間は」という立ち位置です。ヒューマニズムは「人文主義」という訳語にも見られるように、上からの強制でなく、自分たちの頭を使って自由に発想するということなんですね。
 戦後日本の知識人たちの悲願であったルネッサンスの精神が、今再び登場することを、島田さんとともに願ってやみません。
 締めくくりの言葉を引用したいと思います。
「人々はなぜやすやすと支配者に服従してしまうのか?多くの人々が服従と引き換えに支配者から多くの役得を得ているからでしょう。支配されながら、権力の甘い汁を吸っている者の人口と自由を求める市民の人口はちょうど政権支持と不支持者の割合に対応しているのでしょう。下手に体制を打倒したり、改革するよりは、現状の維持や強化に与した方が安全だし、保身につながるという理屈によって自分たちの服従を正当化しているのです。敢然と自由であれという志も常に、服従の本能との戦いとなるのです。」
 持続する志を持ち続けたいものです。

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」05

 さて、第3章。橋川文三『昭和維新試論』。知らんよ知らん。第1章のアンダーソンもそうだけど。中島岳志さんが教えてくれてます。
 戦前を引きずり考え続けた橋川、だそうです。これは、第1章でいう「我々の死者」を考え続けた、ということでしょう。東京大学で政治学を教えていた丸山眞男のゼミに通っていたそうで、丸山の弟子とも言えるのですが、丸山が戦前をバッサリと批判したのとは対照的だそうです。
 昭和維新とは、1930年代起こった国家革新で、明治維新に続く再度の「維新」を実行し、天皇親政による新しい時代を作り直すという思想のもと、右翼や軍部の急進派によるテロやクーデターが繰り返された。五一五事件や二二六事件もそれらのひとつ。
 その始まりとして、朝日平吾が取り上げられています。彼は、銀行業で財を成した安田善次郎を刺殺、自らも自殺している事件です。
 ここで司馬遼太郎の『坂の上の雲』も引用されてて面白いのですが、日露戦争勝利という目標までは坂をみんなで登っていくが、その後は雲の中。目標も見失う。
 そんな苦悩の中に入った青年たち、その一人が朝日だと。彼は、天皇のもと、すべての国民は平等で幸せなはずなのだが、現実はそうではない。天皇は雲の中。その雲とは、天皇の側近であり、資本家であり、政治家であるのだから、その雲を蹴散らせば、天皇という太陽は、万民に光をもたらす。そう捉えたのですね。これは、吉田松陰が唱えた「天皇以外はみな平等である」という理想の追求なのですね。
 そして、中島さんは、この昭和維新での事件と、2008年の秋葉原事件の共通点を語ります。どきっと来ます。ただ、朝日の事件との違いは、秋葉原殺傷事件は「無差別殺傷事件」。つまり、特定の誰かを殺せなかった」事件であるということ。朝日の場合は敵が明確だった。ところが、現代社会では、それすら見えない。何をどうすれば解放されるのか、その構造が見えていない。
 現代のが、危機的状況かもしれないのですね。では、どうナショナリズムと付き合うのか。ここでも、善悪の問題ではない、と書かれています。
 ナショナリズムを全否定するのも、「万歳」といって全肯定するのも間違っている。どこに価値があって、どこに危険性があるか、そして、良く構造を理解したうえで、どう付き合っていくか考える。
 そう、やはり、最後は、自分の中で考えることが重要なのですね。みんなが言うから、その方が安心だから、ではなく、本当にそれに従うべきか、それよりも、もっと優位に考えるべきことがあるのではないか、ということですね。

別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」06

 最後は、第4章です。この安部公房『箱舟さくら丸』をヤマザキマリさんが語っているので、この本を手にしたのですが、「ああああ、これ読んだあ」。
 そうです、読み始めたところは、ちょいと違うんですが、どんどん読んでると、「これ読んだヨ」となりました。そう、以前読んだヤマザキマリ『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』のと同じじゃんってね。書き始めは違うけど、中身はほぼ同じなんだけど。
 なので、同じことを書くけど・・・。
『方舟さくら丸』は、まさしく現代版「ノアの方舟」。船と呼ばれる核シェルターと乗船券を巡ってのお話。《もぐら》という主人公は、今で言う「引きこもり」であり、「オタク」である
のだがもし現代に生きているとすれば「SNSに匿名でネガティブなコメントを書きまくるタイプ」。月に1度だけ街に買い物に行く。その時、ユープケッチャという虫を売る昆虫屋と出会う。ユープケッチャとは、時計回りに回転しながら自分の糞だけを食って生きる、まさに、何物にも帰属も依存もしない生き物。それを購入するのだが、この昆虫屋と、そこで客寄せサクラをしていた二人組、サクラと女が、乗船権を持つことになる。
 選ばれし者だけが乗船できるというのは、選ばれないものは排除する、ということだ。そんなところへ、ほうき隊という老人グループが侵入してくる。清掃奉仕隊だが、裏で産業廃棄物の不法投棄もする。「精神の浄化」や「人間の掃除」も目標と掲げている。このほうき隊は、
「それまで暗示されていただけのナショナリズムのテーマを具体的に形象化している。これは寓話や空想というよりも、現代日本のリアリズム的な形象で、高齢者の数が増えればこのような群集心理が発生しても不思議ではない。しかもそれが、生々しい組織的なナショナリズムとして発動する。」
 このコロナ禍における、自粛隊みたいだね。
「自分たちの考え方や方針にゆるぎない正当性と倫理を見出しているこうした正義集団は無敵である。」
 正義風邪に罹って、コンプライアンスの旗を振りながらマイノリティをイジメるわけだ。
 あと、ルート猪鍋という地元の不良少年グループ。これは省略。
 そして、「もしぼくに何かあったら、次の船長は君がいちばん適任かな」と言ったとき、サクラは「おれが船長になったら、この船、[さくら丸]だぜ。笑っちゃうよ。羅針盤もなけりゃ、海図もなしだ。走る気もないのに、走ったふりをしてみせるだけの船になっちゃうぜ」と、ここで、タイトルが作中に登場する。
 ここまで引用しながら、気が付いたこと、前のブログには書かなかったけど、日本国民というだけじゃなく、何かの団体に帰属すること、もちろん、能動的には活動推進あるだろうけど、ひょっかして承認欲求がなせる業かもしれない。
 今回の『ナショナリズム』からすれば、「ナショナリズムの克服はナショナリズムを踏み台にしてのみ可能」が、裏返しで、この小説にも描かれていたのではないかと、思う。

/////////////////

 以上、ありがとうございました。と言ってる時に、偉いニュースが舞い込みました。
「安倍元首相銃撃事件」
 FBに書きました。「安倍元首相銃撃事件に驚いた。何故首相時代じゃないのに。2008年の秋葉原事件を思い出す。そして、これは、この本を読んだ結果、思うに、昭和維新での事件との類似と相違で語られるべきかもしれない。」と。
そして、Facebook記事に書いた追記のコメントです。

 昭和維新とは、1930年代起こった国家革新で、明治維新に続く再度の「維新」を実行し、天皇親政による新しい時代を作り直すという思想のもと、右翼や軍部の急進派によるテロやクーデターが繰り返された。五一五事件や二二六事件もそれらのひとつ。
 その始まりとして、朝日平吾が取り上げられています。彼は、銀行業で財を成した安田善次郎を刺殺、自らも自殺している事件です。
 ここで司馬遼太郎の『坂の上の雲』も引用されてて面白いのですが、日露戦争勝利という目標までは坂をみんなで登っていくが、その後は雲の中。目標も見失う。
 そんな苦悩の中に入った青年たち、その一人が朝日だと。彼は、天皇のもと、すべての国民は平等で幸せなはずなのだが、現実はそうではない。天皇は雲の中。その雲とは、天皇の側近であり、資本家であり、政治家であるのだから、その雲を蹴散らせば、天皇という太陽は、万民に光をもたらす。そう捉えたのですね。これは、吉田松陰が唱えた「天皇以外はみな平等である」という理想の追求なのですね。
 この昭和維新での事件と、2008年の秋葉原事件の共通点は、主権が違えども、日本国民は、みな平等で幸せな暮らしができると。ところが、朝日の事件との違いは、秋葉原殺傷事件は「無差別殺傷事件」。つまり、特定の誰かを殺せなかった事件であるということ。朝日の場合は敵が明確だった。ところが、現代社会では、それすら見えない。何をどうすれば解放されるのか、その構造が見えていない。
 現代のが、危機的状況かもしれないのですね。その危機的状況の中で、今回の事件が起きた。私たち国民の中には、2008年の事件や今回の安倍元首相銃撃事件の犯人と、行動は起こさないにしても、同じ心の持ち主がたくさんいるのではないか、思います。冷戦終了とともに、資本主義いけいけで新自由主義社会の中、どんどん格差が増えてます。私たちの幸せは、どんなに多くの便利なものを手に入れても、叶えられません。いや、むしろ、便利になればなるほど、私は、誰? なんのために生きてるの? 承認欲求も得られません。その外敵が誰かも分かりません。基本、主権は国民ですから。その国民の一員なんだろうか私は?だから、一員であろうとして、幸せを得るためには、考えることを捨ててまで右に倣えをみんなするのです。
 ナショナリズムにはメリット、デメリットがあります。でも、今の時代、デメリットが蔓延して、反発する意見に対して、まるで非国民扱いするようなヘイトやヤジを飛ばすことがあたりまえになっています。今、ナショナリズムを超える人が叩かれる時代です。本当は杉原千畝みたいな、ナショナリズムを超えたヒューマニストが大切な時なのに、多くの人がマイノリティを叩きます。
 これは、ナショナリズムを意識していない人が陥る兆候です。まずは、自分がナショナリズムな右に倣えの人間であること、それを自覚しながら、そのままでいいのか、これをちゃんと自分の頭で考えることです。
 でないと、今、戦前の日本よりも、人々の心は、大変なことになっています。

 さらに、こう書き加えました。

 明日、あなたの背後に、あなたを殺そうとする人がいるかも。あなたが一生懸命、寄らば大樹の右に倣えに隠れていたとしても。今は、戦前よりも不確かな時代なんです。行動成長も終え、新たな時代を迎えるべきかもしれません。それなのに、「今のままででいいよ。みんなといっしょでいいよ。何も言うことないよ」という人が、ナショナリズムの危機を作っているともいえるでしょう。そして、ナショナリズムの土台に立ちながら、ヒューマニズムな考え方ができる人こそ、どれだけマイノリティで叩かれても、地球上に必要な存在だと、私は思います。

 このコロナ禍になって、如実に、ナショナリズムは、人々を規制しました。そして、感化された人は、自由発言する人まで抑制しました。AMIとしてはナショナリズムに従わざるを得ない半田まちひろは脱退することにしました。それでよかったと思っています。ナショナリズムに頼らなければ生きていけない人は、自由な人たちを排除・追放します。そういうものです。私たちは、追放されても生きていける場所を模索します。それが、自由人です。自由でない人は、絶えず、ナショナリズムな徒党を組みたがりますが、私には必要ありません。孤高の尾根も歩けますので。

 そうしながらも、良いナショナリズム、誰も排除しない、全ての人を取り込むという意味で、AMIは、日進市の「わいわいフェスティバル2022」に参加しました。SDGsに関しては、ちょっと反論もあるのですが、「誰も取り残さない」=「誰も排除しない」というのが、半田より素晴らしいので、参加しました。

 ナショナリズムは、日本人である限り、無国籍になりえないので、ちゃんと踏まえますが、安住するためではなく、日本人だからしたいこと、さらには、個人としてしたいこと、それをこの日本で実現させるためには、ナショナリズムを意識しながら、ナショナリズムを超えた営みを意識してすること、そう思います。

 以上です。
 改めて、第1章の「ナショナリズムの克服はナショナリズムを踏み台にしてのみ可能」、この言葉と、「我々の死者」を媒介にして「我々」のという限定ぬきの「未来の他者」につながること。これが大事だと思います。
 そして、「私たち日本人は」と「我々の死者」のことを忘れずに考えながら、「未来の他者」に「私たち人間は」と、繋げていくべきだと思います。


別冊NHK100分de名著「ナショナリズム」 posted by (C)shisyun


人気ブログランキング