手塚治虫マンガを哲学する | 空想俳人日記

手塚治虫マンガを哲学する

 この本の著者は、以前読んで「ジブリアニメを哲学する」と同じ方だねえ。
 ここに採り上げられている手塚漫画は、全部読んでいるので、読んでて「ふんふん。そうだよねえ」ばかり。というよりも、手塚漫画は殆ど何らかの形で読んでいるので。

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 けれども、ここに載っている手塚漫画を順番に語ることはしないよ。

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 なんたって、私にとって、手塚漫画哲学入門書は、「鉄腕アトム」なのだ。「鉄腕アトム」は、月刊誌「少年」に1952年4月号~1968年3月号まで本誌と附録で連載された。連載開始の頃は、私はまだ生まれていない。でも、小学生になって、毎月「少年」を買うようになった。勿論、この「鉄腕アトム」を真っ先に読みたくて(途中で、毎月「少年画報」も買うようになった。「マグマ大使」が読みたくて)。
 とりわけ今でも鮮明に記憶に残っているのは、1964年6月号から1965年1月号までの「史上最大のロボットの巻」。私が8歳から9歳の頃だよ。ロボット同士の争いの話だね。でも、これは、人間同士の戦争の話だと思ったよ。
 それから、1965年1月号から5月号の「ロボイドの巻」は、少し悲しくなったねえ。
 そして、なんてったって、1965年10月号から1966年3月号の本誌と附録で読んだ「青騎士の巻」。私が10歳の時だ。この「青騎士」は、後に、手塚先生がジレンマに陥りながら描いてたことを知った。何故なら、人間VSロボットの話だからねえ。でも、ロボットに責任はない、何故ならロボットは人間が作ったものだ。なのに、今、危惧されているAIに人間が支配される、そんなことが、まるで予測しているような描かれ方だ。しかも、ある剣に触れると、感電したようになるロボットと何ともないロボットと二分され、何でもないロボットは解体送りされる。まるでコロナ禍のPCR検査による陰性と陽性みたいだ。症状がない陽性者も隔離される。
 私は、教科書以上に手塚作品をバイブルのごとく読んでいたから、今の思考回路には、手塚先生に教えられた常識をまず疑うこと、が刷り込まれている。常識とは、何も考えずに従う暗黙の了解が多いからだ。
 アトムも、おかしいと思えば、悩む、悩んで考える。私は、小学校の頃から悩んで考えて大きくなってきた。アトムになりたかったからだ。

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 さて、そんな子どもの頃の手塚作品からの影響は、ここでは、「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「どろろ」だ。これらは、漫画よりもテレビアニメで私の心に
 テレビでの「ジャングル大帝」は、1965年10月6日から1966年9月28日、「リボンの騎士」は1967年7月2日〜1968年4月7日、「どろろ」は1969年4月6日~1969年9月28日。私が10歳から14歳。
 これらの原作漫画は、後にコミックで読んだ。
 リボンの騎士には、性同一障害、今で言うLGBTQ、どろろには、48ものパーツがない百鬼丸と、どろろの逞しくも美しき友情(愛情かも)に、心打たれた。

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 あと、「ブラックジャック」や「アドルフに告ぐ」「三つ目がとおる」「陽だまりの樹」「ブッダ」は、確か大学時代や成人してから、コミックで読んだんじゃなかったかな。

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 これらが、この本で哲学されていることには、メチャ共感を覚えたけど、ただ、先に少し触れた「ジャングル大帝」、これだけには、反対論を述べたい。というのも、ここには、動物園が否定されている。何故なら自然の中で生きるべき動物を檻に入れて見世物にしていることが書かれている。確かに、私も、以前、動物園の動物は可哀そうだ、そう思っていた。
 しかし、現代では、どうだろう、自然の中で動物が生きられる環境なのだろうか。森林を伐採し、人為的気候変動をもたらしている人間のせいで、生物の多様性は失われ、絶滅危惧種がどんどん増えている。
 私たちは、そんな自然環境破壊の今、動物園の動物たちをメッセンジャーとして捉えるべきではなかろうか。ジャングルやサバンナが身近でない私たちは、人間しか見ていない。人間中心の社会で生きている。でも、たくさんの動物や植物、生き物たちも仲間であること、ともだちであることを絶えず自覚していなければならない。
 そうした自覚を忘れないがために、動植物園にいる動物や植物たちと時に会話することが大事ではなかろうか。
 オーストラリアでは、森林火災で野生コアラがヤバい状況にある。そんな中、東山動植物園では、タロンガ動物園への寄付を行い、私も寄付に参加した。そんな東山動植物園では、コアラの繁殖のおかげで、どんどん子孫が生まれている。
 また、絶滅寸前のツシマヤマネコも繁殖に成功し、日頃の展示は、人間へのメッセンジャーのオスだけでメスはクローズドされている。
 こうした試みをする動植物園に、私は応援のエールを送りたい。
 あの「火の鳥」の未来編では、すべてが破滅し、僅かな人間たちは地底都市で暮らす。そんな中、世捨て人の博士は地上で、昔を思いながら、地上に生きていた動物たちを大きな試験管の中で創造しているシーンが忘れられない。
 動物園は、いつかそうなるかもしれない。人間によって環境破壊された結果、人間以外の沢山の動植物は地球上からいなくなり、唯一、かつて地球上で生きていた者たちが動植物園にしかいない、という。

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 そう、この本で採り上げられている作品で、私にとって、まさに哲学書は「火の鳥」である。最初に出会ったのは、1967年に雑誌『COM』に連載された「黎明編」だ。その後、虫プロ商事による「COM名作コミックス」で「黎明編」「未来編」「宇宙篇」「鳳凰編」「復活編」を読んだ。高校生の頃だと思う。あとの「編」は、随時だねえ。
 例えば、「未来編」では、コアセルベートからやり直し、最初から生物の歴史を作り始める。途中、ナメクジが霊長類になるのは面白いエピソードだが、それも滅ぶ。滅び方は人間が今歩んでいる道と同じ。
 例えば、「復活編」では、ロビタというロボットが家政婦として重宝がられる。人間味あふれるロボットで、子どもたちとチャンバラなんかして遊ぶ。でも、大人の中には、「危ないじゃないか」というのに対し、「でも旦那様」と、子どもを育てる意味を知っている。このロボットは、昭和の記憶を受け継いでいる男(人間)と、彼が唯一愛することが出来たロボットが合体されて量産されている。結果、欠陥ロボットとして、廃棄処分になるのだが。
 例えば、「鳳凰編」。心清い仏師の茜丸。片や、生まれた時から嫌われ者で、盗賊になって人も平気で殺す我王。この二人がある時、東大寺大仏殿の鬼瓦作成で争うことに、茜丸のいつの間にか権力欲しさ、名声欲しさになっている。我王は、小さな虫けらを救ったことで、生き方を変えつつある。この二人の芸術的作品、茜丸も認めるほど我王の作品は凄い。でも、自分が認められたいばかりに我王の昔の素性を語り、自分が勝利者へ。後に、大仏殿の大仏建立の総指揮者になる。私は、これを読んで、歴史の教科書にはないけれど、まさに、こういうことがあったんじゃないかな、思った。手塚さんは他の作品で書いてられる。
「歴史にも書かれねえで死んでったりっぱな人間がゴマンといるんだ」(陽だまりの樹)、だよ。
 最後は、我王は、茜丸から人否認の極道であることで、両腕を切られ追放される。でも、石造だけは時代への怒りをぶつけ、ノミを口に銜え、作り続ける。いつしか、彼の周りにも、共に生きる生物多様性の象徴に囲まれる。今の時代への警鐘、じゃないかな。
 人間の欲望を抑えるために、目の前の欲望の日を目を閉じれば見えなくなる、そう描かれた「ブッダ」。でも、目を閉じても欲望はある。ならば、心の眼も閉じればいい。しかし、私は、まだ、そこまで達観しては生きられない。目は閉じるが、心の眼は閉じられない。

 漫画なのに哲学書。もひとつ、文学であるのに哲学書、安部公房作品にカブレ出したのも高校の時だ。
 手塚氏の漫画やアニメは、私にとって、ただの漫画やアニメではない。絶えず、生きるとはどういうことかを教えてくれた、いや、考えさせてくれた哲学書なのである。
 いつしか、現代、便利なのがいい、ということで、コンビニエンスになっている。それは、動くのも簡略化するばかりじゃなく、考えることも便利に、多くのことを考えなくて済む。そして、できれば、見た目で判断できれば便利だ。そうなっている。
 便利とはなんだろう。私は、人間らしいことよりも、今、「おい、見てよ」とビジュアルだけで生きているような気がしてしょうがない。
 奥深い思想は、もう、令和に入って、コロナになって戦争も起きて、もうないのかもしれない。
 それでも生きていける人は羨ましい。多くの挫折者と自殺者を知らずに「あはは」と笑って生きること。私には出来ない。
 むしろ、私は、手塚作品を通して、現代社会が、こんなに荒んで考えることをしない人が増えていることを憂いたい。残された人生を足掻いて生きていきたい。


手塚治虫マンガを哲学する posted by (C)shisyun
 

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