札ノ辻と新橋の芝口門。高輪大木戸と東京珍名所。旅心をくすぐる駅たち。門への愛着。再開発地域と高輪ゲートウェイ駅。監視社会。金沢駅 鼓門・熊本駅・長野駅。

 

 

聖なる地(5)門の向こうに


前回コラム「聖なる地(4)高縄の道と聖坂」では、高野聖たちが歩いた道や聖坂のことについて書きました。
今回のコラムでは、その高台から坂を下り、海岸線の旧東海道を歩いてみたいと思います。


◇坂を下り海岸線へ

前回コラム「聖なる地(4)高縄の道と聖坂」の中で紹介しました「桂坂(かつらざか)」を下り、高輪の高台から旧東海道である第一京浜(国道15号線)へ出ました。

下の写真の左右に通る道が、江戸時代の東海道です。

写真の中央部の奥の方に見える吊り橋は、東京お台場の「レインボーブリッジ」です。
この旧東海道の海側は、大規模な再開発工事中ですので、ここから、まだその姿を見ることができます。
再開発が終わる頃には、おそらく見ることはできないでしょう。

 

下の写真の、旧東海道(第一京浜・国道15号線)の向こうは、品川駅方面のビル群です。
今、国道1号線は、レインボーブリッジの近くを通って、この品川のビル群の向こう側を通っています。

 

この旧東海道の海側の再開発地域は、JRの車両基地などがあった広大な土地です。
東京都内には再開発地域がたくさんありますが、ここまで広大で、ほぼ手つかずの地域は、他にはありません。
再開発が完成したら、どんなかたちになるのか想像もできません。
新宿の高層ビル群を越えることになるのでしょうか。

撮影した日は、土曜日で、泉岳寺の「義士祭」の日でした。
休みなく、工事がいたるところで行われていました。

 

下の写真のビルは、まるで、あの有名なロボットのようですね。

 

撮影当日は、ここからこの道を、江戸城のある北の方(札ノ辻〔ふだのつじ〕)に歩いて向かったのですが、コラムでは、逆に「札ノ辻」から南下して、この地に戻ってきたいと思います。
そのほうが、歴史がわかりやすいと思いますので…。


◇門

今回のコラムでは、新旧の「門(ゲート)」のことを書きますが、皆さまは「門」に愛着はございますか?

京都や奈良には、古い時代の門が、それは数えきれないほどありますね。
江戸にも、かなりの数の古い門が残っていたはずですが、関東大震災や戦争時の空襲で、ほとんど焼失しました。
奇跡的に残った門や、再建された門しか残っていません。

京都や奈良の方々にとっての「門」は、おそらくお寺の門をイメージされると思います。
東京にもお寺の門はありますが、たいていの人は、江戸城(皇居)の門をイメージすると思います。
あとは、浅草寺、泉岳寺、増上寺、柴又帝釈天…など、わずかな数の有名な門か、中小の再建された門たちです。
大名屋敷の門は、一部を除いて、ほぼ残っていません。

江戸城の門や、江戸の街の防御のための門も、江戸時代の数からくらべたら、ごく一部しか残っていません。
それに、お城の門は、あくまで防御が目的のため、その壮大さは感じますが、お寺の門のような感慨はなかなか持てません。

京都や奈良の方々が抱くような、「門」への愛着は、東京人にはないのかもしれません。

* * *

お寺の門は、お城の門とは、まったく別のものです。

お寺は、門を入って、参道を歩いて、本堂などの堂塔にたどり着きます。
その行程の中で、徐々にそのお寺の世界の雰囲気に、人の心や頭が染まっていきます。
ようするに、「その気」にさせるのです。

そのため、巧みに計算された視覚効果や演出効果が取り入れられていました。
本堂からの帰路では、すっかり「その気」になって自宅に戻っていくのです。
「その気」とは、感謝・安らぎ・勇気・感動など、さまざまなものです。

現代は、大きなお寺や、山深い山域などでないと、それをなかなか感じることはできませんが、本来、お寺にある多くの堂塔や門、道、庭などの配置は、しっかり考えられたものです。
ですから、お寺の門は、お城のような、攻撃からの防御という意味では、もともとありません。

ある世界と、それとは違う別の世界との境界を意味するものです。
門の先に大切な場所があれば、その門の向こう側は「聖域」であることを意味しています。

ですから、門は、そのお寺の顔ですね。
京都や奈良では、それはそれは、顔の競争は激しかったでしょう。
大きさ、美しさ、奇抜さ、豪華さ…、いろいろな門が生まれてきましたね。

京都や奈良の方々は、普段の日常で、聖域の入り口である「門」を目にしていますから、門への愛着は大きいかもしれません。
徳川の、どれも似たり寄ったりのお城の門ばかり見ていたら、江戸時代の庶民も、あまり門に愛着は持てないかもしれません。
今の東京も、そうなのかもしれませんね。

* * *

下の写真は、京都の「知恩院(ちおんいん)」の三門です。
知恩院は、日本一有名な「除夜の鐘」のお寺ですね。
この門は、世界最大級の大きさです。
京都には、こんな門がたくさんあります。


◇金沢駅 鼓門

近年、世の中をあっと言わせた門がありますね。
石川県金沢市の金沢駅の「鼓門(つづみもん)」です。

アメリカの有名旅行雑誌の「世界の美しい駅」で、一位になりましたね。
外国では、ジャパンマネーを期待して、日本のものを上位にすることがよくありますが、今回ばかりは本物のような気がします。

どれだけの人が、この門の映像を見て、金沢への旅行を決めたことでしょう。
ある意味、金沢城や北陸新幹線開通よりも、この門が、決定打であったのではと思ってしまいます。

私は、まだ実際には目にしていませんが、この門の姿をテレビで見て、金沢に行ってみたいと強く感じています。
同じように感じた方も多かったでしょう。
下の写真がそれです。

 

「回廊(かいろう)」のような部分もありますから、おそらくお寺のイメージかと思います。
近代的で斬新な駅舎とのバランスも見事ですね。
設計者は、白江龍三(しらえ りゅうぞう)さんです。

駅舎の内部では、「鼓(つづみ)」のポンポンという音色が流れているのでしょうか。

さすが、観光先進地域の金沢です。
どこに金をかけたらいいのか、しっかり心得ていますね。

門とは、本来、ものすごいチカラを持っているのですね。


◇熊本駅と長野駅

ちなみに、今年、熊本市の「熊本駅」が改修されました。

歴史ファンであり、お城ファンの私は、その姿に感動しました。
まさに、その駅舎の姿は、熊本城の石垣なのです。

歴史やお城ファンは、ある意味、熊本城の天守閣や御殿、やぐらよりも、石垣のほうが好きかもしれません。
あの「武者返し」の石垣の見事な反りは、他の城ではなかなか見ることはできません。
「宇土やぐら」の石垣の美しさは、たまりません。

その石垣を、駅舎のデザインに使うとは、あまりにも斬新で、頭が下がります。
この石垣だけというのが、また実にいいのです。
「この手があったのか…、完全にやられました。」
設計は、あの安藤忠雄さんです。

次に、熊本に観光旅行に行ったら、ぜったいにはずせない「熊本駅」になりました。

* * *

もうひとつ、カッコいい駅を紹介します。
長野市にある「長野駅」です。

長野オリンピックの際に利用された方も多いと思いますが、これもなかなかのものです。
建て替え前は、お寺のような、お城のような(戦国初期の頃の天守のような)駅舎で、これも人気がありました。
それを今の駅舎に建て替えたものです。

いくつもの大きな柱に大型の提灯がかかげられ、ここが善光寺の門前町だということがすぐに実感できます。
ここも、柱と提灯だけというのが、実にいいのです。
その奥の白と黒の配色もすばらしい。
まさに大きな寺です。
どんな宗派の方でもいらっしゃいという善光寺の門前町の駅は、こうでなくちゃ…。

熊本駅も長野駅も、画像検索をすれば、すぐに見つけられると思います。
この両駅には、金沢駅のように門があるわけではありませんが、門としての役割はしっかり果たしています。
「旅心」をくすぐる、二つの駅です。

* * *

この三駅以外にも、近年、すばらしいデザインでよみがえった駅舎はたくさんあります。
もはや、今の時代は、機能性のある四角い高層ビルの駅舎でも建てておけばいいというものではない気がします。
その街を代表する、本物を感じる何かがなければ、人を引き寄せる駅にはならないのかもしれませんね。


◇札ノ辻の交差点

さて、駅から門のお話しに戻ります。

下の写真は、旧東海道の路上、南側から「札ノ辻(ふだのつじ)」の交差点を撮影したものです。

 

下の写真は、その交差点の歩道橋から、歩いてきた南側を見たものです。

 

下の写真の右側の道が旧東海道です。
江戸時代、この道の左側はほぼ海岸線でした。
後で、江戸時代の絵をご紹介します。

 

下の写真は、この歩道橋から、江戸城があった北側方面を見たものです。
右側の道が旧東海道の第一京浜で、新橋(しんばし)を通り、銀座中央通りにつながります。そして日本橋に出ます。
左側の道は「桜田通り」で、増上寺の裏を通り、虎ノ門や霞が関を通り、江戸城の桜田門の前に出ます。

江戸時代であれば、左に行けば江戸城、右に行けば日本橋ということになります。
ようするに、ここから先は、完全に江戸の街に入るということでした。
「殿、いよいよ江戸の街に入ります…」。

今の感覚でしたら、左に行ったら、東京タワー、六本木、霞が関。
右に行ったら、新橋、銀座といったところでしょうか。

ちなみに薩摩藩島津家の屋敷は、このすぐ先で、どちらの道からでも行けましたが、コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜」で書きました、薩摩藩の蔵屋敷は、右側の旧東海道をほんの少し歩いた先にありました。

 

下の写真は、左側の道である「桜田通り」です。
写真の通りの左側には、コラム「みゆきの道」の(4)と(5)で書きました、慶応大学や、あのお山があります。

 

◇芝口門

今の「札ノ辻」交差点は、江戸時代に、江戸の街に入る重要な場所で、ここには巨大な門がつくられていました。
江戸時代初期のお話しです。

「芝口門(しばくちもん)」といいました。
「芝」とは、上の写真の東京タワー周辺の地名です。

この時の門の絵が残っていないので、その姿はわかりませんが、この門は、その後、今の東京新橋のあたりに移築され、その絵は残っているようです。
確かなものかはわかりません。
そこから想像すると、通常の江戸城の門に似た形状の「桝形門(ますがたもん)」ではなかったかと思います。

下の写真は、今の桜田門ですが、もし札ノ辻の芝口門も、「桝形(ますがた)」形状であったなら、こうしたものだったかもしれません。
戦国の城の門は、桝形門という、大小ふたつの門の組わせで、四角いスペースをつくるのが基本です。
「桝形門」については、コラム「旅番組とお城(3)馬と虎と犬と」で説明しています。

 

通常、桝形門は、水堀などのお堀との組みあわせですので、札ノ辻に水堀があったのかは、私はわかりません。
ひょっとしたら、京都の二条城の門のように、桝形ではなく、いきなり巨大な城門ということだったかもしれません。
新橋に移築後は、桝形門でしたが、旧東海道の札ノ辻では、どうだったでしょうか?

旧東海道の道に、いきなり立ちはだかるような門であれば、下のような姿だったでしょうか。
下の写真は、上の写真の桜田門の大きいほうの門です。

前述の京都 知恩院の門とは、大きく印象が違いますよね。

江戸時代初期は、まだまだ戦国乱世の延長上で、防御の重要性が非常に強かった頃です。
この門から先が江戸城の城下町ということです。
江戸初期は、城下町の範囲もまだまだ限定的でした。


◇新橋と新橋

その後、この門は、1710年に、今の東京 新橋(しんばし)の地に移転します。
今、新橋駅の近くの、銀座中央通りと首都高速が交差する場所に、「新橋跡」という碑が建っています。

今の「新橋」の地名の地に、「芝」の地名の「芝口門」があったのは、このことが理由です。

今の新橋にある高速道路の下が、かつての水堀で、移転した芝口門は、この水堀の北側にありました。
この碑にある絵では、新橋の芝口門は桝形門であったようで、門の前の水堀に橋が架けられています。
この橋は「新橋(あたらしばし)」という名称でした。
その後、「芝口橋」と改称されます。
もちろん芝口門があったからです。

* * *

その頃の、この水堀には、東から、幸橋、土橋、中ノ橋、新橋、塩留(汐留)橋が、架かっていました。
東京の方でしたら、この名称を聞けば、聞き覚えのあるものばかりです。

この中で、「幸橋」はかなり重要な橋であり、門でした。
そのことは、「みゆきの道」のシリーズで、あらためて書きます。
今の、その地域の「内幸町(うちさいわいちょう)」の名称の「幸」は、この幸橋のことです。

* * *

その後、1734年に芝口門は焼失し、門は再建されなかったようです。石垣も撤去されたようです。
橋の名称も、「新橋(あたらしばし)」に戻ります。
「芝口門」がないのに「芝口橋」である必要はありませんね。

今、このあたりの地域の名称を「新橋(しんばし)」と呼びます。
JRの「新橋駅」もあります。
ですから橋自体は「あたらしばし」で、地域名は「しんばし」です。
今は橋は残っていません。

明治時代、残っていた「新橋(あたらしばし)」の上を銀座中央通りに向かって走る、路面電車の写真が残っています。
そこには、今も同じ場所に残る「博品館(はくひんかん)」の建物も写っています。

この「新橋(しんばし)」の地域も、歴史的には非常に重要な場所です。
また、あらためてご紹介します。


◇なぜ移転?

「札ノ辻(ふだのつじ)」にあった大きな芝口門が、なぜ新橋に移転したのか。
いろいろな理由があろうかとは思います。

移転した1710年は、五代将軍 綱吉が変死した翌年、六代将軍 家宣(いえのぶ)の時代です。
コラム「よどみ(2)群馬vs山梨」で書きました、徳川群馬勢と徳川山梨勢が、激しく対立していた時期です。
1709年に山梨勢が実権を握って、すぐにこの門が移転したのです。

あくまで想像で書きますが、この移転は、目で見える大きな変革のようにも思います。
山梨勢のチカラを幕府の内外にも誇示できそうな気がします。

それに、この時代であれば、すでに江戸の街に入る道のルートはかなり増え、江戸の街自体も拡大していた時期です。
今の「新宿」の街が整備され始めるのも、この時期です。
新宿はまだ、江戸の街の郊外でした。

そろそろ、札ノ辻あたりで、「ここからが江戸の街です」なんて言っている状況ではなかったのかもしれません。
他の道からも、どんどん江戸に人々が流入してきたはずです。
農地や林を越えて入ってくる人も増えていたかもしれません。

それに、参勤交代の際に、この巨大な門は、相当にじゃまになったでしょう。
もう敵の大軍勢が、東海道を江戸にむかってやってくることも考えにくい頃です。
巨大な門は、すでに札ノ辻の地に、必要なくなったということかもしれません。


◇大木戸

1710年、芝口門を今の新橋に移転したのにあわせて、この札ノ辻に、今度は「門」という名称ではなく、「大木戸(おおきど)」という大きな木製の扉をつくります。

そして、1700年代の中頃から終わり頃までのあいだに、この札ノ辻から旧東海道を700~800メートルほど南側(江戸の街とは反対方向)に行った場所に、この大木戸を移転させます。

桝形門から比べたら、相当に小さなものでしょうが、普通の関所などの木戸よりは、大きかったと思います。

「高輪大木戸」という門扉の両側には、下の写真のような石積みが両側に設置されていました。
石積みの上に何があったのかはわかりません。
高輪ではなく「四谷大木戸」の古い絵には、この両側の石積みの外側に、木製の柵が置かれています。
夜中に、越えようとすれば、難なく越えられそうではありますが、番所は近くにあったでしょう。




石積みがあるということは、いざとなったら、チカラづくで制止する鉄砲や矢での戦闘にも備えていたのかもしれません。

石積みの亀のような形状は、石積みの強度を上げたり、排水機能のためなのでしょうか?
古い絵では、四谷と高輪の両方の大木戸に、同じ形状の石積みがありますので、江戸の三か所(高輪・四谷・板橋)にあった大木戸は、同じ姿だったのかもしれません。

「高輪大木戸」は東海道に、「四谷大木戸」は甲州街道に、「板橋大木戸」は中山道にありました。
「江戸五街道」の残りの二つ、奥州街道と日光街道には、千住大橋という巨大な関門がありましたから、そこが大木戸がわりにはなったでしょう。
江戸時代初期は、江戸の防衛上、隅田川などの江戸城東側に「千住大橋」の一本しか橋を架けていません。

* * *

ちょうど大木戸が整備され始めるころに、隅田川に少しずつ橋が架けられ始めます。
江戸城から西方の多摩川には一切、橋を架けません。

「江戸四宿」の、「品川宿」と「板橋宿」は各大木戸の外側、「内藤新宿」は甲州街道と青梅街道沿いですが、四谷大木戸の外側になります。
「千住宿」は、千住大橋を渡った先にあります。

江戸から見たら、大木戸までが江戸の街で、その先の四宿が、各街道の第一番目の大きな宿場町なのです。
五街道以外の小さくても重要な街道には、もちろん小規模の木戸はたくさんあったと思います。

* * *

この旧東海道は、芝口門は撤去したけれど、参勤交代でもっとも使われた道です。
幕末の頃の、薩摩藩の参勤交代の行列の前を、馬で通り過ぎた外国人が殺傷された「生麦事件」は、この高輪から旧東海道を、横浜あたりに進んだ場所でおきました。

江戸中期であれば、なおさら、何かあれば、行列をストップさせることができる施設が、まだまだ必要であったかもしれません。
前からお話ししているとおり、この東海道は、海岸線の細い平地を通る道で、行列も長くなります。
道のすぐ横には30メールあまりの高台があり、そこには急坂や崖があります。
幕府が高台から攻撃すれば、一網打尽です。
行列の速度を遅くし、その藩士たちをしっかり監視するにも、ちょうどいい大木戸の機能ですね。


◇監視社会?

大きな門を撤去し、このあたりに大木戸をつくったことで、防御機能のレベルが下がったわけではなかったかもしれません。

現代でもそうですが、チカラづくで制止させるような何かのゲートはもちろん必要な場合もありますが、街が大きくなっていく以上、限界もあります。
チカラづくで人々や物の往来を止めるよりも、通行の監視体制を強化して不審者を見つけ出す、いわゆる「監視社会」の時代に突入していたのかもしれません。

徳川群馬勢と徳川山梨勢の争いのことは前述しました。
この後に、紀州徳川家の隠密たちも江戸にどんどん入ってきます。
それぞれ、極秘指令のための暗躍集団をたくさんかかえていたことでしょう。

むしろ、権力側にも、江戸の街の外周にある巨大な門は邪魔だったかもしれません。
大木戸程度なら、目配せしながら素通りもできたでしょうね。
権力による、武力防御社会から巨大な監視社会に変化していったのかもしれませんね。

一応、「大木戸」という扉のついた簡易型の門扉はつけましたが、その時の幕府の権力者によって、上手く使われたのだと思います。

* * *

この大木戸の扉は夜の10時頃に閉まり、翌朝6時頃に開けたそうです。
「セブンイレブン」ではなく、「シックステン」ということのようでした。

そのうち、木製の大きな扉もはずされ、石積みだけが取り残されるのです。
安定した時代に入り、24時間化になるのは仕方のないことかもしれませんね。

江戸時代は初期の三代将軍の頃までの武力統治の時代から、政治の暗躍と闘争の時代へと突入していきます。


◇扉をなくした石積みたち

実は、この木製の扉の付いた「高輪大木戸」の絵は、おそらく残っていません。
どのような姿だったのか、私は、よくわかりません。

下の写真は、左が増上寺の大門で、右側が桜田門の小さいほうの門です。

木製の扉がある大木戸とは、ひょっとしたら、このような姿だったのかもしれません。

大木戸の扉の上に屋根がついていたかは、わかりません。
ただ、小さな関所の木戸のようなものでは、威圧も、防衛にもならない気がします。

石積みの上に、白壁や柵などがあったのかもしれません。

木製の扉が撤去され、前述の写真の石積みだけが、道の左右に二つ残されます。
江戸の三か所の大木戸は、みな同じような運命をたどったと思います。

* * *

江戸城の外堀沿いや内堀、ほかの重要な場所は、たくさんの「○○見附(みつけ)」という大きな門とやぐらで、幕末まで防御していましたから、大木戸は、ある時点で、その実効性を失ったのかもしれませんね。

門とは、意味や目的を失った時点で、その存在が消えていくものなのかもしれませんね。

* * *

木製の扉がなくなった大木戸を描いた絵が、この旧東海道沿いの説明板に示されていましたので、下の写真でご紹介します。

何か、参勤交代の大名行列のように見えます。
沿道には、土下座して行列に頭を下げる庶民が並んでいます。
幕末まで、あと5年ですので、沿道の街はかなり大きくなっていますね。

前述の高輪大木戸跡の石積みの写真は、この絵の左側の石積みだと思われます。

この絵の通りが東海道で、この道の右側が高輪の高台です。
海に接する陸側の部分をよく見ると、その長い海岸線は石垣となっています。
波による浸食は、結構 深刻な問題だったのでしょうか。
この石垣の一部が、今も少しだけ残されています。

コラム冒頭で紹介しました「桂坂」を下って旧東海道にぶつかる場所に、記念遺構として残されています。
やっと、今回のコラムのスタート地点に戻ってきました。
下の写真の左側の坂が「桂坂」です。

 

これだけ長い海岸線に石垣を築くには、かなりの石が必要だったと思います。
ひょっとしたら、芝口門に使われていた石材なのかもしれませんね。

この高輪には、「高輪牛町」という地域があったそうです。
石材を運搬する牛車の業者が、日本各地から集められ、ここで仕事をしていたようです。

この海岸で、牛車の陰で、可愛くたわむれる犬の絵も残っています。
大名行列から牛が見えないように、塀の後ろに牛を隠したり、牛の背に立ち上がって、塀越しに大名行列をのぞく人たちの絵など、たくさんの楽しい絵が残されています。


◇海の上を走る蒸気機関車

前述の江戸時代の絵は、1867年の大政奉還の5年前です。
明治時代はすぐそこですが、まだ鉄道は敷かれていません。

東京の新橋と横浜の間を、初めて鉄道が敷かれるのが1872年(明治5年)ですから、この絵のわずか10年後には、この絵の海の上の、海岸線沿いに、土と石で長い土手を築き、そこに線路を敷かれたのです。

まさか、この時代に海の上に線路を敷こうとは、すごい発想です。
おそらく当時の蒸気機関車のチカラでは、高輪の高台までの急坂を上がるのは不可能だったと思われます。

海の上に線路を敷くとは、まるで、現代のテーマパークのようですね。
この土手でも大量の石材が使われています。
その時代の絵もたくさん残されています。

こんな海の上を走る列車の風景は、今でも、何か未来を見ているようですね。


◇東京の珍名所

海の場所に長い土手をつくると、漁船が沖に出られなくなります。
そのため、この土手には、特定の箇所に、船が通過できる通り道がつくられていました。
この遺構が、下の写真です。

高輪大木戸のすぐ隣に残っています。
今は、人や自動車が通行できるトンネルとして利用されています。

実は、このトンネルは、東京では、よく知られた珍名所です。
トンネルの入口が、高さ1メートル50センチしかありません。
もともと、高さのない船が通る通路ですから、この高さで十分だったでしょう。

今、人や自転車は頭を下げて通ります。
自動車は、高さが1.5メートル以下の車両だけです。



このトンネルの上の線路を、日本初の蒸気機関車が通っていたのです。
そして、このトンネルを、かつては小さな漁船が通っていたのです。

いよいよ、前述の高輪の再開発により、このトンネルは消滅すると聞いています。
またひとつ、歴史の中に、遺構が消えていくのですね。
お疲れ様でした。


◇札ノ辻

ところで、このコラムで、何度もその名を書いてきた、この「札ノ辻(ふだのつじ)」は、日本各地に地名として残っていますね

江戸幕府が、武士や庶民にむけて、重要な連絡事項を知らせる場合に、木製の立て看板を立てました。
これを「高札(こうさつ・たかふだ)」といい、それを立てる場所を「高札場(こうさつば)」といいます。
今でも、高札の実物が、日本各地に残っていますね。

今では、かつて どの駅にもあった、黒板の「伝言板」よりも数が多いでしょう。
今、内容はともかく、どの町内にも、これに似た掲示板がありますよね。

公式の高札場は、江戸幕府が管理する、非常に重要な掲示板を立てる場所でした。
ですから、人の往来が多い場所、人がたくさん集まる場所が選ばれます。
あとは、門や大木戸のような、どうしても通過しなければいけない場所です。

文字が読めない庶民は、読める人とともにやってきたでしょう。
もちろん、今のマスコミの新聞社である「かわら版屋」も常に来ていたでしょう。

法令の発布や、犯人の手配書まで、まるで街頭テレビのような存在だったかもしれません。
情報が人を呼び、さらに人が集まってきて、そうなると商売人も集まってきます。
そうして、その地域が発展していきました。

この高輪の地の「札ノ辻(ふだのつじ)」の「札(ふだ)」とは、この高札場の「札(さつ)」のことです。

* * *

1710年、芝口門が札ノ辻から移転した後、1831年に、この札ノ辻の高札場は「高輪大木戸」の場所に移転します。
芝口門がなくなってから、100年以上、後のことです。
先ほど、札ノ辻の現在の様子を写真で紹介しましたが、大きな道が集まっていて、どの道からも大勢の人が集まってこれますね。

1867年の大政奉還の数年後、明治政府は「高札場」の制度を廃止します。
ですから、今の「高輪大木戸」の高札場は、40年弱といったところです。
札ノ辻の120~130年間という期間とは、くらべものになりません。

こうした歴史の流れで、「札ノ辻」の地名は、いったん「元札ノ辻」となりますが、今は「札ノ辻」に戻っています。
ですが、今はおそらく掲示板のようなものはないと思います。
でも、せっかくですから、観光目的で、この交差点付近に、何か巨大ビジョンでもあってもいい気もします。
名実ともに、「札ノ辻」を復活してほしい気も、ちょっとだけします。

* * *

この札ノ辻の高札場は、なにしろ日本最大の通行量の東海道でした。
地元の人間だけでなく、旅人、多くの武士などに、伝えることが山ほどあります。

実は、当時までの日本の処刑場は、ある意味、見せしめの処刑でもありました。
人が多く集まる中で、罪人などの処刑を行ったのです。
いわゆる公開処刑です。
ですから、高札場の近くに処刑場がつくられていたケースも少なくありません。

この札ノ辻の高札場のすぐ近くにも、歴史的に有名な処刑場がありました。
そのお話しは、次回のコラムでご紹介します。


◇高輪ゲートウェイ

本コラムの冒頭で、高輪の再開発地域のことを書きましたが、この再開発地域の中心が、建設中の「高輪ゲートウェイ駅」です。
この駅は、東京山手線の新駅として2020年に開業する予定です。





 

「高輪ゲートウェイ」という駅名に決まりましたが、何かと物議をかもしましたね。
これまでの駅名感覚からすると、駅名としては、少し珍しいものですね。
駅名から、JR東日本の並々ならぬ意気込みも感じさせます。

この地域の再開発プロジェクトを「グローバル・ゲートウェイ品川」と呼ぶそうですが、間違いなく、その名称と連動しているはずです。
「ゲート」は、札ノ辻にあった芝口門や、高輪大木戸を思い起こさせます。
「ウェイ」は、高輪の高台の道や、旧東海道、リニア新幹線を意識したものなのかもしれません。

日本の主要街道である東海道にある江戸東京の「玄関口」を、ことさら強調するJR東日本ですね。
確かに、東京の空の玄関口は「羽田空港」で、この高輪のすぐ先です。
リニア新幹線の東京の玄関口も、すぐ隣の「品川駅」になる予定です。
この芝、三田、高輪地域は、再開発の真っ只中で、日本を代表する大企業の本社が集まっています。
これからさらに集まってきそうです。
ある意味、日本の、東京の、ビジネスの玄関口になっていく可能性を秘めています。
JR東日本も、もちろんそうした企業のひとつですね。

今、その本社は新宿の近くにありますが、この再開発地域のリニア新幹線基地の地域にやってきても不思議はない気もします。
今や、東京のパワーの発信地は各所にあります。

* * *

よくよく考えると、江戸の街に「玄関口」はたくさんありましたが、やはり東海道の「札ノ辻」は特別な玄関口です。
江戸時代を開いた玄関口、近代化を果たした明治維新の玄関口も、この地だったのかもしれません。

江戸時代の扉を完全に閉め、江戸から東京という明治への扉を開かせたのも、この札ノ辻のすぐ近くにあった、薩摩藩の蔵屋敷での会談です。
「札ノ辻」という場所は、ひょっとしたら、時代の大きな変わり目の扉になるような運命を持っているのかもしれませんね。

「門(ゲート)」と「道(ウェイ)」…、駅名に使用するかどうかは別として、高輪の地にふさわしい言葉のようにも感じます。
「門道無用」と言う方もいるかもしれませんが、駅名問題は後世の方々に任せたいと思います。

とにかく、前述の金沢駅、熊本駅、長野駅のような、どびきりの個性に負けない、独自の世界観を作り上げてほしいと思っています。
この駅の設計は、来年の東京オリンピックの新国立競技場の設計者と同じ、隈研吾(くま けんご)さんです。

* * *

この駅では、近年の空港でも活動し始めた、ロボットたちが配備されるそうです。
切符や改札などは、なくなるのでしょうか。
JR東日本は、この駅を、これまでの駅の概念とは違う何かの役割をさせようとしているのでしょうか。
次代の未来の駅をイメージしているのかもしれませんね。

この駅の隣駅は品川駅で、リニア新幹線の東京の始発駅となる予定です。

私は、リニア新幹線は、今の新幹線の延長上にある鉄道とは感じていません。
むしろ、飛行機を陸上に降ろしたようなイメージを持っています。
もしくは、横に進む高速エレベーターのようにも感じます。
車窓もほとんどありません。
東京・大阪間を1時間で行けるとは、どのような時間感覚の変化をもたらすでしょうか。
移動時間が短くなるだけではなく、何か、社会が大きく変わるかもしれませんね。

* * *

高輪には「泉岳寺」という有名なお寺がありますね。
この寺名のお話しは、コラム「聖なる地(2)源泉と海岳の寺」で書きましたが、当時の庶民は、この寺名には驚いたでしょうね。
「泉岳」って、いったいなんなんだよ?
空海の「高野山 金剛峰寺」の寺名も、それまでの寺名からみたら、びっくり仰天、ぶっ飛んだ寺名ではなかったでしょうか。

歴史を振り返ると、驚がくの名称だらけです。
実は、そんな名称ほど、すぐにみな覚えて、慣れてしまったりします。
今回、「高輪」という地名がしっかり駅名の中に残っていますから、高輪イコール、何か先進的な門(ゲート)と連想することも増えるかもしれませんね。

いずれにしても、少し長い駅名ですので、人によっては「高輪」、外国人や革新的志向の持ち主なら「ゲート」と呼ぶのかもしれません。
実際に営業が始まって、どのような現象がおきるのか注目して見ていきたいと思います。

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今回のコラムはここまでにします。
次回は、この「聖なる地」のシリーズの完結となります。
札ノ辻のすぐ近くにある、最後の、四つ目の「聖地」をご紹介します。

コラム「聖なる地(6)神聖な場所へ」につづく

 

 

2019.12.24 jiho

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