高野聖が歩いた道。高縄と高輪。二本榎通りと聖坂。桂坂のかずらの中に「かつら」と密書を。ライバルで切磋琢磨。西崎流日本舞踊。
聖なる地(4)高縄の道と聖坂
前回コラム「聖なる地(3)高野山」では、「高野山 金剛峰寺」などのことについて書きました。
今回のコラムでは、「高野山 東京別院」のすぐ近くの「聖なる道」をご紹介します。
◇高野聖
最近はすっかり「〇〇聖(ひじり)」という名称を耳にしなくなった気がします。
「高野聖(こうやひじり)」という よく知られた名称も、ほとんど目や耳にしなくなりました。
この「聖(ひじり)」とは、日本各地を歩いて回る仏教の僧のことです。
「○○聖」という名称で、各地にその歴史が残っていますね。
今は、修行中の「修行僧」という方々はいますが、日本各地を布教して歩いて巡る僧は、さすがにいないのかもしれません。
今は、ピンポイントで高僧の方が各地に出向くことはありますね。
僧が各地を歩いて回り、修行や布教を行うことを「遊行(ゆぎょう)」といいます。
空海、最澄、行基、一遍、空也、法然、親鸞などの歴史上の有名な高僧は、みな遊行を行っていましたね。
高い徳とあわせて、豊富な教養や知識を身につけた方々を、「聖人(しょうにん)」、「上人(しょうにん)」、「大師(だいし)」などと呼びます。
その教養や知識は、仏教だけでなく、日本各地に政治や農業、商業、文化、芸術などをしっかり根付かせていきました。
日本各地には、そうした聖人さまや上人さまが歩いた道に、名称がつけられ残っていることも多くありますね。
* * *
「高野聖(こうやひじり)」とは、高野山から日本各地に遊行に出た僧たちのことです。
おそらく「○○聖」の中では、もっとも名が知られたものだと思います。
「高野聖」たちが歩いた道も、日本各地に残っていますね。
◇二本榎通り
「高野山 東京別院」の前にある、高輪の高台を南北にまっすぐに通る道も、そうした高野聖が歩いた道だといわれています。
東京別院の前の道は、一般的に「二本榎(いほんえのき)通り」と呼びます。
品川あたりから、芝・三田の地域まで、高台に沿って南北に道が通っています。
数年ほど前に、この歴史ある名称の「二本榎通り」に、「メリーロード高輪」という別称が加わったようです。
まったくの改称なのか、別称なのか、商店街の愛称なのかは、よく知りません。
このあたりの地域は、キリスト教関連の施設や学校が多いので、「メリーさん」は何か関連しているのでしょうか?
まさか、どこかで羊が飼われているということは…?
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この「二本榎(にほんえのき)」とは、江戸時代に遠くからでもよく見えた、高台の二本の榎(えのき)の木のことで、この高台の道にあった「上行寺(じょうぎょうじ)」の門前にあったそうです。
今も、この高台には、この榎の木の子孫の木々が残っているそうです。
この上行寺は、今は神奈川県伊勢原市に移転しています。
真偽ははっきりしていませんが、赤穂浪士は吉良の首を持って、泉岳寺よりも先に、江戸幕府に関係の深い、高輪のこの上行寺にやって来たという伝説があります。
そして、上行寺に断られた浪士たちが、泉岳寺に向かったというのです。
幕府への、上行寺側の身の潔白さを語った話しかもしれません。
一応、幕府に近い高名なお寺にあいさつしてから、泉岳寺に向かったのかもしれません。
個人的には、もし仮に上行寺に立ち寄っていたとしても、最終目的地は泉岳寺だったと思います。
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そして、この「二本榎通り」の北の端につながるかたちで、芝や三田の低地に下りていく坂を「聖坂(ひじりざか)」と呼びます。
江戸までの旧東海道である海岸線の道が整備される前までは、この二本榎から聖坂にかけての高台の道が、主要街道でした。
この道こそ、多くの高野聖たちが布教のために歩いた道なのです。
そのとおり、江戸時代に高野山の江戸の在番所が、この道の場所にやって来ます。
今回の「聖なる地」のシリーズで紹介します三つ目の聖地は、この「二本榎」から「聖坂」にかけての、高野聖たちが歩いた「聖なる道」です。
◇高縄の道と聖坂
日本各地に、「繩手(なわて)通り」や「繩手道」という名称の道がありますね。
少し小高い地形の頂上部分にある、まっすぐな道を、このように呼ぶことが多くあります。
川に沿った細い道をいうこともありますね。
「縄(なわ)」は、柔軟な使い方ができる、今でいう「紐(ひも)」に近いものですね。
「しめ縄」など、言葉も実物もしっかり残っています。
ひと昔前の農業では、「縄」こそ重要な道具でしたね。
ワラから手作りする大切なものでした。
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この東京の「高輪(たかなわ)」の地域は、戦国時代頃まで、「高縄手道」が通る「高縄原(たかなわはら)」と呼ばれていたそうです。
「高縄手道」の「高」が海岸線から見た高台を意味しているのか、前述の「高野聖」を意味しているのかはわかりません。
いずれにしても、海岸線から見れば、高い場所を横に長く渡された縄のように感じることは間違いありません。
高い場所を縄のように通る道。
高野聖たちが歩いた縄のような道。
高い場所に横に長く渡された縄。
どれも、その由来としては、素敵なものですね。
どの理由も真実だと思います。
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いつしか「高縄」は「高輪」という漢字に転じたようです。
理由はわかりませんが、江戸時代初期には「高輪」になったようです。
江戸時代が始まる少し前、小田原からこの関東の地域は、あの北条氏が支配していました。
「勝って兜の緒を締めよ」の名言で知られる、戦国武将の北条氏綱(ほうじょううじつな)は誰もがその名を知っていたはずです。
徳川家康は、江戸幕府が始まってから、北条氏の色が残る小田原城を完全につくりかえてしまいますが、これはとにかく、この地域から北条色を消すためだと思われます。
氏綱の「綱(つな)」と、高縄の「縄(なわ)」…、なんとなく連想させないこともないですね。
「輪」の漢字は、「輪王寺」の「輪」と同じで、徳川家には意味のある漢字ですね。
「縄」で「輪っか」も作れます。
聖なる地域で、「高縄」から「高輪」に漢字を変えても不思議はありませんね。
東京湾から見える、高い場所にある長大な、しめ縄である「高縄」も悪くない気もしますが、今は丸く「輪っか」になっています。
いずれにしても、高野聖が通った「聖なる道」がそこにはありました。
そして、今でも「聖坂」の名称が残っています。
* * *
実は、この「聖坂」のある高台のすぐ下には、キリスト教の「聖地」もあるのです。
この「聖地」のお話しは、四つ目の「聖地」として、次回以降のコラムでご紹介します。
さて、ここからは、この「二本榎通り」や「聖坂」のある高台を写真で紹介します。
下の写真は、高野山東京別院前の「二本榎通り」です。
高野山 東京別院の隣に、納豆屋さん企業の「ダルマ」のマークとは、なかなかです…。
◇高台から監視
高野山 東京別院のすぐ近くの、「二本榎通り」と「桂坂」の交差点には、下の写真のようなレトロな消防署があります。
1933年(昭和8年)の建築物で、「高輪消防署二本榎出張所」という名称です。
前身は1908年(明治41年)の内務省警視局消防本署の出張所だそうです。
明治時代であれば、おそらく海岸線も一望できたでしょうし、海岸線の東海道で何かがあれば、隣の桂坂を下って、海岸線にすぐに駆けつけられたでしょう。
日本初の鉄道もこの海岸線(実は海の上)を通っていました。
この地域には、皇族の屋敷も多かったので、治安や火災などの監視は大切な業務であっただろうと思います。
今は「火の見やぐら」の機能は果たせないと思いますが、こうした建築物がしっかり残されていることは、街の誇りではないでしょうか。
◇桂坂
さて、この消防署のある交差点から、海岸線に下る急坂を「桂坂(かつらざか)」といいます。
坂の両側は、高い壁になっています。
どう考えても、自然にできた坂とは思えません。
人工的に大掛かりに開削したように思います。
下の写真の右側の高台に、前述の高野山東京別院があります。
お城には「大手道」という主要な大通りをつくりますが、この坂は、もしかしたら、旧東海道から高野山東京別院への参道のひとつとして整備されはじめ、いつしか大きいな坂になったということはないでしょうか。
お寺の治安、火災対策のための防衛上の堀だったかもしれません。
でも、個人的な印象では、結果的に参道にはなったかもしれませんが、つくった理由は他にあるのではと感じています。
これだけ大きく開削するのには、大きな理由とチカラがあったと思われます。
明治期になって、この坂道があったからこそ、前述の消防署がこの坂の上に建てられたのは間違いないと思います。
この「桂坂(かつらざか)」という名称には、いろいろな由来が残っています。
坂の両側の石垣に、「葛(かずら)」の木のツタがたくさん からみついており、「かずら坂」が「かつら坂」に転じたとか、この坂の途中で、ある僧が急死したのがその由来だとかいわれているようです。
この僧は、頭に「かつら」をかぶって変装していたことから「かつら坂」になったという説です。
◇桂坂の葛(かずら)の中に、かつらも密書も…
実は、前述しました「高野聖(こうやひじり)」の中には、歴史の各時代で、多くの敵国のスパイが紛れ込んでいました。
高野聖の格好をして、時に別のふん装をして、スパイ活動や暗殺、逃亡を行うのです。
もちろん、本物の「高野聖」もたくさんいますが、偽物の高野聖もたくさんいました。
葛の木のツタも、暗躍のため、あえて植えてあったのかもしれません。
織田信長が、高野山を攻撃したのは、そうした偽物の高野聖たちの一網打尽を狙ったともいわれていますね。
歌舞伎の演目「勧進帳(かんじんちょう)」は、源義経や弁慶たちが、聖(ひじり)の偽装をして東北に逃亡する際のお話しですね。
弁慶は、何も書いていない「勧進帳」を読み上げ、そして義経を叩き、後で泣きながら義経に詫びるという物語の場面は有名です。
勧進帳とは、お寺の修理などのため寄付を願う文書です。
聖たちは、勧進帳を持って、全国で寄付を集めていたのです。
聖の偽物がたくさんいるのは、今の現代も同じですね。
そんな偽物の高野聖が、この坂で敵に暗殺されても不思議ではありません。
本物でも、偽物でも、高野聖たちは、この「桂坂」という名称を目にしたときには、たいへん注意しなければいけない坂ですね。
急坂での心臓発作による急死でしたら、「かつら坂」の名称が残るはずはありません。
スパイたちが、旧東海道から江戸にやって来て、ここで左折するのは危ない…、それが桂坂だったのかもしれません。
旧東海道上の、この左折場所のすぐ先に、江戸の入口の大きな門があったのです。
ここで左折する者たち…、それは何かの理由がある?
この桂坂は、幕府の何かのワナだったのかもしれません。
箱根の関所もそうであったように、正式な門(ゲート)ではない場所を通るルートのほうこそ、警備を強化した可能性もあります。
それなら、これだけの大きな開削の意味もわかる気がします。
江戸幕府が、この坂の上に、高野山の江戸在番所を移転させた理由は、それもあったかもしれませんね。
本物の高野山には、とんだ迷惑な話しですが、高野山・高野聖・桂坂・東海道・そしてこの先の大門(大木戸)は密接につながっていたようにも感じます。
◇桂坂のお屋敷
下の写真のとおり、この桂坂には昔から有名な屋敷がありました。
写真の右上は、「高輪館」です。
もともとは三井財閥系であった三越や朝日生命の社長の洋風邸宅で、数年前まで東芝の迎賓館になっていましたが、例の問題と業績不振で売却し、今の家主は、放送局の「日本テレビ」です。
一般の人は入れませんが、テレビドラマでは、よく登場してきます。
昔、あの「ウルトラセブン」でも登場しています。
「緑の恐怖(ワイアール星人が登場)」の回だそうです。
◇日本舞踊
日本舞踊の流派のひとつに、有名な「西崎流」があります。
1900年代の前半に、初代「西崎緑(にしざき みどり)」さんが西川流から独立し、「西崎流」を創りました。
その後、いくつかの派や会に分かれているようですが、私は詳細は承知していません。
上の写真の右下は、この桂坂で大きな看板も表示されています、「日本舞踊 西崎流 二代目西崎緑舞踊研究所」です。
風情のある塀が美しいですね。
大きな劇場で、たくさんの公演もされています。
西崎流には、他にも 「西崎流 筑紫会」、「西崎流 緑森会」、「西崎流 若葉会」、「西崎流 美緑会」など、たくさんあるようです。
日本各地にも、おそらく多くの会があるのだと思います。
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日本舞踊の西崎流には、それぞれの派に、多くの「西崎さん」もおられます。
実は、創始者の「西崎緑」さん以外にも、今、私が知る限り、ふたりの「西崎緑」さんがおられます。
前述の「日本舞踊 西崎流 二代目西崎緑舞踊研究所」の西崎緑さんと、「西崎流 美緑会」の西崎緑さんです。
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本コラム「映像&史跡 fun」は、歴史ファンやテレビファンであり、時代劇ファンという方もたくさん読んでいただいていますので、「西崎緑」という名前を耳にすると、すぐにあの方を思い浮かべることと思います。
大ヒットした時代劇テレビドラマの「必殺シリーズ」の中の主題歌の中に、「旅愁」という大ヒット曲がありますね。
必殺シリーズの初期の頃の作品の主題歌ですが、まさに、このシリーズの人気を決定づけた一因になった楽曲です。
この楽曲を歌ったのが、当時14歳の「西崎みどり」さんです。
当時は、ひらがな表記の芸名でしたね。
今、この曲を聴いても、まさか14歳の歌唱力とは思えません。
日本舞踊の稽古の賜物であったのでしょう。
今思うと、14歳の女の子に、うれいのある歌声で、
♪「私の夜空に、星は見えない…」と聞かされていたとは、まさに必殺!
当時、星が見えない多くの人を泣かせたフレーズです。
時代劇の歴史に大きく輝く星となっている名曲です。
逆に、この曲は、汚れた大人には歌いきれなかったのかもしれませんね。
その後、この必殺シリーズの中では、仕事人一味のメンバー俳優として、ドラマの中でも活躍されました。
まさに「美しすぎる仕事人」でしたね。
この「西崎みどり」さんが、「西崎流 美緑会」のほうの「西崎緑」さんです。
今も、日本舞踊に、ステージに、指導者に、活躍されています。
* * *
高野山の空海にも、比叡山(ひえいざん)の「最澄(さいちょう)」という、まったく別のタイプの強力なライバルの僧がいましたね。
空海も最澄も、たくさんの弟子を輩出しました。
平安時代以降、仏教の世界では、次々にいろいろな流派が生まれ、枝分かれし、仏教は日本中に定着していきます。
その中で、多くの聖人さま、上人さまが、歴史の中に登場されました。
日本舞踊の世界も、各流派、各会派で、仏教界や歌舞伎界のように切磋琢磨しながら、どんどん成長していってほしいと思います。
日本舞踊は、ナマで目の前で見ると、その美しさに圧倒されます。
人間が、その動きで、このような「美の世界」を創り出せるとは、まさにおどろきです。
今、小学校などでは、一見流行のようなダンスを教えていますが、選択制で、日本舞踊の授業もぜひ導入してほしいですね。
世界に誇る、日本人の舞踊のかたちです。
テレビでは、なかなか、その美しさが伝えられませんね。
日本舞踊を身につけると、所作(しょさ)はもちろん、考え方や精神の落着き、自己表現の個性と自信も身につきそうな気がします。
歌唱力もアップするのかもしれませんね…。
* * *
この桂坂には、柴田錬三郎(しばた れんざぶろう)さんの邸宅もありました。
今はどなたの屋敷かは知りません。
オールド世代は、「シバレン」と呼んでいましたね。
有名な小説家で、今の文学界には「柴田錬三郎賞」がありますね。
歴史ファンの方でしたら、その著書を読まれた方も多いと思います。
コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜」で少しだけ書きました、清河八郎の妹の孫と結婚されました。
遺作は、この桂坂のすぐ近くの泉岳寺にまつわる赤穂浪士の小説でした。
なんとも、歴史と神秘性のある、すばらしい坂でお暮しでしたね。
* * *
この高輪の地域の高台には、江戸時代までは、大きな大名屋敷や寺などがたくさんあり、明治以降は、皇族の屋敷や、有名な企業家の屋敷などの大きな邸宅がたくさんありました。
今でも、さまざまな著名人がたくさん住む地域です。
他の地域ではほぼ見かけないような、「超」がつく超高級外車をたくさん見かける高輪地域です。
次回のコラムで、「高輪ゲートブリッジ」のことを書きますが、これからどのように、街が変わっていくのでしょうね。
◇高台への急坂
ここまで、急坂、急坂と何度も書いてきました。
この高輪の高台の北の端に、「聖坂(ひじりざか)」があることは前述しました。
今、その北の端では、大きなビルの建設のため、その高台の地形が見えている箇所があります。
下の写真の大きな道路は、第一京浜で、旧東海道です。
江戸時代後期の旧東海道の道幅は、片側三車線くらいだと思います。
この写真は、「辻の札(つじのふだ)」の歩道橋から撮影しました。
右前方の樹木のたくさんある部分が、スロープとなってさらに右側に上がっていきます。
江戸時代、道路の左側には、すぐに海岸線がありましたから、海岸線のわずかな平地から ほんのすぐの場所に、海岸線に沿って、高台が長く続いていたということになります。
高台の海抜は25~30メートルくらいかもしれません。
正確には承知しておりません。
下の写真の大きな青屋根のマンションの向こう側に「聖坂」があり、写真右側に下っていきます。
旧東海道の低い平地から、歩いて高台に上がるのは、結構 疲れます。
下の写真の赤矢印の構造物は、エレベーターです。
地域住民が、低地と高台を行き来するために設置されているものです。
江戸時代の人たちが見たら、泣いて喜びそうな施設ですね。
下の写真の坂の傾斜であれば、まだ歩いて登れますが、この先は、ほぼ崖です。
坂の途中に、エレベーターはあります。
エレベーターで上がると、高台の土地まで、短い橋が架かっています。
向こうに、三田のNECスーパータワーが見えます。
今の時期だけの、ちょっとした展望台ですね。
この上の、さらに上の写真の、草地の坂は、実は、本「聖なる地」のシリーズの、四つ目の「聖地」なのです。
聖地にビルは建てられません。
このお話しは、次々回のコラムで書きます。
* * *
次回のコラム「聖なる地(5)門の向こうに」では、前述の「桂坂」を旧東海道まで下り、低い平地の旧東海道を前述の「札ノ辻(ふだのつじ)」のあたりまで歩いてみたいと思います。
いよいよ、新旧の「門(ゲート)」対決です。
「高野聖」になったつもりで、もう少し、高輪の地を歩いてみたいと思います。
コラム「聖なる地(5)門の向こうに」につづく
2019.12.22 天乃みそ汁
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