元和の大殉教。私の夜空に 星は見えない。札ノ辻の刑場。江戸の三大刑場。小塚原・鈴ヶ森・大和田。高輪は神聖な場所へ。

 

 

聖なる地(6)神聖な場所へ


前回コラム「聖なる地(5)門に向かって」では、東京の札ノ辻(ふだのつじ)にあった芝口門や、高輪大木戸(たかなわ おおきど)、高輪ゲートウェイなどについて書きました。
今回のコラムでは、泉岳寺から始まった高輪巡りのシリーズ「聖なる地」の最終回として、人の生と死にまつわる場所をご紹介します。


◇江戸の三大刑場

前回コラムでは、江戸の主要街道にあった「大木戸(おおきど)」を紹介しました。
多くの人が往来する、集まる、そんな門や大木戸には、高札場(こうさつば)がつくられたと書きました。
実は、そうした場所の近くには、処刑場がつくられたケースが少なくありません。

江戸時代までの処刑場は、見せしめの処刑でもありました。
人が多く集まる中で、罪人などの処刑を行ったのです。
いわゆる公開処刑です。
これは、日本だけに限らず、中世頃までは世界各国で行われていました。
もちろん、イエス・キリストもそうでした。

* * *

街なかに、そうした施設をつくることはありません。
江戸の場合は、主要街道沿いの、いわゆる「街はずれ」です。
とはいえ、街からそう遠くない場所です。

江戸時代は、「処刑」ではなく「仕置(しおき)」と言いました。
もちろん「仕置」という用語は、処刑以外でも使われる場合もあります。

江戸時代の中頃、江戸には「三大刑場」が整備されます。
落語などにも、その名称が時折 登場しますね。

今、その遺構の中心場所に、人が暮らしているとか、商業ビルがあるということはなく、お寺であったり、電車の車両基地であったり、河原であったりします。
江戸の三大刑場であった、「小塚原(こづかっぱら)」と「鈴ヶ森(すずがもり)」は、きちんとご供養されています。
「大和田(おおわだ)」には、今は供養塔はないようです。

* * *

まずは、「小塚原(こづかっぱら)刑場」です。
江戸の北東にある千住大橋の少し南で、ここは日光街道や奥州街道の道沿いでした。
ここは、後に「千住宿」に組み入れられますが、千住大橋の内側ですので、実質的には、江戸の街の北の端ということになります。
いずれ、ここは江戸の大火葬場センターとなりますので、千住大橋の内側にあったのだと思います。

この刑場は、1651年頃から若干の移転をしながら整備され、江戸の街中の小伝馬町にあった「伝馬町牢屋敷」や「南千住回向院」と連携した施設となったようです。
吉田松陰や橋本佐内など、幕末の「安政の大獄」での大量の処刑は、この地で行われました。
幕府の転覆や、いわゆる政治犯は、主にこの地で処刑されたそうです。

杉田玄白らが、この地に来て、「解体新書」の翻訳の参考にもしていたそうです。

後に、この近くには、今でいう大規模な火葬場がつくられます。
刑場であり、街の火葬場にもなったようです。
ですので、このあたりは、人の死を扱う、一大聖地となります。
今でも、しっかりご供養されています。

* * *

次に、東京都西部の八王子市の「大和田(おおわだ)刑場」です。
ここは甲州街道沿いでした。
浅川の河原で、どうも大きな牢獄施設があったようです。
今は、慰霊碑が撤去されているようです。
なにかご供養の碑を建てたほうがいいような…。

* * *

最後は、「鈴ヶ森(すずがもり)刑場」です。
ここも、小塚原と同じ1651年に開設されます。
というよりも、他の場所から移転してきました。
ここは東海道沿いでした。
今の大井競馬場の近くです。

江戸時代、高輪大木戸からは6キロほど南で、品川宿中心部からは2キロほど南でしょうか。
今の感覚では、東京の中心部から、さほど遠い場所でもありません。

時代劇ドラマにも、時折 登場する「八百屋お七」や「天一坊」などは、ここで処刑されています。
今回は、この二人のお話しは割愛します。
ここの刑場は、政治犯とはまた少し違うタイプの罪人たちが処刑されたとも考えられます。

時代劇ドラマや落語にも、この「鈴ヶ森」という名称は、時折 登場しますね。
振ると鈴のような音が聞こえる、石があったそうです。
今は供養塔もお寺もあり、しっかりご供養されています。


◇見せしめ

江戸の街は、他の街と比べると、監視の目が厳しく、治安・警備・防犯などの侍や役人たちが大勢います。
関連した治安や監視のための職業の人も多くいました。

時代劇には「同心(どうしん)」という役人の下で働く「岡っ引き(おかっぴき)」というのがよく登場します。
さらに、その下に「下っ引き」がいました。

この「岡っ引き」たちは、警察の末端のようであり、実は悪党たちとは紙一重だったりします。
「蛇の道はへび」です。
「御用聞き(ごようきき)」、「目明し(めあかし)」、「手先(てさき)」…らもよく時代劇で耳にする職業の人たちですが、みな「岡っ引き」と似た人たちです。

時代劇の必殺シリーズでは、八丁堀 同心(はっちょうぼり どうしん)の中村主水(なかむら もんど)が番所あたりで、私服の手下の「岡っ引き」たちによく指図をして、小遣いをあげていますね。

ですから、悪党たちは、街なかで暮らしにくい面があったようで、彼らの多くは、大木戸や千住大橋などの外側である江戸の郊外に、集まって暮らしていたようです。
仕事の時に、江戸に入ってきます。
アジトもそうした地域にあったようで、こうした郊外での処刑は、彼らに見せつけるという役割もあったようです。
抑止力になったのかどうかは、よくわかりません。


◇札ノ辻の刑場

前述の「鈴ヶ森刑場」…、江戸の中心部から、少し遠すぎる気がしませんか。
東京にお住いでない方はイメージしにくいかもしれませんが、今は自動車や電車でなら すぐですが、もし日本橋や銀座あたりから、鈴ヶ森に徒歩で出かけて帰ってくるとなると、一日仕事です。
処刑執行時刻にもよりますが、暗くなるまでに戻ってこれるでしょうか。

* * *

実は、この鈴ヶ森刑場ができる前は、前回コラム「聖なる地(5)門に向こうに」で紹介しました。「札ノ辻(ふだのつじ)」や「大木戸(おおきど)」のある「高輪(たかなわ)」の地に刑場がありました。

江戸時代は、江戸の街が繁栄し、人口が急増、街がどんどん拡大していきます。
「街はずれ」が、どんどん遠くなっていきます。
そうしたことも一因となって、刑場は鈴ヶ森に移転します。

今、この高輪の刑場跡も、その土地をしっかり整備し、きれいに保存しています。

それが下の写真です。
手前が旧東海道で、樹木がたくさんある場所が刑場のあった場所です。
右奥が高台で、坂道となっています。
ある地点からは、ほぼ崖です。
札ノ辻の交差点の歩道橋より撮影しました。

 

◇元和の大殉教

この地は、有名な処刑が行われた場所です。
徳川三代将軍の徳川家光が、大勢のキリシタンを見せしめのために処刑した場所こそ、この丘なのです。

江戸幕府は、1612年と1613年に、キリスト教信仰を禁止する「禁教令」を出します。

江戸幕府は、それより以前は、キリスト教には寛容で、家康も二代将軍 秀忠も、豊臣秀吉から弾圧を受けていたキリスト教神父たちと面会し、布教の許可もしています。
ですが、徐々に徳川幕府の管理は強められ、天皇家でさえ逆らえないものとなります。
政治力の支配を嫌うキリスト教界は、幕府と対立を深めてしまうのです。

1612年、キリシタン大名の有馬晴信や筒井定次(筒井順慶の養子)は処刑されます。
黒田官兵衛、大友宗麟、織田秀信(織田信長の孫で、信忠の子)は、この時点で、すでに亡くなっています。
高山右近は、1614年に日本を脱出し、フィリピンに行き生涯を閉じます。

京都所司代の板倉勝重は、キリスト教弾圧をよしとしていませんでしたが、とうとう幕府の圧力を抑えきれず、1616年に「京都の大殉教」という52名の見せしめの処刑が行われます。

1622年(元和8年)からは、長崎、平戸、東北、江戸で、同様の大量処刑が行われます。
これが「元和(げんな)の大殉教」です。
この時代の拷問を見ると、すぐに処刑するほうが、まだ慈悲がある気もしてしまいます。

この情報は、すぐにヨーロッパにも伝えられますが、当時の強力な軍事国スペインは、日本は遠すぎる地で、来ることはありませんでした。
この時に、スペインの無敵艦隊や、イギリスの大艦隊が来ていたら、日本は終わったのかもしれません。
そして、1637年の「島原の乱」へと向かっていきます。

そのずっと後、明治政府により、欧米よりもはるかに厳格な政教分離が行われ、その分離政策は今につながっていきます。
昭和の戦後、信仰の自由も完全に保証されます。

* * *

前述した江戸時代のキリスト教弾圧で処刑された、キリシタン大名である筒井定次の筒井家を救ったのは、なんと仏教界の東大寺です。
当時の政治力も働いたのかもしれませんが、宗教のチカラのすごさを感じるお話しですね。

前述の1620年代の「元和の大殉教」の際、1623年(元和9年)に、江戸でのキリシタン大量処刑が、この東京 高輪の「札ノ辻」の刑場で行われたのです。
1623年に、将軍職は、秀忠から家光に移りますが、実際には、秀忠の大御所政治が続いていました。
禁教に、秀忠の強い意志を感じます。

札ノ辻の旧東海道からは、丘の中腹に、はりつけにされたキリシタンたちが、よく見えたはずです。















 

◇神聖な場所へ

今回のコラムシリーズ「聖なる地」では、高輪の聖地巡りをしてきました。
12月14日の泉岳寺の義士祭の日に、泉岳寺をスタートし、高野山東京別院、聖坂、高輪大木戸、札ノ辻をまわり、最後はこの処刑場跡までやって来ました。

赤穂浪士の切腹、犯罪者や政治犯の死であれば、まだ少しは、その心情を想像することもできますが、宗教弾圧により殉教する人々の心情を想像することは、私にはむずかしすぎて、想像できません。
人には、さまざまな死のかたちがありますが、殉教とは、どんな気持ちや境地なのでしょうか。
クリスマスの今日のこの日に、少し想像しようと思いましたが、私には容易ではありません。

* * *

高輪の地には、さまざまな「生」と「死」が混在しているのかもしれません。
江戸時代、多くの庶民は、何かをおそれ、この地に暮らすことをためらいます。
それは、地形や、政治・治安という事情とは異なるものであったかもしれません。

聖人(しょうにん)さまや聖(ひじり)たち、聖者や聖職者が、たくさん行き来したこの地です。
赤穂浪士たちも、この地から旅立ちました。
少しずつ、ここは忌み嫌う場所ではなく、生と死がとなり合う、神聖で大切な地域として認識されていったのではないでしょうか。

高輪は、神聖な、出発の地であるのかもしれませんね。

* * *

今回、6回にわたり紹介したこの地域は、一日でも歩いて回れます。
機会がありましたら、どうぞ歩いてみてください。

コラム「聖なる地(4)高縄の道と聖坂」で、時代劇ドラマ「必殺シリーズ」の主題歌「旅愁」の歌詞の一部を書きました。
「♪私の夜空に、星は見えない…」

殉教者たちの夜空に、その瞬間、きっと星が見えていたでしょうね…。

刑場跡のすぐ隣に、大きなクリスマスツリーがありました。
彼らへの、たくさんのプレゼントも…。

ハッピー・ホリデイ!
メリー・クリスマス!

* * *

次回は、「みゆきの道」シリーズに戻ります。

 

 

2019.12.25 jiho

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