徳川家康と萬松山 泉岳寺。浅野内匠頭の切腹。血染めの梅と石。首洗い井戸。明治天皇と赤穂義士。吉良家と今川家と浅野家。義士祭。


 

聖なる地(2)源泉と海岳の寺


前回コラム「聖なる地(1)義士祭」では、今年(2019年12月14日)行われました、東京・泉岳寺の「義士祭」での「赤穂義士行列」をご紹介しました。
今回のコラムでは、泉岳寺境内での「義士祭」当日の様子を写真でご紹介します。

当日のお昼前あたりの時間に写真撮影しましたので、午後よりは はるかに人出が少ない状況でした。

最初に通るのは、「中門」です。



屋台があふれんばかりです。
泉岳寺では、上の写真のように、墨文字で書かれた白い大きな立札の光景をよく見る気がします。
この立札のある風景…、日本的で私は好きです。


上の写真の、右側が浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」、左側が大石家の家紋「右二つ巴紋」です。
この日は、この両家一色です。
中門の向こうに、有名な「山門」が見えてきます。


山門の前の参道には、もともとお土産屋さんの建物が並んでいます。


上の写真の山門の右側には、大石内蔵助の銅像が建っています。
泉岳寺の境内の関連施設は、「蔵造り」のいい風情です。






山門をくぐると、本堂が見えてきます。


この日は、雲ひとつない快晴です。
まさに「小春日和(こはるびより)」とはこのことです。
12月中旬だというのに、まだまだ紅葉は見頃です。



江戸時代も、現代も、こうしたお寺での縁日の風景は変わらないですね。
外国人から見たら、何かのテーマパークに来た気分かもしれません。


いつもは お線香のいい香りに包まれている境内でしょうが、この日は、屋台のそそられる匂いに かき消されそう…。


本堂のすぐ目の前には、もうひつの香炉なのでしょうか。
愛きょうのあるかたちのものがありました。

泉岳寺の二つの香炉には、桐の紋章(五三の桐)が刻まれているので、これは明治天皇や明治政府を意味しているのかもしれません。
あるいは江戸幕府を意味するものかもしれません。
この香炉らしきものの歴史を知りませんが、日本政府とも考えられます。
すみませんが、よくわかりません。
この日、境内で寺務所の方に尋ねることはできませんでした。

* * *

明治元年、明治天皇は泉岳寺に勅使をつかわし、「宣」をお与えになりました。
今でも、皇居で叙勲などさまざまな授与がありますが、数百年もたってから、大石ら赤穂浪士の功績を称えたのです。
江戸時代が終わったことが理由ですが、歴史的には、たいへんな事柄だと思います。
「赤穂浪士」は、名実ともに、ここで「赤穂義士」という評価となります。

後で、短く泉岳寺の歴史を書きますが、もともと泉岳寺は、浅野家や、大石家ら赤穂義士のためだけのお寺ではありません。


上の写真の中の、白いテントは、写経所です。
満員でした。

浅野家や赤穂義士に対してという意味だけでなく、写経という行為は、何か 心や精神の洗濯のような心持ちになれますよ。
未体験の方は、どうぞお近くのお寺で…。




境内には、大きく立派な松があります。
この松のお話しも、泉岳寺の歴史のところで書きます。


◇「血染の梅」と「血染の石」

松ではなく、梅のお話しを先に書きます。
境内には、「いわれ」が残る幾本かの梅の木も残っています。
当時の梅の木そのものなのか、遺伝子が同じ後世の梅の木なのかは知りませんが、幾本かの梅の木の中から「血染の梅」と、「血染の石」をご紹介します。


上の写真内の案内板のとおり、浅野内匠頭の無念の血が付着した梅と石だそうです。


◇無念の切腹

浅野内匠守長矩(あさのたくみのかみ ながのり)が切腹した屋敷は、田村右京太夫建顕(たむらうきょうだゆう たてあき)の屋敷です。
今の東京の新橋駅の近くで、石碑が建っています。

田村さんは、それはたいへんだったことでしょう。
朝、自分の屋敷を出て江戸城に出仕する時には、まさか こんな一日になるとは想像もしていなかったでしょう。

* * *

たまたま、その日、田村さんはある当番で江戸城内にいました。
刃傷事件直後、何人かの当番の中で、浅野家とまったく縁続きのない田村さんが抜擢されます。

大きな金網に入れられた浅野さんを、田村さんは自宅屋敷に運び、幕府の指示を待ちます。
「切腹」の命令で、まずは立派な部屋を準備します。
浅野内匠頭は大罪人とはいえ、一国の城主で、名門 浅野家の一族です。

そのうち、大目付(ようするに将軍命令)から、庭で切腹させるように命令がきます。
江戸城では、これには異論がかなりあったようですが、命令どおり、その日のうちに庭先で切腹が決まります。

庭に、15枚の畳を敷き、その上に毛氈(もうせん)を敷きます。
大きな屏風で周囲を囲み、簡易の屋根まで設置したそうです。
少し暗いので、高張提灯(たかはりちょうちん)で明るくします。
こんな急な出来事です。
屋敷の部屋で使っていた畳や屏風、提灯を、急いで持ちだしたかもしれませんね。

最期の料理(湯漬け)を準備します。
磯田武太夫の介錯(かいしゃく)で、切腹が行われます。
簡易式の切腹だったのか、戦国時代のような壮絶な切腹だったのかは、わかりません。

もし、この石と梅に血が付着したとしたら、介錯の際の血であろうと思います。
あるいは、その刀から血液がしたたり落ちたかもしれません。

ひょっとしたら、田村家から泉岳寺に、最期を見届けた記として渡されたものだったかもしれません。
庭先のすぐ近くにあった庭石をおくったのは、さまざまなメッセージが込められていたと思います。

庭石は、言葉では何も語ってくれませんが、今、この泉岳寺の地に存在している意味はたいへんに大きいと感じます。

案内板は、現代人への説明内容としては、少し短すぎる気もしないではないですね…。
目立つ場所に置かれていますので、皆さまも、すぐに見つけられると思います。


◇首洗い井戸

そして、この「血染の石」のすぐ横にあるのが、「首洗い井戸」です。
案内板のとおり、赤穂義士が運んできた吉良上野介の首を、この井戸の水で洗い、浅野内匠頭の墓前に供えたということだそうです。




これだけの距離を運んできましたから、その首は、完全に血で染まっていたことでしょう。
洗わないと、額の傷はもちろん、誰の顔かもわからなかったかもしれません。
洗わなければ、長矩(ながのり)さまに見てもらうことはできませんね。

* * *

「血染の石」と「首洗い井戸」が並べてあるとは、泉岳寺の見事な演出だと思います。
因縁や遺恨というだけではない、人の「生」と「死」、「無常」と「常住(じょうじゅう)」、「義」と「奸(かん)」を、あらためて考えさせられる気がします。

泉岳寺に来たら、ぜひ見てほしい、「血染め」と「首洗い」の、ふたつの場所です。

* * *

上の写真を自宅で見て、そこで初めて気がつきました。
「首洗い井戸」の石の囲いに、「川上音二郎」の名が見えるではありませんか。
「オッペケペー節」の音二郎のことかもしれません。

音二郎は、江戸の幕末から明治時代に活躍した、今でいう、オールラウンドのアーティストといったところでしょうか。
興行主であり、落語家でもありましたね。
「忠臣蔵」の芝居を行ったことがあったでしょうか。

音二郎も、戦前の焼失前の泉岳寺にやって来たかもしれませんね。
もし今も生きていたら、「俺にも義士行列をやらせろ」と言ったかも…。


◇都市に飲み込まれた墓所

下の写真が、浅野家のお墓です。

下の写真の右奥に、浅野家のお墓があり、その左側に、赤穂浪士47名(寺坂吉右衛門・間新六郎は供養塔)のお墓と、討ち入り前に自刃した萱野三平〔かやの さんぺい〕)の供養塔があります。

地下鉄の泉岳寺駅構内に、下のような名簿が掲げられていました。

 

今、このお墓の場所を、別の場所から見ますと、下の写真のように、まさに住宅街に囲まれています。
もちろん、住宅のほうが後からやって来たのです。

泉岳寺に限らず、都会の中のお寺は、今、都市の中でさまざまな問題に悩まされていますね。

東京以外の方はご存じないかもしれませんが、下の写真の左端にあるマンションは、近年、泉岳寺の景観問題として、東京では大きなニュースとなりました。
泉岳寺の中門のすぐ隣に、8階建てマンションが建ったのです。
京都や奈良もそうですが、なかなか やっかいな景観問題ですね。

* * *

下の写真の奥にある壮大な高層マンションも、今や有名な高級マンションですね。
丘の上にある、若い世代のあこがれのマンションです…。
もはや、上空に江戸時代はありませんね。



◇泉岳寺

この泉岳寺は、もともと、浅野家や赤穂義士のためだけに建てられたお寺ではありません。

1612年に、徳川家康が外桜田(今の警視庁あたり)に建立したお寺です。
1641年の江戸の街の大火災により焼失し、今の高輪の地に移転し、再興させました。

この時の寺の復興を託されたのが、浅野家、毛利家、丹羽家、朽木家、水谷家です。
ここから浅野家とのご縁が始まります。

泉岳寺の詳細は、泉岳寺サイト をご覧ください。


◇萬松山

この泉岳寺は正式名は「萬松山(ばんしょうざん)泉岳寺」といいます。
「萬松山(ばんしょうざん)」の名が付くお寺は日本各地にあります。

ここで、泉岳寺の「萬松山」の意味を考えてみたいと思います。

「萬松山」の「松」の文字は、源氏の徳川家の本姓である「松平家」を意味しています。

「萬(まん)」は、恐い生き物のサソリの象形文字ですが、意味は、数が多い、すべて、完全、十分、数字の単位などがありますね。

「万(まん)」は、「萬」の略字で、卍(まんじ / 萬字)をくずしたものともいわれています。
「卍」は日本の仏教では、ありがたい記号ですね。

この卍記号は、微妙に向きが違ったりしますが、世界中の国々で、それも新旧の時代に存在します。
世界共通の、不思議な記号です。
幸福や、魔除けなど、意味は国によってさまざまですが、何か最高の地位や最大のチカラを示すような気がします。

千差万別・万歳・万事・万人・万全・一万尺・万能・準備万端・一万円…。
「萬」と「万」は、共通する部分がたくさんありますね。

ちなみに、「八幡さま」の「幡(まん)」は、祭事の際の記(しるし)の意味の布のことで、布の旗を立てたり、ひるがえらすことで、何かを願ったりしたようです。
今、サッカー場や運動会で、みな旗(幡)を振っていますね。
古代とそんなに変わらない、人間の心理行動かもしれません。
「八幡さま」は、特に武人を祀った神社です。

* * *

みな「まん」や「ばん」と読みます。
「八百万(やおよろず)の神」という時も、「万」が入ります。

漢字は「音」の意味も大切にしますから、これらすべてを含めて、「萬松山」の「萬」なのかもしれません。

すべては松平家のために、松平家はすべてのために…。
こんな意味あいの「萬松山」なのかもしれませんね。

泉岳寺の山門の隣にそびえる大きな松の大木は、そんな松を意味しています。


◇恩と怨

泉岳寺は、前述のとおり、徳川家康がつくったお寺ですが、門庵宗関(もんなんそうかん)という僧を招いて開山させます。
この宗関は、素性ははっきりしていませんが、どうも今川義元に非常に近い一族の人間であったようです。

今川義元とは、「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれた、あの武将です。
今川義元といえば、家康が子供の頃に人質となり、養父となっていた人物です。
家康は、人質とはいえ、厚遇を受けていたことでしょう。

今川家と織田家は、いってみれば、家康の取り合いをしたともいえます。

* * *

室町時代、今川家は、「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば、今川が継ぐ」といわれたほどの名家です。
「吉良」とは吉良上野介の家のことです。
吉良家は、武力は別として、あの今川家より格上なのです。
戦国時代は、武力による、家格の下克上(げこくじょう)でもありました。

江戸時代、吉良家の家格は、浅野家の分家の赤穂浅野家とは、くらべものにならないほど高いです。
ですが浅野家の武力は、戦国時代から徳川家を支えてきました。
もっと古い時代までさかのぼると、吉良は清和源氏の足利流、浅野は清和源氏の頼光流で、家格の差は微妙な感じがします。

江戸時代中頃でしたら、このあたりの対抗意識も強かった可能性はあります。
格上だの、格下だの、さかのぼると…、など、その思いが、二人の言動にあらわれていたのかもしれませんね。

そこにきて、塩ビジネスのライバル関係、儀式の指導者と生徒、浅野内匠頭の奥さんは美人、大ベテラン世代と若者の世代間ギャップ、金を出す出さない…など、その関係性は複雑極まりないですね。

* * *

それはさておき、戦国時代のならいで、今川家は、織田信長により、有力武家の地位を失いますが、徳川幕府内では、軍事部門ではない文化芸能部門でしっかりと地位を築きます。
これも、信長がそうしたように、家康の計らい以外にありません。

この泉岳寺は、家康が、養父であった今川義元の菩提を弔う目的で、江戸城の隣に建立したお寺であったともいわれています。
家康は、今川家に、少なからず「恩」を感じていたのかもしれませんね。

「恩」と「怨」は、同じ「おん」ですが、まったく正反対の意味を持っていますね。
泉岳寺には、両方の「おん」があるのかもしれません。


◇源泉と海岳

泉岳寺のサイトでは、「泉岳」の名称は「源の泉、海岳(かいがく)に溢(あふ)るる」からきていると書かれています。
「源の泉」の「源」とは、源氏を意味しているのは間違いないと思います。

「源の泉」とは、源氏長者であった徳川家康のチカラや恩恵と、家康目線での、清和源氏の流れの吉良家から分家した今川家の今川義元から受けた恩恵と感謝を意味しているようにも感じます。

「海岳(かいがく)」とは、すべての海や山であり、支配地域全体を意味するのと同時に、大きな「恩」という意味もあります。

両者の意味を合わせると、「源の泉、海岳(かいざん)に溢(あふ)るる」の意味は、

1.徳川家のチカラは、日本のすべての海や山に、その恩恵をもたらす。
2.徳川家康からの恩恵は、日本中にあふれている。
3.(家康目線で)今川家から授けられたチカラは、今、日本中に、その恩恵としてあふれている。

といったところかもしれません。
他にも、いろいろな解釈ができると思いますが、私の個人的な想像です。

「泉岳寺」という名称は、なかなか考えさせられる寺名ですね。

* * *

今、愛知県西尾市には、「花岳寺(かがくじ)」という吉良家の菩提寺があります。
菩提寺名まで、ライバル関係とは、まったく おそれ入りました。
天国でも争っているかもしれませんね…。

* * *

泉岳寺は、浅野家や赤穂義士だけのお寺ではありません。
徳川家、今川家も、しっかり「泉岳」の文字の中に生きているのです。
ちょっと、頭の片隅に入れておきたい内容です。

前述しましたが、「血染の石」といい、「首洗い井戸」といい、「泉岳」の意味といい、因縁や遺恨というだけではない、人の「生」と「死」、「無常」と「常住(じょうじゅう)」、「義」と「奸(かん)」を、あらためて考えさせられる、そんな「聖なる地」の泉岳寺ですね。

* * *

次回のコラムでは、泉岳寺を出発して、ものすごい急坂を登り、二つ目の「聖地」をめざしたいと思います。
ここには、あの聖地の東京別院があります。

アイドルや有名人たちが暮らす「聖地」ではありませんよ…。

コラム「聖なる地(3)高野山」につづく

 

 

2019.12.17 天乃みそ汁

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