安部公房『箱男』(再読) | 空想俳人日記

安部公房『箱男』(再読)

 これ、再読である。と言っても、最初に読んだのは、高校二年生の時で、新潮書下ろしの単行本でのことだ。
 今回、どこでも、ちょこちょこって時間のある時に読めるように、新たに文庫本を買った。この再読、半世紀ぶりということになる。凄い。

安部公房『箱男』01 安部公房『箱男』02 安部公房『箱男』03

 何故に今これを再読する気になったのか。ある筋から、来年2014年が安部公房生誕100年になる。そして、それを機に、この『箱男』が映画化される。主演は、カメラマンでもある永瀬正敏である。そんな情報を得て、読まねば、思ったのだ。
 読むのにあたって、確かな記憶はないが、高校時代、夢中になって読もうとしたら、「あれ」「あれれ」「あれれのれ」になったような。だいたい、安部公房作品は、「あれれ」で普通だから仕方がないのだが、どんなにワクワクドキドキ読んでても、途中から「あれれ」「これれ」「それれ」になることが多かった。それも魅力だったのだが。
 だから、今回の再読は、大江氏追悼の意で読んだ2作品と同時進行で、夢中にならないように読んだ。勿論、章ごとの安部氏の書きっぷりは、上手いのだ。比喩が最高に気味悪いほど気持ちがいい。特に、エロイ描写が上手い。高校の同時期に安部氏の作品の次によく読んでたのは大江健三郎だが、彼のエロイ描写が好きだ。ただ、似てない。大江氏のは観念的エロさだが、安部氏のは生理的エロさだ。
 とにかく、引き込まれちゃうのだが、おおい、ちょっと待て、そんな、もう一人俯瞰する別の自分を立てて置かないと嵌る。そして、絶えず疑心暗鬼で読む。そのために、あえて、集中的に読むのでなく、言い方悪いけど、片手間に読んだ。
 そしたら、これが功を奏して、
「ここに書かれてること、鵜呑みにしていいかあ」と思いながら読むようになった。これだ。ほかのあらゆる小説が、小説家のあることないこと、本当でも嘘でも、信じて読み進めて、起承転結、
「ああ、感動したよ~」だが、安部氏の作品、特に、『箱男』は、最初から、それを否定しているような構えだ。
 半世紀ぶりに読むので、「なんだ、つまんない作品じゃん」でもいいと思って読み始めた。半世紀前と違って、ありがたいことに、インターネットという世界が何でも教えてくれる。

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 ウィキに章立てと「あらすじ」ごときがあったので、それを利用して、どう読んだか、語る。安部氏みたいな嘘はないので、ご安心を。

《上野の浮浪者一掃 けさ取り締り 百八十人逮捕》
冬ごもりの季節を控え、上野公園や上野駅周辺の浮浪者を一斉検挙したという新聞記事。


 ボクたちは、新聞やテレビ、いまではインターネットでいろいろなニュースを見る。見るというよりも、情報が垂れ流される。これは、そんなひとつの情報だね。

《ぼくの場合》
「箱男」の〈ぼく〉自身が、箱の中で「箱男」の記録を書き始めることを表明する。


 ここで大切なことは、箱の中で「箱男」の記録を書き始める、ということだ。安部公房は自分が書いてるんじゃない、なんて言ってるようなものだ。気をつけよう、安部作品。それと、「記録」だ。今起きていることが表現されているのではないかも。

《箱の製法》
「箱男」として行動するためのダンボール箱の寸法や覗き穴の製作方法などが説明される。


 これは、どうでもいい。ただ、この本を読んで、自分も箱男になりたい人がいたら、大切な章かもしれない。

《たとえばAの場合》
Aという或る男が「箱男」になったきっかけの物語。ある日、Aのアパートの窓の下に住みついた一人の「箱男」を、Aは空気銃で威嚇射撃して追っ払うが、その後自分自身も、新しく買った冷蔵庫のダンボール箱をかぶり、やがて「箱男」となって失踪する。


 ほら、たとえばA、Aって誰ヨ。そのAのことを誰が書いてるのよ。ここでの「空気銃での威嚇射撃」は、ちょっと気に留めておいた方がいいかな。

《安全装置を とりあえず》
運河をまたぐ県道の橋の下で「箱男」の〈ぼく〉は、「箱を5万円で売ってほしい」と言った〈彼女〉を待ちながら、「ノート」をボールペンで書いている。万一〈ぼく〉が殺されることがあった場合のための安全装置のためである。一旦インク切れで中断し鉛筆で書き始めるが、字体は変わらない。〈ぼく〉は「あいつ」に殺されるかもしれないと考え、「ノート」の表紙裏には、「あいつ」(中年男)が空気銃を小脇に隠しながら逃げて行った時の証拠のネガフィルムを貼りつけてある。


 さあ、そろそろ、箱男が本来なら世間と隔絶したがってるはずなのに、世間と関わりを持つのだ。それは箱男じゃない一般の人とは違う、特定な相手と関わっていく。「彼女」という第三者だ。
 ここで、先に述べておきたいのが、箱男を筆頭とした同類男子は、みな名前がない。それに対し、女性は、名前が明らかになる。それは何でだ!

《表紙裏に貼付した証拠写真についての二、三の補足》
1週間か10日ほど前、〈ぼく〉は立小便の最中に肩を空気銃で撃たれ、その逃げる中年男の後姿をフィルムに収めた。〈ぼく〉は「箱男」になる前、カメラマンだったが、仕事の途中でずるずると「箱男」になってしまったのである。
中年男が逃げていったその直後、傷口を押さえていた〈ぼく〉の箱の覗き穴に、「坂の上に病院があるわ」と3千円が投げ込まれた。立ち去ったのは自転車に乗った足の美しい若い娘だった。その晩〈ぼく〉が病院に行くと、医者(空気銃の男)と看護婦(自転車娘)が待ち受けていた。看護婦の〈彼女〉に手当てをされながら麻酔薬を打たれ、いつの間にかぼくは「箱男」の知り合いのふりをして箱を5万円で売る約束をしていた。〈彼女〉は元モデルだという。


 この章で、今回のお話の全貌というか、出演者一覧が明らかになる。ような錯覚を覚える。ここから、分かりやすい物語に行くのではないか、期待感も溢れる。

《行き倒れ 十万人の黙殺》
新宿駅西口の地下道で、花模様のシャツに長靴の浮浪者(40歳くらい)が柱のかげで座ったまま死んでいたという新聞記事。


 前章で、「期待感も溢れる」というのに釘を刺すように、冒頭のニュースと同じような情報が流れ込んでくる。
 これは、僕らが、日常、マスメディアに振り回される、それをイメージしての挿入か?

《それから何度かぼくは居眠りをした》
「貝殻草」の匂いを嗅ぐと、魚になった夢を見るという話を〈ぼく〉は書いている。夢の中の「贋魚」は、それが夢か確かめるために、天に向って墜落することを考え、やがて嵐の日に中空に放り上げられ、空気に溺れて死んだ。夢から覚めても本物の魚になれない「贋魚」。居眠りから覚めても「箱男」のまま。「贋魚」も「箱男」も違いがない。


 ほうら、ここで、後で出てくる、「箱男VS偽箱男」「医者VS偽医者」の導線である「偽魚」が登場する。魚になった夢で、ボクは『第四間氷期』を想起した。

《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分ほど前のことである。その手紙をここに貼付しておく》
「箱の始末も一任します。潮が引ききる前に、箱を引き裂いて、海に流してしまって下さい。」という手紙と共に、5万円が投げ込まれた報告。


 前にあった5万円で箱の処理を実行する話。ただ、この話が、ほんとうか、どうか、なぜなら。

《………………………》
自転車で来た〈彼女〉が橋の上から1通の手紙と5万円を投げ込んだ。なぜ5万円も支払われるのか〈ぼく〉は訝り、箱をほしがっている医者がやってくるものと思っていた〈ぼく〉は、その動機が解せず、あれこれと考えも巡らす。


 ほうらほうら、なんか怪しいぞ。このあたりから、作品を鵜呑みにしてはいけない。

《鏡の中から》
夜中、箱をかぶったまま〈ぼく〉は病院へ向った。建物の裏にまわって〈彼女〉の部屋の窓から話をしようと考えるが、ふと電気の点った或る部屋を鏡で反射させて覗くと、〈ぼく〉とそっくりな〈贋箱男〉の前で〈彼女〉がヌードになっていた。それはどこかで見たことのあるような光景で、自分の願望の幻のようで嫉妬心をかき立てられた。〈ぼく〉は〈贋箱男〉の代りに、自分が箱と手を切ってみることを考え始めるが、そのために誰か(彼女)に手を貸してほしいと思いながら、とりあえずそこを立ち去る。


 ほうら、やっぱり怪しい。この章は、彼女に対する生理的描写が卓越だが、今起きていることなのか、妄想が書記化されたのか。

安部公房『箱男』04
安部公房『箱男』05

《別紙による三ページ半の挿入文》
紙も字体も違い、万年筆で書かれている。或る男の前でヌードになった「わたし」(看護婦)と、その時の「去勢豚のあいつ」(視姦者)のことを根掘り葉掘りと聞いている「先生」(医者)の会話文。「わたし」(看護婦)は裸になった後、「あいつ」(視姦者)に薬を注射した。口臭のある「あいつ」は目やにを拭きながら、様々なポーズを要求した。


 ほれほれ、ここからさらに怪しい。医者と看護婦の会話は、明らかに、それまでの語り口と違うよねえ。なんかリアルである。主人公に対し「注射」したとある。主人公の記録に遭ったか? というか、主人公は誰だ?

《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》
3時18分、〈彼女〉の裸の四つん這い姿が網膜に焼きついたままの〈ぼく〉は、T港と湾を隔てた場所の市営海水浴場のシャワーで身奇麗にして、服が乾くのを箱の中で待っている。その海岸は、1週間前、傷の手当のため病院に行く前に身支度を整えた場所だった。〈ぼく〉は、以前目撃したB(箱男)の抜け殻(箱)のこと等を回想し、箱を処分してから朝8時に再び病院を訪ねる決心をする。
〈贋箱男〉(医者)は、〈ぼく〉が「箱男」当人だと知りながらも白を切り5万円の返金受け取りを拒んだが、やがて「箱男」が〈ぼく〉だと暗に認め、箱の所有権を自分に譲渡し、〈ぼく〉と〈彼女〉がここで自由に好きなことをしていいという交換条件に、その行為を覗かせてほしいと言った。病院の時計は10時24分前だった。
〈ぼく〉が煮え切らない態度でいると、〈贋箱男〉は〈彼女〉を名前で呼び、裸になるように指示し、やがて〈ぼく〉に〈彼女〉の至近距離に行くことを促すが、「覗かれる」ことが嫌な〈ぼく〉は、その提案を拒否する。
箱は処分して来たと言う〈ぼく〉に対し、突然〈贋箱男〉が、この「ノート」は誰かが海岸で、箱の中で書いているんじゃなかったっけ? と切り出し、〈ぼく〉も、そうなると「あんたたち自身、ぼくの空想の産物にすぎないことを認めることになる」と応酬する。その時、〈ぼく〉の腕時計は5時8分前を指し、そのわずか約1時間半で「ノート」59頁分を書くのは不可能だと〈贋箱男〉は追及する。〈贋箱男〉は、自分が〈ぼく〉のつもりになって、自分のことを想像している〈ぼく〉を想像しながら自分が書いているのかもしれないと言い出す。
〈ぼく〉が、肩を撃たれた時の犯人の証拠物件のネガフィルムを持っていることを告げると、〈贋箱男〉は態度が急変し、箱の覗き穴から空気銃で威嚇した。〈ぼく〉は、砂をぎっしり詰めておいた鰐の縫いぐるみで〈贋箱男〉と格闘する。脛を叩き続けられた〈贋箱男〉は箱の中で縮こまった。窓から10時の薄日が差し込んでいた。
〈ぼく〉が、もしも医者(贋箱男)なら、紅茶にでも毒を入れてさっさと「箱男」の自分を殺していただろう。〈ぼく〉がまだ生きのびているという証拠はない、と綴られる。


 Wikのあらすじでも長い説明。やはり、この章が大事なのか?
 そう、「箱男」に対し、「偽箱男」が存在する。そして、「医者」に対し「偽医者」が存在する。「偽医者」は「医者」からすべての登録、帰属・従属を受けて生きている。では、「箱男」は?むしろ、「偽箱男」の方が帰属・従属を受けて生きている。帰属してても、帰属していないふりをすれば、「偽箱男」になれるのだ。でも、帰属している「医者」が自分を放棄する代わりに「偽医者」に成り代わったのは、これは帰属じゃなかろうか。
 そう、そろそろ、帰属することと自由になること、自由に生きることが、所属から逸脱することなのかどうか、問われる話だ。
 ぼくたちは、小さな虫や何にも帰属していない生き物を見ると、生き生きする。でも、大きな国家や地図を見ると委縮して動けない。それが人間なのだ。小さな虫に生き生きとする主人公は『砂の女』にいた。また、地図を見て動けなくなんる人間を『燃えつきた地図』で見た。
 さらに、「見るVS見られる」の対等な関係でなく、「覗くVS覗かれる」の不平等な関係、愛と憎しみの関係は、既に、『他人の顔』でも見た。
 安部公房がいつも拘っていたのは、社会的には自由と帰属の問題、そして人間関係でおいては1人称2人称3人称の問題、そして、個人的には、「糸がちぎれた首飾り」問題。
 この作品は、ある意味、「糸がちぎれた首飾り」だと思う。ようは、意図がちぎれて飛び散った飾りのパーツを拾い集めたが足りないのだ。その足りないところを読者が探す、想像する、創造する。
 おそらく安部氏は、この小説を10倍の量は書いているのではないか。そして、10分の一にこそげ落とした。こそげ落とした中には、ある解への道が見つかるかもしれない。しかし、それを残しては、別への解への道が閉ざされてしまう。そう、解はいくつもある。あるいは、解などない。だからこそ、道を辿らず、閉塞的なところに、思わぬ出口が見つかるのだ。
 ああ、もう、最後の描写に行き着いちゃったよ。また、あとで、改めて。

《供述書》
T海岸公園に打上げられた変死体についてのCの「供述書」が書かれている。
医師見習のC(贋医者)は戦時中に軍の衛生兵をし、その時の上官の〈軍医殿〉の名義を借りて医療行為に従事していた。昨年まで同居していた内縁の妻・奈々は〈軍医殿〉の正妻で看護婦であったが、見習看護婦の〈戸山葉子〉(彼女)がやって来たために、別居となった。


 この「供述書」は、読み手に、登場する人物(特に男たち)が何人いるのか、疑うように書かれている。

《Cの場合》
9月最後の土曜日、日付が変わろうとしている午前零時9分前、「供述書」を書いている途中のC(贋箱男)の様子を観察している者(軍医)が語り手となっている。
「君」(C、贋箱男)が、「ぼく」(軍医)の「ノート」の書き出しと同じ「ノート」を用意しているのを、「ぼく」は見つける。「君」はすでに明後日の月曜日のこと(ダンボール箱をかぶった変死体が人影まばらな海岸公園に打上げられたこと、死亡推定30時間前)を記録している。「君」のベッドの上には「箱男」そっくりに作ったダンボール箱がある。計画通りに事が進めば、「君」の書きかけの〈供述書〉は無用だから、破り捨ててほしい。


 前章《供述書》は、何だったんだあ。何が「無用」なのだ。怒るでない。有用なものなど、ここにはないのかもしれない。

《続・供述書》
ダンボール箱をかぶった変死体が〈軍医殿〉に間違いないと証言するC(贋医者)の〈供述書〉の続きが書かれている。
戦時中、〈軍医殿〉は材木から人間が腸吸収できる糖分の研究中に重病となり、苦痛を抑えるため麻薬依存になったため、戦後はCに診療所の代診をさせていた。精神状態がますます悪化する〈軍医殿〉は自殺願望が募り、Cの内縁の妻〈奈々〉(軍医の正妻で看護婦)の発案で〈軍医殿〉の名義はCに譲渡された。また、〈軍医殿〉の自殺を思い留まらせる代りに、見習看護婦の〈戸川葉子〉の裸体を鑑賞させることを〈軍医殿〉はCに要求していた。二階の一室を部屋にしていた〈軍医殿〉が、ときどき非常梯子で外出していた可能性を、ダンボール箱をかぶった浮浪者の徘徊に関連してCは示唆する。


 さらに、ここの「供述書」では、登場人物の概ねの関係が明かされている。明かされているようにみえるが、名前が明らかな〈戸川葉子〉と〈奈々〉は、第三者だ。つまり、先の1人称2人称3人称の問題で、2人称あるいは3人称。いや、2人称に見える件にしても、その記録的要素からすれば、2人称でもあり得ない3人称でしかないかもしれない。ただ、それは、外界から垂れ流される情報の渦をシャットダウンしたことで、僅かな拠り所となる他者情報なのかもしれない。

《死刑執行人に罪はない》
C(贋箱男)の様子を観察している者(軍医)が語り手となっている。
遺体安置室を自分の部屋にしている「ぼく」(軍医)は、「君」(贋医者・贋箱男)が「ぼく」を殺してくれることを待っている。「ぼく」は、「君」が注射器を消毒皿に収める音を聞き、「君」が10日前から準備していた箱(ぼくの棺桶)をすっぽりかぶって階段を上ってくる「君」の気配を感じている。「君」がもしも部屋に入ってきたら、眠っているふりをしようと考え、自分が殺されて死ぬ瞬間の場面を「ぼく」はシミュレーションしている。
「君」は、「ぼく」が死んだ後の遺体を溺死に偽装するため、肺に海水を流し入れた後、「ぼく」の死体をかつぎ下ろし、ズボンと長靴をはかせ、箱をかぶせて紐で固定しリヤカーで運ぶ。「ぼく」の死体の捨て場所は、以前に二人で打ち合わせていた醤油工場裏がいい。「(理由不明な突然の中断)」の但し書が最後に付記。


 果たして、死刑執行する人間と執行される人間は、同一人物かもしれない。そういう疑いの眼で観ていると、スカンを食らう。この小説は、読めば読むほど、理解が深まるのと真逆に進んでいく。読み手は、思考回路をフル回転させねばならない。いや、むしろ、言語中枢から外れたところで想像力を駆使しなければならないのかもしれない。

《ここに再び そして最後の挿入文》
そろそろ、箱を脱いで〈ぼく〉の素顔と、「ノート」の真の筆者を知らせるべき時が来たと切り出される記録。ここまで書いてきたことに全く嘘はなく、想像の産物であっても嘘ではない、と綴られる。
「箱男」殺しは罪になり得ず、安楽死の判例の「病人」を「箱男」という語に入れ替えても成立し、敵兵や死刑囚と同様に、「箱男」も法律的には生存が認められず、罪に問われないと言える。だから「箱男」が誰かを訊ねるよりも、誰が「箱男」でなかったかを突き止める方が早いと思うのだ。
〈ぼく〉は「箱男」になったばかりの皮膚にたまる垢の痒さや、他の浮浪者から受ける襲撃、残飯あさりなどの試練を語る。今〈ぼく〉はそれに馴れ、箱の生活に退屈はない。箱の中で退屈するようでは贋物である。


 安部氏も、「たねあかし、しようかな」と言う気分で書いたと思う。箱の生活とは、国家や地図から外れた場所にあるのではない。あくまでも、国家や地図の中に形成されたい次元空間と時間である、そう認識しながら、タネアカシくさい、この章を読むべきであろう。

《Dの場合》
手製のアングルスコープを使って、体操の女教師がピアノの練習のため借りている隣家の離れのトイレを覗き見ようとする中学生Dの挿話。現場を女教師に見つかり、ピアノ室でショパンの演奏を聴かされた後、報復として、鍵穴から女教師に覗かれながら、そこで服を脱ぐことを命じられる。


 突然、ここに、D登場。彼と体操の女教師の「覗くVS覗かれる」と逆転の「覗かれるVS覗く」が描かれ、お話としては、筋には関係ない。しかし、これは、先に、この作品は、ある意味、「糸がちぎれた首飾り」だと思う、と書いたが、その首飾りの止め金具に相当するパーツではなかろうか。

《………………………》
元カメラマンの「箱男」(本物)の〈ぼく〉は、本日休診の札のかかっている病院にやっとたどり着いた。〈ぼく〉は、海水浴場のシャワーで身奇麗にし、服を乾くのを待っている間に居眠りをし、目が醒めると服がなくなっていたため、全裸で箱をかぶってズボンを探していたが、その時に自分とそっくりな「箱男」が歩いているのを見て、あわてて病院に来たのだった。〈ぼく〉はそのことを〈彼女〉に説明した。〈贋箱男〉の「先生」は箱をかぶって出て行ったらしく、さっき見た「箱男」が彼だった。
箱を脱いだ裸の〈ぼく〉は、裸になった〈彼女〉に迎え入れられた。〈ぼく〉は、「白状するよ、ぼくは贋物だったんだ」、「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ」と言った。しかし、全ての遺書が真実を告白しているとは限らない、という内容の但し書が付記。


 おい、いったい、時間軸はどうなってんの? そう思わされる章だ。前に戻るのか。いや、戻ったとしても、同じ世界じゃないんじゃないか。どうなってんだ、と怒る人は、正常かな?

《夢のなかでは箱男も箱を脱いでしまっている。箱暮しを始める前の夢をみているのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢みているのだろうか……》
結婚式には馬車で花嫁の家に出向いて行かなければならないという風習のため、貧しい60歳すぎの父親が息子(父親からショパンと呼ばれている)のために、ダンボール箱をかぶって馬の代りに荷馬車を引く挿話。
花嫁の家に近づいていた道の途中、ショパンは立小便をし、木陰で彼を待っていた花嫁と視線が合ってしまった。父親はとんだ息子の失態に、男らしく引き下がることを諭した。ショパンは父の箱にまたがり、住み慣れた町を出てゆく。父と息子は、ピアノ付きの屋根裏部屋を借り、ショパンが彼女を想って描いた裸婦像の小さなペン画を、ダンボール箱の中の父親が売りさばき、客は箱に金が入れた。ショパンの切手は売れ続け、父のダンボール箱は赤い木皮製となった。ショパンは世界最初の切手の発明者となるが、郵便事業が国営化されると贋造者とされ、父の赤い箱だけは郵便ポストとして後世に受け継がれた


 とうとう「夢」が出てきちまったよ。「夢」を出されたら、よくある話、「はい、そこで夢から覚めました」じゃん。しかも、ショパンは何者? 切手の発明者? でも、郵便事業が国営化で、贋造者扱い? 赤いポストだけ残った? これは、国家は個人に対し、ある意味、弱者に対し、殺意が込められているということではないだろうか。全ての国民を救わねばならない、の裏には、全ての国民は大人しくしていなければならない。だから、偽箱男でいろ、そう言っているのかな。

《開幕五分前》
「きみ」(彼女)と〈ぼく〉の間に官能的な熱風が吹きまくっている。失恋の自覚から始まった恋愛。しかし、この熱風自体の中に終末が予感されている。


 ほら、見な。実は、物語は、まだ始まっていないのだよ。これから、5分後に始まるのだよ。もう一度、最初から読まねばならない。ところが、同じ話が続くのか、はなはだ疑問だ。

安部公房『箱男』06
安部公房『箱男』07

《そして開幕のベルも聞かずに劇は終った》
今日、〈彼女〉は出て行った。〈ぼく〉と〈彼女〉は、2か月ほど裸で暮らしたが、結局、彼女は服を着て出て行った。〈ぼく〉が箱をかぶって食料や日用品の買い出しから帰り、非常階段から家に入ると、いつも〈彼女〉は裸で階段を上って迎えてくれたが、今日〈彼女〉は服を着ていた。階段脇の遺体安置室の存在が二人の間に影を落していたとは言えず、〈ぼく〉と〈彼女〉は、それを黙殺し、臭気も放置した生ゴミの臭いでごまかしていた。


 あ、やっぱり。開演前にお話が終わる、安部氏ならやりかねない。ただ、読み手は、何故だが、この〈彼女〉との閉ざされた空間と時間の中で生きることを夢見るだろう。羨ましくも思う。だから、誰もが箱男に憧れ、なりたくなるのだ。

《………………………》
実は〈彼女〉は玄関から出て行ったのではない。〈彼女〉の部屋のドアの音だったのである。玄関は最初から〈ぼく〉が釘付けにしておいた。非常階段の門にも鍵を下ろしてあったので、家の中にいるはずだ。〈ぼく〉は家の電源を切り、箱を脱ぎ裸のまま、〈彼女〉の部屋に入った。部屋だった空間が、どこかの駅の隣り合った売店裏の路地に変わっていた。〈彼女〉はどこに消えたのだろう。〈彼女〉を探し出さなければならないが、ここも閉ざされた空間の一部であることに変りないのだ。
最後に大事な補足だが、「箱」には落書きのための十分な余白を確保すること、しかしある意味、落書きは余白そのものなのだ。「箱」というものは、内側から見ると「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」で、もがけばもがくほど、新たな迷路ができて中の仕組みがもつれてゆく。〈彼女〉も逃げ去ったわけでなく、この迷路の中のどこかにいて、〈ぼく〉の居場所を見つけられずにいるだけだろう。……救急車のサイレンが聞えてきた。


 ほうら、「糸がちぎれた首飾り」を少しずつ拾い上げて繋げてゆけば(想像力を駆使して創造して行けば)、「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」が出来上がり、そこでもがけばもがくほどに、さらなる迷路が出来て・・・。でも、ひょんなところに、出口が見つかるかも。〈彼女〉は、そこから出て行ったのかも。
 最後に聞こえる救急車のサイレンには、主人公が運ばれてるのかも。いや、複数の男たちの誰かかも。いやいや、そうじゃないだろう、〈彼女〉が運ばれているのではないのか!

 以上、おしまい。

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 何も、終わってないじゃないか、なのである。再読して、「こんな傑作だったとは」と驚いている。
 文庫版で解説を書いてられる平岡篤頼の見方を紹介しておこう。

『箱男』における「ノート」の書き手を「〈記述者=箱男〉」(前半に登場する〈ぼく〉)一人だけに統一して、作品の物語を同じ世界で起こる出来事と見ながら、時系列順に解釈している。平岡は、《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章において、〈贋箱男〉が「ノート」の中で「ノート」自身に言及することから生じる「矛盾」に関しては、「〈記述者=箱男〉」の書かれうる未来の選択肢として捉え、「〈記述者=箱男〉」は、箱を脱ぎ〈贋箱男〉の前にいるか(記述者であることを止めるか)、海岸で「ノート」を書いているか(交渉を諦めて正当な箱男であることを容認するか)のいずれかを選ばなければならないとし、「〈記述者=箱男〉」は結局、「記述者」を捨て「行為者」を選択するが、その「矛盾」を引き受けながら書き続けると説明しつつ、「ああ、なんという矛盾! そう書いているのも〈ぼく〉なのである」と述べて、別の記述者の可能性が仄めかされている「ノート」は、「フィクション」の領域に位置づけている。そして平岡は、「箱男」(認識者)となり「自由」であったはずの〈ぼく〉が、ぼく自身でなくなった〈贋のぼく〉にならざるを得なくなる経過が、全体の物語に収まっていると解説している。

安部公房『箱男』08
安部公房『箱男』09

 安部氏自身によるヒントも。

都市には異端の臭いがたちこめている。人は自由な参加の機会を求め、永遠の不在証明を夢みるのだ。そこで、ダンボールの箱にもぐり込む者が現われたりする。かぶったとたんに、誰でもなくなってしまえるのだ。だが、誰でもないということは、同時に誰でもありうることだろう。不在証明は手に入れても、かわりに存在証明を手離してしまったことになるわけだ。匿名の夢である。そんな夢に、はたして人はどこまで耐えうるものだろうか。— 安部公房「著者のことば」(『箱男』函表)

安部公房『箱男』10
安部公房『箱男』11

見るということはたいていは一人称だ。ところが、覗くと一人称でなくなる、つまり人称がなくなる。三人称ではないが疑似三人称化されるんだ。特に、覗かれている相手が、覗かれていることを意識していない場合にはね。ところで、小説というのは本来覗き的なものだ。とにかく作者が三人称で書くんだからね。まさに覗いている人のポジションじゃないか。覗くということを分析しようと思ったら、覗かれる立場の分析も抜きに出来ないね。人間のコミュニケーションというのは、考えてみると、面的であるよりも、意外に点的なものなんだ。— 安部公房「都市への回路」

縄張りの中に入り込んでも、こちらが変装していれば、相手に気づかれずにすむ。だから覗き魔はふつう卑劣漢あつかいされてしまう。しかし、よく考えてみると、すごく繊細で知的な存在なんじゃないか。(中略)ふつう縄張りのラインを越えるときには、暴力か、さもなければ求愛かどっちかの行動をともなうことになる。覗きはそのどちらの行動もともなわない、完全な抽象的な行為だからね。ドストエフスキーが「人間を愛することはできても隣人を愛することはできない」というようなことを言っていたけど、まさしく覗き魔宣言だと思うな。覗きという行為は、人間的な繊細な感受性の産物なのかもしれない。とにかく動物には一切あり得ないことだからね。— 安部公房「都市への回路」

物語とは、因果律によって世界を梱包してみせる思考のゲームである。現在というこの瞬間を、過去の結果と考え、未来の原因とみなすことで、その重みを歴史の中に分散し、かろうじて現在に耐え、切り抜けていくための生活技術としての物語。— 安部公房「〈物語とは〉――周辺飛行1」

殺されたのがBの方だった場合は、どういう事になるのだろう。あいにく、事情はまったく変わらないのだ。原因不明の事故による、ごくありふれた変死体。前には彼を守ってくれた同じ条件が、今度は彼を見殺しにする。箱男に化けた襲撃者は、一見して箱男だというだけで、無事容疑者リストから除外してもらえるのだ。たしかに箱は理想の避難所である。箱の外見に変化がないかぎり、内容にどんな変更があろうと、同じ箱男で通用してしまう。本来箱男殺しは、完全犯罪なのだ。そしてBは何時までたってもBなのである。— 安部公房「箱男 予告編――周辺飛行13」

安部公房『箱男』12

 たくさん批評を並べても、どれが本当でどれが違うのか分からない。
「おい、この作品、一体だれが物語ってるんだ?」
「安部公房じゃん」
「あったり前田のクラッカー」
 いやいや、待て。これは、そうか、そうかあ、そうだあ。前記「あらすじ」内でもすでに書いたが、作者、安部公房は、これを書いた人ではあるが、部分部分誰が書いたか分からない。間違いないのは、女性の名前が出てくる。っていうことは、女性は市民権を得ている。と同時に、第三者でしかない。
 あとの箱男にせよ、偽箱男にせよ、医者にせよ、偽医者にせよ、誰が語っているのか分からない。小説は通常、一人称か、三人称で語られるが、安部氏は、それも不思議と思い、二人称での語り口をも導入している。
 これは、従来の小説の破壊であり、破壊して飛び散った真実らしい虚偽の空想事件のピースが足りないジグソーパズルなのだ。足りないピースは、読み手が自由に作ればいい。そして、彼女との恋物語を成就しても良し、失恋物語にしても良し、箱男になるということは、そういうことなのだ。この現代社会で自由に生きるということは、見る行為だけを得て見られる行為をなくす《覗き魔》になる、そういうことでもあるが、それは社会から離脱すること、ようは生きてて、死者であることを獲得する行為でもあるのだ。だから、いきなり途中で、死への願望の話が、医者と偽医者で登場する。
 この物語は、読み手が隙間を埋めて完結させねばならないのだ。だから、『箱男』は読み手の数ほど物語ができるのである。
 あああ、今思うと、凄い小説なんだ。これまでの小説にも、読み手が自由解釈はあったけど、隙間を埋めて一緒にお話を創って完結させる、こんな発想はない。
 かつて、フランスで、ヌーボーロマンという概念で新しい小説を誕生させた人々がいたが、その代表のアラン・ロブ・グリエが書いた『新しい小説のために』の概念は評価されたが、結果的に、ヌーヴォーロマン小説家である人たちは、従来の小説概念から脱し切ることができなかった。
 それを、まさに、日本の安部公房が、うち破って発表した作品が、この『箱男』ではないか。
 当時が分けわからないのは当たり前。この小説は、皆で創るお話だったんよ。そう分ると、多くの人がいろいろな解釈をされてる。でも、解釈じゃなく、足りない物語をみんなで紡げばよかったのよ。
 この小説は、当時よりも今読まれるべき小説じゃないかな。今の時代、マスメディア、テレビや新聞で報じられるニュースに、さらにインターネットで流される情報、みんな、そんなニュースや情報を大きな現実だと思って生きてやしないかな。ところが、インターネットのフェイクばかりか、そのもとなる情報が、捏造されたり大事な部分を隠蔽されたりして流されてて、それを信じて最も今大切な現実だと思い込んで生きているとしたら。
 あな、恐ろしや、だよね。つまり、言論ばかりでなく行動までが統制均一化されていく。これって、この小説でいう偽箱男づくりじゃなかろうか。ひょっとすると、書き下ろされた当時よりも、現代社会の方が偽箱男が多いのではないか。もしかすると、偽箱男が大衆化している、と。
 だからこそ、今こそ、この小説に参加し、自らの意志で自らの空想力と思考回路で創造して、一人一人の『箱男』物語を完成させねばならないんだと。

安部公房『箱男』13

 ちなみに、先にも述べたけど、ボクはたまたま大江氏の作品を読みながら、これを再読したからというわけじゃないんだけど、大江氏との対談『短編小説の可能性』の中で、安部氏が面白い発言をしている。
《この前書いた『他人の顔』のモチーフの一つですが、隣人感覚と他人感覚が、あたかも同一物であるかのような錯覚がいっぱんにあるけれども、実は対立するものであって、他人をほんとうに把握するためには、われわれのなかにある隣人思想を破壊しなければならないのではないかと思う。隣人思想を破壊すると、すぐ現代を破壊したように言われてしまう。これは間違いであって、他人を再発見するするために隣人を破壊するという作業はには、自分の内部の孤独を掘り下げ、外にある日常性を相対化して、日常性を危険なものに変容させていく作家の思想が必要だ。》
 まさに、『箱男』に対する安部氏の描き方は、この「外にある日常性を相対化して、日常性を危険なものに変容させていく作家の思想」がひしひしと感じられる。
 この対談集『発想の周辺』には、岡本太郎との対談も載ってて、『宇宙・人間・芸術』と言う対談で、二人がいかにやんちゃ坊主同士の仲のよさだったかが窺い知れる。
 安部氏曰く、
《この前僕は、空想科学小説でおもしろいのを読んだよ。それはね、ある遊星から敵が攻めてくるんだよ。その攻め方がね、たとえば岡本太郎という人間そっくりな爆弾を作るんだ。岡本太郎を殺しちゃって、爆弾を置く。この爆弾がものすごく精巧で、爆弾の意識も、おれは岡本太郎だと思っているわけなんだ。その小説はそこからはじまるんで、はじめから爆弾なんだけど、読者は分からないんだ。》
 ちょっと略したけど、それに対し、岡本氏は
《しかしおもしろいね、その爆弾の小説は。》で、終わる。昭和33年の頃の対談だから、「夜の会」のメンバーだったころかな。
 確かに、この『箱男』は、安部公房そっくりの、想像力と創造力を駆使しなければ読み解けない新型実験爆弾だね。今でも十分に新型だよ。

 ということで、『箱男』再読の感想は、おしま~い。今更ながら、高校時代の学校外での先生であった安部公房と大江健三郎、そして、中学時代から知ってはいたが、今や、大事な生き方のお手本になっている岡本太郎。この繋がりが今築けたこと、そして、『箱男』が、今回の再読で、いま日本が陥っている当時よりもより濃厚な存在証明の欲望(例えば、「いいね」)と、自分が攻められる側でなくみんなで攻める側に回りたい同調圧力のための不在証明(偽箱男化)が、ここにも描かれてるこの作品は、おそらく、現代社会で進みつつあるデジタル社会への警告も含まれていると思う。
 もし、最後まで、「何が言いたいか分からん」と言う人がいたら、この小説で「何が分らないのか」、いつも分かってばかりの日常のがおかしいんじゃないのか、つまり、今自分が生きているのって、本当に自分が主体で生きてるの?そうじゃなく、世の中のニュースやインターネットのフェイクやホントらしきことに自分が振り回されて動いてるだけじゃないの。
 そんなまやかしの現代だからこそ、この作品は、今、メチャ通用する。ぼくたちは、箱男になりたいのか。なりたいのなら、ここに書かれてる、誰の書き手に共感を覚えるのか。でも、その共感も怪しい、かも。
 で、いいのだよ、ね。箱の中には、これからの記憶を記録する余地を残しておこう、せめて生きている間は。


安部公房『箱男』 posted by (C)shisyun


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