壁とともに生きる わたしと「安部公房」 | 空想俳人日記

壁とともに生きる わたしと「安部公房」

 以前「手塚治虫漫画を哲学する」という本を読んだ時、その感想をブログ記事「手塚治虫漫画を哲学する」の中に、こんなことを書いた。
「漫画なのに哲学書。もひとつ、文学であるのに哲学書、安部公房作品にカブレ出したのも高校の時だ。」
 とね。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」01 壁とともに生きる わたしと「安部公房」02

 そしたらだ、私の前に、いきなりこの本が、壁のごとく立ちはだかったのだ。いやあ、手に入れない手はないでしょう。
 少し、読んで、凄いと思った。この「安部公房」論は、凄い!と。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」03 壁とともに生きる わたしと「安部公房」04 壁とともに生きる わたしと「安部公房」05
壁とともに生きる わたしと「安部公房」06 壁とともに生きる わたしと「安部公房」07

 これまでも、安部公房作品を楽しんだ自分の承認欲求、存在理由を求めて、多くの安部公房作品の評論も読んだ。が、どれもがなんか難しい。というか、何言ってるのかなあ、安部公房作品を読んだり演劇観たりしてた、そのままの方のが楽しくて有意義だ、そう思えた。
 ところがどっこい、この本は、「そうそうそう」、「うんうんうん」。「ほう、そうでもあったか」と、いたるところに、納得させられるのでありました。ヤマザキマリという著者が、心底、安部公房作品が好きなんだなあ、共感いっぱいしてるんだなあ、思ったなあ。
 なんせ、「はじめに」(ここでは「プロローグ」)の長さ。20ページ近くあります。いや、それだけ、思い入れがあるんですねえ。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」08
 さて、まずは第1章。「自由」の壁。小説『砂の女』が語られてます。
 その第1章の最終ページ当たりの、当時でなく、今この現代において、この作品の捉え方がステキです。
 今の時代を「言論の自由や表現の自由が世間によって制限されている」と言って「笑うファシズム」と表現している。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」09

「憲兵隊にしょっぴかれるわけではないが、私たちは人の目を気にし、疎外を恐れて、言えることと言えないことを選別して生きていかなければならない」と、さらに今の時代を表現する。そして、
「そうした自由の抑圧に正義感を抱く人々も多いようだから」と、ほら来たぞ、「正義」を振りかざす人々のこと。「となると『砂の女』という作品を、仁木順平がファシズムに絡めとられた犠牲者」、私はそう読むのだが「と見るよりは」で、次だ「「こんなおかしな人間は、捕らえられて当たり前」と思って、すり鉢の村を肯定する読み方をする人もいるかもしれない」と、この現代社会の人間が陥りがちな皮肉がステキだ。確かに、今の時代、「余計なことを考えたり、余計なことをしようとするから、大変な思いをする。だからおとなしくすり鉢で暮らしていればいいだけじゃないか、と。」という人が絶対多数だと思う。
 ただ、その後にある文にドキッとした。
「自分が自由な人間であることを認められるということは、同時に社会から絡め取られることでもある。…。自分が表現したことが認められることによって、それが自分自身を縛ることにもなる。自由の獲得とは、何にもすがれず、頼ることもできない、心許ない生きづらさを痛感することを意味している。人間のアイデンティティとは、何処まで行っても不条理なのだ。」、これには、マイッタ。そうなのだ、安部公房作品は、アイデンティティを自由に生きるためと、空気を読めない自己主張の人という狭間で右往左往する人の作品なのだ。
 安部公房作品のほかの作品にも読み取れるアイデンティティの不条理、これが『砂の女』なのだ。そして、「砂」こそ、もがき足掻くほど思うように動けない「壁」なのだ。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」10
 第2章は、「世間」の壁。小説集『壁』を中心とした初期作品について言及されている。
 第2章中ほどに、こう書かれている。
「若い頃に孤独感や自分自身のメンテナンスの難しさに直面し、社会に対する疑念が生まれてくると、シュルレアリスムという思想に傾倒する時期が一度はあるのかもしれない。超現実主義は実存と密着したものだ。私は学校という組織がこうしろと訴えかけてくるものとの齟齬が激しくなるほど、超現実主義に惹かれていき、現実の大人の社会への反発を強く感じた。」

壁とともに生きる わたしと「安部公房」11

 私は、中学時代、美術の通信簿は2や3ばかりだったが、サルバドールダリの絵に魅了され、シュルレアリスムの扉を叩いた。そして、「超現実主義は実存と密着したものだ」とあるように、ニーチェやサルトル、フッサール、ハイデッガーやキルケゴールなどの実存主義にも嵌って行った。
 この章には多くの初期作品のことが書かれてる。私も初期作品の、恐ろしくもユーモアに富んだ作品に夢中になった。
 中でも『闖入者』は面白い作品。自分の家に見知らぬ家族が押しかけてきて、同じ家族だ、そして、何でも多数決で決めるのだ。家族は絶対的な最小のグループ。世の中、家族が一番なんて言ってるけど、安部公房は家族の怖さを描いてる。見知らぬ家族が押しかけて、何でも多数決で決めていく。これは、民主主義のダークな部分。所詮、民主主義とは全体主義の亜流じゃん、なんですね。
 今回のコロナ・パンデミックに照らし合わせて、こうも書かれている。
「今回のパンデミックによって社会が封鎖されたとき、日本は民主主義を謳っていながら、実は民主主義という体の中で、別のものに縛られていると実感した人たちも多いのではなかろうか。」
 これ、私だ。
「保障もスムーズに稼働しないし、フリーランスや芸術家には生き延びるための保障がなかなか与えられない。経済生産性がなければ人間としての命の保障もないがしろにされる場合があるという、民主主義の体をとった全体主義を感じてしまう。」
 この作品、さらに、後に『友達』という素晴らしい戯曲が書きあがって、初演は青年座で、その後、改訂版が安部公房スタジオで演劇化されました。安部公房スタジオによる『友達』、私、観ました。主人公を仲代達也さんが演じられてましたが、最後は檻に入れられて、「反抗しなければ、いい家族でいられたのにねえ」みたいな。と。今の日本ですねえ。置き換えられますから、怖いですね。多数決とは、ダークな民主主義、全体主義への道かも。ちなみに、私、安部公房スタジオ会員でした。
 安部公房は、戦争中満州でいろいろな体験もしながら、戦後、日本に戻り、先の『砂の女』で有名になる(世界的にも、41か国語に翻訳された)までは、大変な日々でした。芥川賞を受賞した初期作品『壁』の頃も、まだまだ大変だったみたいです。
 第2章は、安部公房文学を知る上では、大切な章ですね。
 デパートの屋上でボウッと下界を眺めているお父さんたち。『棒』という小説である。後に『棒になった男』として戯曲化された(これは観てない)。この作品からインスパイアされて、私は社会人の時、同じ会社の同僚と「棒のエチュード」というシナリオを作り短編映画を撮った。いかんせん、監督兼カメラマンの彼が若くして他界した。未完成。
 高校時代に、私が小説を書くようになったのも、安部公房の影響です。当時、弦楽部(ギターマンドリンクラブ)にも所属してましたが、創作活動をする文芸部に所属しました。初めて書いて発表した小説は「梅雨」だと思う。梅雨の鬱陶しさと、この社会で生きる鬱陶しさを重ね合わせ、主人公は最後、地に足を着けずに歩みながら、駅の構内のポスターになって、それがペロンと剥がれて終わる作品だったと思う。
「何が言いたいか分かりません」という多くの意見の中、「横井さんの作品は凄いって。読んでみて」と広めてくれた、確か二年下の小島沙織さんには、感謝でした。
 分かってくれる人がいたことに感謝です。自分の話になりました。失礼。
「社会に発生する不条理、たとえば、なぜいまだにISのような集団が生まれてくるのか、プーチンの暴挙は何を意味しているのか、戦争はなぜ発生するのか。そんな疑問を解く鍵になるのが、歴史の学習と、安部公房の文学を読むことだと思う。」
 私もつくづく、そう思います。昨今のパンデミック以降の管理社会、メチャ怖いです。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」12
 第3章は、「革命」の壁。ここでは、主に『飢餓同盟』を中心に、あと、次の章での『けものたちは故郷をめざす』も語られてます。安部氏は、初期作品で、イソップみたいな、やさしい語りでありながらドキドキする作品を連発してますが、この『飢餓同盟』や『けものたちは故郷をめざす』は、すごくリアリズムに富んだ作品です。
 とはいえ、登場する人物の名前も、そこで発明される、おかしなマジックも、相変わらず、彼の魔法のチョークの仕業です。私は、彼の魔法のチョークが欲しかったのですが、永遠に手に入れることはできませんでした。
 で、何故に「革命」なのか。安部が絶えず体制に対してモノ申すには、革命しかないと思っていたかもしれません。そんな革命も、壁を作って、私たちの前に立ちはだかるのです。そんな物語が「ひもじい同盟」改め『飢餓同盟』のゴタゴタ世界なんです。
 そして、この作品だけじゃなく、安部公房の長編小説全般の終わり方についての解説が面白い。
「終盤一気に物語は動く。それまで苦労して準備してきたことが、動き出した途端に、今までのすべてはいったい何の意味があったのかと虚しい余韻を残して終わっていく。」
 これを、大江健三郎が晩年の安部公房との対談で、三島由紀夫がかつて『他人の顔』などの安部作品を、こう評していたと言ってます。
「安部君は最新の技術と部品と、それに古いガラクタもあれこれ集めて、ものすごく大きな戦車を作る。さあできた、といって動いた瞬間ゴトンとエンコして小説は終わる」いやあ、面白い譬えです。
 この章の最後の方に、こう書かれています。
「「頑張ればきっとうまくいく」とか、「明日に希望はある」と、人間のやる気を扇動するような文言は、嫌なことがあった時に飲むアルコールのような効果はある。人間もっと悲観的に生きろ、とも思わない。ただ、時々こういった人間社会を俯瞰で考察した寓話や小説を読んで、現実の正体を確認しておくことも必要だと思っている。」以下、大事です。「政府やメディアの報道や宣伝を鵜呑みにしてしまうような脳にならないようにするためにも、こういう作品を読んで我々が生きる社会に対する猜疑心を機能させておいたほうが、よほど自分を救うことになる。」
 その通りだと思います。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」13

 この章のラストには、2021年夏、コロナパンデミックの中、東京オリンピックが開催された際の有観客OKの三県のことが書かれてます。その一つの県、宮城県。「有観客にこだわる宮城県知事と、それに反対する仙台市長とが対立」したことに対し、「それこそ地方都市に露呈した日本政治の縮図」だと書かれてます。まさに「ひもじい飢餓同盟」ですね。
 そんなオリンピック、やめちゃいな、私は思っていました。なんせ、昔のオリンピックと違って、今のオリンピック、何のために・・・。オリンピックみたいな、肉体競技の大会で、世界が一つになるなんてありえない。
 あと、ロシアのウクライナ侵攻についても、「核兵器や生物・化学兵器の脅威を普通に感じるような毎日になった。」と。安部氏が先見の明で予言していたことが起きてます。
 現実ほど非現実的なもの。そうです。そして、この小説の舞台となった花園という町自体が一つの巨大な病棟として描かれていることに対し、この著者さんは、この章を以下のように締めくくっております。
「いまやどこまでの範囲が病棟なのかすらわからなくなってきている。」と。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」14
 第4章は、「生存」の壁。第3章でも書きましたが、安部氏は、初期作品で、イソップみたいな、やさしい語りでありながらドキドキする作品を連発してますが、前章の『飢餓同盟』や、この『けものたちは故郷をめざす』は、すごくリアリズムに富んだ作品です。
 しかも、前章の『飢餓同盟』には、まだユーモアもあったのですが、この『けものたちは故郷をめざす』を、第1章の砂の女の『砂』が、故郷を目指す主人公とその信用できない相手の旅する荒野を形成しています。
 この作品を読んだ後、アンドレ・カイヤット監督の映画作品「眼には眼を」観たんだけど、テーマは異なれど、何処までも続く砂漠の荒野を歩く二人、その圧倒的な砂の世界を見せられ、安部公房の、この『けものたちは故郷をめざす』を思い出しておりました。立ちはだかる砂の壁。なんと、「眼には眼を」が制作された1957年、この『けものたちは故郷をめざす』が発表されてるんですよ。
 そして、この作品は、最後やっと辿り着けるかと思った故郷「日本」の前に、また立ちはだかる壁。しかも、その壁を乗り越えても、自分が目指していた故郷ではない日本が、日本人の彼の存在を否定するような場所として終わります。
 その終わり方は、後にしまして、主人公の久三とともに旅を共にする高、この二人の関係が、まさに、この第4章半ばに的確に捉えられております。それは、協調せず共生するということ。否定しあっている二人のコンビネーションの結束力について、こう語ってます。
「嫌な奴とずっと一緒にいなければならない。しかもその相手は信用できない。そこも素晴らしい。信用できないものとの共生というのは、人間にとって大事なこと」と。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」15

 そして、こう続く。
「今の世の中は人を信じることが美徳とされ、それを否定するようなことを言うと残念に思われ、卑屈な人間だと疎まれる。でも実際には人間の世界なんていうのは、何かひとつ崩れればたちまちこうした状況になるのが現実だ。現代の日本のように経済的に豊かになった国は、正義や信頼や、真っ当な価値とされるものを否定しない社会を無理やり作ろうとする。」
 中略。
「安部公房の作品は今のような疫病の流行下でこそ読めば面白いと思うものがたくさんあるけれども、人間は所詮自分の判断で生き延びていくしかないという意識を目覚めさせてくれるきっかけとなるのではないだろうか。」と。
 真の共生とは、協調することではない。協調しなければ共に生きられないとすれば、真の民主主義ではない、それは全体主義だ、ナショナリズムだ。前へ倣え!全体進め! それが出来ないマイノリティは置いてきぼりを食らう、そんなマジョリティだけの共生は、似非民主主義である。
 小説内ラスト近くの文章が引用されてますので、私も引用します。

 ドアはすぐそこにあったが、その内部は無限に遠いのだ。けっきょく、あの人っ子ひとりいない荒野と、すこしも変わりはしないじゃないか……いや、もっと悪いかもしれない。荒野はのがれることをこばんだのだが、町は近づくことをはばむのだ……

「人間たちであふれる都会も、無人の荒野と変わらない」と。「いや、もっと悪いかもしれない」と。
 さらに、最後の名高い場面は圧倒的で、これも引用されてますが、長いので私は引用止めておきますね。
 ただ、著者さんが、そのあとで、こう語っています。
「安部公房の文学は、自由や個人という言葉に翻弄され、傷つきながらも必死で人生を突き進んでいく人間の心を支えてくれる、励みと諦観の文学とも言える。」と。
 以上が第4章。ここまで読んで、気づいたことがあります。最後に書きます。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」16
 第5章は、「他人」の壁。前半は、長編7作目の『他人の顔』について書かれてます。
 その前に、冒頭、長編作品の流れを紹介。1作目『終わり道の標べに』(1948)、2作目『飢餓同盟』(1954)、3作目『けものたちは故郷をめざす』(1957)までは前の章で述べられてるので、ここでは、4作目の『第四間氷期』(1959)から。この『第四間氷期』が、私の安部公房との出会いとなった作品。確か高校1年ではなかったか。この作品については、第6章に少し出てくるので、また書きます。5作目は『石の眼』(1960)、そして6作目が著者さんが安部公房との出会いとなった『砂の女』(1962)です。
 そうして、ここで採り上げられてる『他人の顔』(1964)、その後、『榎本武揚』(1965)、『人間そっくり』(1967)、『燃え尽きた地図』(1967)、『箱男』(1973)、『密会』(1977)と続きます。私にとってリアルタイムは『箱男』以降ですね。ですので、新しい作品が登場するのを待ち望みながら、それ以前の作品を遡って読んだわけです。
 あと、私が第2章の感想で少し触れた「安部公房スタジオ」のことも書かれてます。1973年に旗揚げし、田中邦衛、仲代達矢、井川比佐志、山口果林らが参加。1979年、「仔象は死んだ」でアメリカ公演を最後に活動休止まで、作・演出だけじゃなく、当時まだ珍しかったシンセサイザーで音楽まで手掛けてます。名古屋公演があると会員である私は観に行ったのですが、どこの会場だったか、中日劇場?、台本が売ってて買ったら、近くのソファーに、安部氏がボウッて腰を下ろしてられて、見つけた私が寄っていくと他の人たちも寄っていく。そしたら「なんとなく並んでくれると嬉しいな」とおっしゃられ、買った台本の一冊『人命救助法』にサインして頂いたんですねえ。嬉しかった。
 さあ、『他人の顔』を見ていきましょう。
 顔一面にケロイドを負った主人公が他人の顔を作って、それで妻をそそのかす話。まんまと引っかかるのだが、どっちの自分と付き合ってるのか混乱し始める話。
「孤高の猛禽類ではない人間にとって、群れとして帰属するその最もシンプルな単位が夫婦…中略…たとえ会社や国家という大きな社会で不条理な目に遭っても、最小単位としての夫婦や家族に帰属できていれば、まだ何とかなると思う。」と。私は、これを家族幻想だと思う。そんな幻想の中でつつましく暮らす人々が多い、かな?

壁とともに生きる わたしと「安部公房」17

「まずは一番身近な社会単位における理解と認知を得たいと思うから、男は妻に執着することになる。」
 女性より男性に多いかな、相手への執着というか依存は。私はないが。
「何かに照らしてみないと自分が見えてこない。まさしく妻が手紙で言うように、自分の姿を映してくれる鏡が必要」と、相手を見ているのでなく、鏡に映る自分を見てる、ということなのだね。
 カフカの「変身」も同様な物語であることも指摘されてます。
 これくらいにして、この章の後半は、『燃えつきた地図』『箱男』『密会』が語られてます。
 まず『燃えつきた地図』は、失踪者を追う探偵の話。だが、自分自身がどんどん曖昧になって、いつしか自分が失踪者になる。
 面白い譬えが書かれてます。
「これこそまさに内山田洋とクールファイブ「東京砂漠」というやつ」とね。あはは。
 そして、『箱男』。段ボールを被るという究極の失踪のお話。前に、私がリアルタイムなのは『箱男』からだと述べたが、ちょうど、国語の時間に、私が書いてた安部公房まがいの小説を読んでくれたりもした国語の仁道先生が、生徒とともに、この『箱男』を実体験しようと、栄の町を段ボールを被って歩き回ったそうな。残念ながら、私とは別のクラスの生徒たちと行ったことを後で知り、自分も参加したかったなあ、思ったものだ。
 1972年の講演「小説を生む発想-『箱男』について」で、安部氏は語ってます。
「民主主義の原理をとことん突き詰めてみると、意外と全員が箱男になってしまう」と。
 著者さんは言う。
「名前を失くしたり、顔を失くしてしまったりしてアイデンティティを失う一連の登場人物もそうだが、そうした孤独で自由な存在が世間と足並みをそろえて動くのではなく、考え方や行動が一律でなくても、価値観が違っていても、共生していける社会が民主主義だと安部公房は暗に言わんとしているのではないだろうか。」
 そうだと思う。
 そして、次の『密会』。誰も呼んでいない救急車が男の妻を連れて行ってしまう。妻を探しに病院へ行くのだが、そこは都市のような空間で、悪夢のような迷路。
 著者さんは「読後の違和感がひどく、まるで船酔いした気分」と語ってられ、作者自身も『死に急ぐ鯨たち』にあるが「インタビューに答えるため、8年ぶりに読み返してみたわけだが、われながらその不気味さにたじろいでしまった」とある。
 私は、そうかなあ?と思っている。この作品、結構、好きですよ。ワクワクして読んだ覚えがあります。冒頭のエピグラフからして好きだ。
「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている……」。
 生理的にも精神的にも不快な絶望感に満ちていると、その一例として「踏みつけられた海綿のように、ねばねばした嫌な感じが毛穴からにじみだす。冷凍ミカンの表面についた氷の薄皮のように、希望がぱらぱらと剥げ落ちる」が挙げてあるが、私は、安部公房のそうした生理的表現が好きだ。私自身、安部公房の作品を読むと、ミミズがお尻の穴から腸へ伝ってくるような、三葉虫が尾てい骨をゴリゴリ齧るような、そんな感触を受けました。そんなこともあって、私の尾てい骨は膨れ上がり、尻尾にまで成ってしまってます。
 コロナ禍になって、三密(密集、密接、密閉)を避けましょう、なんて言ってますが、私は、四密にして、この『密会』も入れるべきではないか、真剣に思いました。これ、安部公房流の思考ですけど。
 そして、この虚無感作品は、最晩年の小説『カンガルーノート』(1991)に繋がっていく。これは、脛にカイワレ大根が生える奇病に侵された主人公が自走する病院のベッドに乗って地獄巡りをする。これも、現代社会を描いたステキな作品。
 彼の、現代社会を病院や病棟と捉えるやり方は、第2章の『飢餓同盟』の頃からあるのですね。
 さあ、最後の章に行きましょう。


壁とともに生きる わたしと「安部公房」18
 第6章は、「国家」の壁。『方舟さくら丸』(1984)を中心に。というのも、この章の最後の方は、エピローグに近いのだ。長いプロローグ(20ページ近い)はあるが、エピローグがないぞ、想ったら、この章の終盤がエピローグなんだねえ。
 この『方舟さくら丸』は、まさしく現代版「ノアの方舟」。船と呼ばれる核シェルターと乗船券
を巡ってのお話。《もぐら》という主人公は、今で言う「引きこもり」であり、「オタク」である
のだがもし現代に生きているとすれば「SNSに匿名でネガティブなコメントを書きまくるタイプ」。月に1度だけ街に買い物に行く。その時、ユープケッチャという虫を売る昆虫屋と出会う。ユープケッチャとは、時計回りに回転しながら自分の糞だけを食って生きる、まさに、何物にも帰属も依存もしない生き物。それを購入するのだが、この昆虫屋と、そこで客寄せサクラをしていた二人組、サクラと女が、乗船権を持つことになる。
 選ばれし者だけが乗船できるというのは、選ばれないものは排除する、ということだ。そんなところへ、ほうき隊という老人グループが侵入してくる。清掃奉仕隊だが、裏で産業廃棄物の不法投棄もする。「精神の浄化」や「人間の掃除」も目標と掲げている。このほうき隊は、
「それまで暗示されていただけのナショナリズムのテーマを具体的に形象化している。これは寓話や空想というよりも、現代日本のリアリズム的な形象で、高齢者の数が増えればこのような群集心理が発生しても不思議ではない。しかもそれが、生々しい組織的なナショナリズムとして発動する。」
 このコロナ禍における、自粛隊みたいだね。
「自分たちの考え方や方針にゆるぎない正当性と倫理を見出しているこうした正義集団は無敵である。」
 正義風邪に罹って、コンプライアンスの旗を振りながらマイノリティをイジメるわけだ。
 あと、ルート猪鍋という地元の不良少年グループ。これは省略。
 そして、「もしぼくに何かあったら、次の船長は君がいちばん適任かな」と言ったとき、サクラは「おれが船長になったら、この船、[さくら丸]だぜ。笑っちゃうよ。羅針盤もなけりゃ、海図もなしだ。走る気もないのに、走ったふりをしてみせるだけの船になっちゃうぜ」と、ここで、タイトルが作中に登場する。
 ここで、三島由紀夫が安部作品を評していたコトバを思い出す。
「安部君は最新の技術と部品と、それに古いガラクタもあれこれ集めて、ものすごく大きな戦車を作る。さあできた、といって動いた瞬間ゴトンとエンコして小説は終わる」
 この作品の中身で言いかえれば「主人公《もぐら》が最新の技術と部品と、それに古いガラクタもあれこれ集めて、ものすごく大きな船を作る。できた、といって動いた瞬間、もぐら丸はさくら丸となって、ゴトンとエンコして小説は終わる」
 この「さくら」は、客寄せサクラの前に、桜、つまり日本の象徴のような花、でもある。明らかに、これは、日本国家のエンコして終わる物語である。
 著者さんは、こう締めています。
「人間は群れの中で、生まれてきた不安に対して、自分の存在を承認されることで名前を与えられ、役割を与えられ、マイナンバーを与えられ、他者から存在を肯定されることで安堵を得られる生き物だ。逆に言えば「壁」の外に出ることは、自由になることであると同時に、無慈悲で非情な現実と向き合っていかねばならなくなることだ。誰も自分を映し出してくれない世界では、凶暴な孤独感にも苛まれるだろう。」

壁とともに生きる わたしと「安部公房」19

 さらに続くが、これが最重要だ。
「けれどもナショナリズムなどの集団的高揚感に身を委ねてしまうと、それはとても危険だ。そこでは価値観の共有が強制されるために、自分が船の舵を取ることはできず、また舵を取れるような知性も能力もむしろ推奨されないから、まかり間違うと太平洋戦争のように集団で滅亡へと突き進むようなことになりかねない。」
 今まさに、多くの人が知らぬ間に、そうなっている、そんな匂いのするキナ臭い時代だ。
「そういうことのないように、それぞれが自分自身で舵を取れる知性の力と想像力を備えようとする。たとえ群れの中で生きていても、流されずにたちどまって、俯瞰で人間の生きざまを観察する能力を持つことができるように、自立した精神性を鍛えること。社会が大きな不安と混乱に陥っている今のような時代にこそ、作家が鳴らした警鐘に耳を傾けるべきではないだろうか。」
 本当に、その通りです。
 はい、ここまでが第6章で、同じ第6章ですが、「晩年の作家-原始的情動の発露」からは、エピローグ的な内容です。
 未完の作品『飛ぶ男』のことも書かれておりますが、このエピローグ的な内容に、先にも書いた、私が初めて安部作品と遭遇した長編小説『第四間氷期』が出てきます。

 私が安部公房作品に嵌るきっかけとなった『第四間氷期』は、海底火山の噴火や炭酸ガスなどによる温暖化により、北極・南極の氷が融けて海面が上昇、陸地がすべて水没する未来を、コンピューターの人工知能が予測する話です。そして環境変化をのがれた人類は今でいう遺伝子組み換え技術を使い、鰓を持った水棲人間に変化しているんですが、その未来を受け入れるか拒絶するかで、現代の人間は対立することになります。
 安部公房作品は、すべてに対して「一般的には無機的でドライで理系の文学者捉えられがち」ですが、市原悦子さんは「あんなに温かい人はそうはいない」とおっしゃっていたそうです。
「外側をどんな甲冑で防御していようと、親切で優しくそして、常に悲しさや寂しさを抱えている繊細な人じゃないと、あのような文学は書けないと思う。」
 そんな心の揺らぎも含めた、安部公房文学における内面、原始的情動の、痛切で美しい発露が、、この『第四間氷期』のラストに、エピソードとして書かれてます。
「海中に水没した世界に生きる水棲人間のひとりの少年が、ふとしたことから過去の地上人の生活
に憧れを抱き、昔「東京」と呼ばれた海底遺跡を探検する。そして地上人がかつて聴いたという「風の音楽」をどうしても聴きたくて、わずかに小さく残った海上の陸地に這い上がる。するとその瞬間、少年は重力で地面に屈してしまう。」

 しかし、待望の風は吹いていた。とりわけ風が眼を洗い、それにこたえるように、何かが内側からにじみだしてくる。彼は満足した。どうやら、それが涙であり、地上病だったらしいと気づいたが……もう動く気はしなかった。
 そして間もなく、息絶えた。


 私は、このシーンで、地上病に襲われ、涙した。
 安部公房作品は、自らのエッセイにもあるように『猛獣の心に計算機の手を』なのだ。
 そんなエッセイ群も、読んだ。『砂漠の思想』『内なる辺境 』『都市への回路』、『死に急ぐ鯨たち』などなど。
 彼の作品を読んだことで、同じような小説が書きたくなり、高校時代から創作を始めた。先に述べた「梅雨」や「キーヨンの糸車」は高校文芸部時代。大学時代には文学研究会で創作活動。「A Fairy Tale」「Foul Play」「To The Sky」「アリエネとリトマス氏」「トゥロ・ドゥ・レの地球最期の日」「交響組曲「風の精」」「地球空洞説」などなど。そうそう、安部公房スタジオの影響で戯曲も書いた「詩人の生涯」、これガリ版刷りで販売したが少ししか売れなかった。これ凄いよ。主人公が二人いる。詩人と荒野の用心棒、どっちかに感情移入すると見方が変わる戯曲。社会人になっても創作は続けた。「ハード・ボイルド・エッグ」「ホット・ドッグ・レース」「ジャスト・ミート・ボール」「ハングリアン・ラプソディ」「釘づけにされた時間」「空中楼閣」(地元出版本に掲載)「目玉焼症候群」「緑葉紀」シリーズ、「Seasons」シリーズなどなど。ネット上で連載した「十万百秒物語」は自費出版したが殆ど売れていない。今思えば、これら小説よりも、詩の中の「ガラクタの集積」シリーズの方が安部公房っぽいかもしれない。
 今は文学的創作活動はしていない。せいぜいブログ「空想俳人日記」を書いているくらいである。

 そんな時、しかもコロナ・パンデミック下、ヤマザキマリさんのこの著作に出会ったのは、とても偶然には思えない。今、改めて安部公房作品とは? そう思いながら読んでいるうちに、ここに書かれていることが、作品の記憶をどんどん呼び覚ましてくれた。
 と同時に、もっと驚きのことに気が付いた。ヤマザキマリさんも10代の頃、『砂の女』に出会って安部公房作品に嵌ってる。私も10代の時だ。10代というのは、まだ思考回路が固まっていない、形成過程の時期だ。そして、この本を読んで、そんな形成過程の思考回路に、どんどんと安部式思考が注入されていったことに気づいた。これは、ヤマザキさんも同じだと思う。
 だから、さらに気が付いたのだ、私自身の物事を考えたり悩んだりしている、この思考回路は、今も安部式思考をする回路として機能しているということを。しかも、そこには、最終章で書かれている。原始的情動までも配置されている。どんなに文学から遠ざかっていても。どういうことか。簡単に言えば、安部公房は今でも知らぬ間に私の中で生きている、ということだ。
 この本のもうひとつ、これも偶然とは思えないが、プロローグの後の第1章は、ヤマザキさんが安部公房文学に嵌ったきっかけである『砂の女』である。そして、最後の第6章の後半のエピローグに匹敵するところの締めくくりが、私が安部公房文学に嵌ったきっかけである『第四間氷期』なのだ。
 この本は、偶然ではなく、必然なのだ。
 ということで、ヤマザキマリさんのこの著作の終わり方と同じように、この文章を終えたいと思う。『第四間氷期』のあとがきである。

 この小説から希望を読みとるか、絶望を読みとるかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても、未来の残酷さとの対決はさけられまい。この試練をさけては、たとえ未来に希望をもつ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではないのだ。(略)さて、本から目をあげれば、そこにあなたの現実がひろがっている……


壁とともに生きる わたしと「安部公房」 posted by (C)shisyun


人気ブログランキング