徳川御三家・館林徳川家・甲府徳川家・水戸黄門・徳川綱吉・徳川家宣・内藤新宿・新井白石・柳沢吉保・大奥・絵島

 

 

よどみ…(2) 群馬 vs. 山梨


前回コラム「よどみ…(1) 淀橋・内藤新宿・高遠」では、「姿見ずの橋(淀橋)」、「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」という新しい宿場の創設、江戸城 大奥の絵島が信州の高遠(たかとう)に流罪となったことを書きました。
今回は、「内藤新宿」に絡んだ「よどみ」のことを書きたいと思います。


◇暗躍だらけ(1)鳥居家改易

内藤新宿は、江戸時代前期の1700年頃に作られた、新しい宿場です。
幕府は、内藤家の下屋敷の敷地の一部を、「内藤新宿」とするのです。

* * *

江戸幕府が、高遠藩をおさめていた鳥居家を1689年に改易してから、高遠の地は幕府直轄の「天領(てんりょう)」でした。

鳥居家とは、「関ヶ原の戦い」の直前に、伏見城で散ったあの鳥居元忠(とりい もとただ)の子孫です。
京都の「養源院(ようげんいん)の血天井」で有名な、あの元忠の子孫です。
「血天井」の内容は割愛します。

家康が、その死をずっとくやしがった、大切な家臣の鳥居元忠でしたね。
元忠は、家康が幼少の頃に今川家の人質になっていた時からの側近でした。
まさに「竹馬(ちくば)の友」です。

「関ヶ原の戦い」の直前、元忠は、ちょっとした歴史のいたずらでこの世を去ったともいえます。
徳川家と島津家のゴタゴタの余波で犠牲になってしまった気がします。
家康のために、元忠があえて、その身を犠牲にしたというほうが正確なのかもしれません。
家康の「島津家憎し」は、もう取返しのつかないところとなります。
それが「関ヶ原の戦い」で、島津家の当主の兄とは異なり、弟のほうが敵となった理由のひとつです。

このあたりのことは、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ケ原」でも書いています。

* * *

後世の五代将軍 綱吉の時代ともなれば、徳川家と鳥居家の、そんな関係性もどこ吹く風です。
この鳥居家の改易には、鳥居家内部の一族争いが原因でした。
幕府は、一族内部の争いに乗じて、鳥居家を高遠藩から改易しました。
それで、1689年に鳥居家がいなくなった後に、高遠は幕府直轄の天領となっていたのです。

幕府は、全国の大名家の不祥事や騒動を理由に、藩の改易・減封・転封などをつぎつぎに行っていました。
これが逆に、幕府内の権力闘争の火に油を注ぐことにもなります。

* * *

「天領(てんりょう)」とは、幕府直轄地を意味します。
ですが、この「天領」という言葉は、明治新政府が幕府直轄地を指すために使い始めた用語です。
江戸時代には、「御領」「御料」「御料所」「御料地」「料所」「料地」などと呼んでいたようです。
これは、幕府に限らず、天皇家の御料地もそう呼んでいました。
近年は、この「天領」ではなく、「幕領」という呼び方をする場合もありますね。


◇暗躍だらけ(2)母たちの戦い

高遠藩に隣接する甲府徳川家(こうふ とくがわけ)のお話しを、簡単に書きます。
今の山梨県です。
甲府徳川家は、「徳川御三家(尾張・紀州・水戸)」に次ぐ高い家格です。

* * *

尾張徳川家は、今の名古屋です。家康の九男(母はお亀)から始まります。
紀州徳川家は、今の和歌山です。家康の十男(母はお万)から始まります。
水戸徳川家は、今の茨城県の水戸です。家康の十一男(母はお万)から始まります。
優先順位は、尾張、紀州、水戸の順です。

「徳川御三家」は、時代により、その内容が変わりますので、そのことは後で書きます。

ちなみに、二代将軍 秀忠(ひでただ)は、三男(母はお愛)です。
以上の四人の男性の父は、家康です。

母親の「お〇〇」という呼び方は、大奥内での呼称です。
将軍が亡くなり未亡人になると、たいがいは出家して「〇〇院」となります。

* * *

家康の正室と長男は、いろいろあって、家康が処刑しました。
次男の秀康(ひでやす)は、豊臣秀吉の養子(人質)となった後、結城家の養子となります。
家康は、長男を織田信長に、次男を豊臣秀吉に上手く使われてしまいました。
結城家は、越前松平家となります。

三代将軍 家光(いえみつ)は、二代将軍 秀忠と「お江(ごう)」の子です。
お江は、大坂城の淀君(よどぎみ)の妹で、浅井三姉妹の三女です。

* * *

保科正之(ほしな まさゆき)は、秀忠と、側室「お静」のあいだの子です。
家光の異母弟で、隠し子です。
お江の手前、一応、隠されました。

保科家はもともと甲斐の武田家の家臣で、高遠藩の初代藩主です。
高遠の地を知り抜ていた藩主でした。
滅亡した武田家の家臣たちの一部は、家康の臣下となって生き延びていました。

この保科家に隠し子を預け、この子が保科家を継ぎます。
お江の死後、家光はこの異母弟の正之を重用し、会津藩の会津松平家を与えます。

正之は、家光とその子の家綱(いえつな)の治世を大きく支えました。
これが、幕末まで続き、最後まで将軍家の支えとなります。

姉の淀君と同様に、お江の影響力は、江戸城で絶大だったようですね。

それにしても、高遠藩は、何かと幕府のゴタゴタの処理に使われる藩ですね。
そういうご縁のようです。
高い山々に囲まれた信州(長野県)の、この高遠という地です。
何かを隠したときは、高遠なのかもしれませんね。

* * *

さて、この後の時代の将軍後継者選びには、その母たちの影響力が絶大になっていきます。

実は、徳川家の将軍15人の中で、正室が生んだ子は、家康、家光、慶喜の三人だけです。
将軍の正室という立場で生んだ母は、なんと、お江だけなのです。
あとは、側室と養子、各地の徳川家からです。

三代将軍 家光の生母は、浅井三姉妹の三女のお江。
家光の育ての母である乳母(うば)は、明智光秀の重臣の斎藤利光の娘の「春日局(かすがのつぼね)」です。
最強の母たちに囲まれて育った家光でしたね。

戦国時代や江戸時代の武家は、本当の影の権力者は「母」であったと言えなくもありません。

まだ家光の頃までは、戦国時代の終焉直後でもあり、大奥もまだ管理できていたように感じます。
有力な女性たちの人数も、この後の時代よりは少ないです。
というよりも、二代将軍 秀忠には側室が異常に少なかったのです。
前述の正室「お江」の存在が大きかったのだと思います。

この後、大奥では、正室、側室、乳母といった「母」という立場の多くの女性たちの、壮絶な戦いが始まります。
「母」という立場であるかないかは、まったく意味が違っていたのです。

権力、意地、見栄などが入り乱れ、男性陣は、大奥をなかなかコントロールできなくなっていきます。
側室が増えることで、一族は、ますます人数が増え、大きくなって、複雑な関係性になっていきます。

世の中は、戦国時代が終わり、戦がなくなりました。
ですが、江戸幕府周辺は、弓矢の戦闘がないだけで、戦国時代の様相だったといえます。
これは幕末まで続きます。

大家族であればあるほど、後継問題は大きくなるのです。
現代も同じですね。
この時代、弓矢や鉄砲、刀での戦いはありませんが、暗殺?あり、陰謀ありで、それは壮絶でした。
江戸城内での暗殺も、かなりあったと思います。


◇暗躍だらけ(3)繰り返される不審死

四代将軍 家綱(いえつな)は、家光とお楽(宝樹院)の子です。
家綱は、家光の長男です。
次男は夭折(ようせつ)。
家光の三男の綱重(つなしげ)は、甲府徳川家(今の山梨県甲府市)に。母はお夏(順性院)です。
家光の四男の綱吉(つなよし)は、館林徳川家(今の群馬県館林市)に。母はお玉(桂昌院)です。

この両家は、徳川御三家に次ぐ家格で、「両典厩(りょうてんきゅう)」「御両典(ごりょうてん)」と呼ばれます。
「典厩(てんきゅう)」という言葉の説明は割愛します。
三男と四男の、激しいライバル関係が始まります。

みな三代将軍 家光の子ですが、家光には、いろいろな噂があります。
みな、本当の子なのかは、私にはわかりません。

* * *

四代将軍 家綱の子は、死産、流産が続きます。
後継者としての子供をつくれなかった四代将軍 家綱は、死期を悟り、将軍を綱吉に継がせることを決めた直後に亡くなります。
現役の将軍たちの、急病や突然の病死は、そのまま信用していいのかどうか、よくわかりません。

1680年、四男の綱吉が五代将軍になります。
この時の、綱吉と、甲府徳川家の綱重の子である綱豊(つなとよ)とのライバル関係や、権力争いのことは後で書きます。

その後、1704年、甲府徳川家の二代目 綱豊が、やはり子供が残せなかった綱吉の養子となり、家宣(いえのぶ)と改名し、六代将軍となります。

六代将軍 家宣と、側室「お喜世(月光院)」の子が、七代将軍の家継(いえつぐ)です。
1713年に将軍となります。
七代将軍 家継は幼くして夭折します。

そして、紀州徳川家の吉宗(よしむね)が、競争を勝ち抜き、1716年に八代将軍となります。

一応、ここまでが、「内藤新宿」という新しい宿場の誕生の頃までの、大まかな流れです。

ようするに、四代将軍 家綱の後、群馬県の徳川家、山梨県の徳川家、ひとりはさんで、和歌山県の徳川家が、将軍を輩出したということです。

そして、各時代の幕府には、各徳川家やそれについていた藩主たちが、幕府の実権を握ることになります。
将軍だけでなく、この重臣たちも、政権が変わる時期に、不審死、暗殺、失脚、左遷、の連続となります。

地方の徳川家から出世して、江戸幕府の実権を手にする時代でした。
前述の母たちはもちろん、男性の家臣たちも含めて、壮絶な抗争が行われたのも無理はありませんね。

* * *

時代が時代ですから、幼い命が夭折するのもわかります。
ですが、何か不可思議なことが多すぎます。

この頃の正室は、ほぼ京都の公家から嫁ぎます。
正室には子供がまず残りません。
みな不幸に見舞われます。

側室は、農家、商人、下級武士などの家から成り上がってきた者がほとんどです。
正室と側室は、その生い立ちや生き方において、もともと上手くいくはずがありません。

四代将軍 家綱の母のお楽(宝樹院)の実家は農家です。
五代将軍 綱吉の母のお玉(桂昌院)の実家は下級武士?です。
甲府徳川家の綱重の母のお夏(順性院)の実家は職人か商人です。

六代将軍 家宣の正室の近衛ひろ子(天英院)は、後水尾天皇の孫ですが、家宣の側室の「お喜世(月光院)」の実家は、浅草の唯念寺です。
天英院の子供はみな夭折し、月光院の子が七代将軍 家継となります。
家継も、将軍になった後、幼くして亡くなります。

「絵島(江島)生島事件」のことを、次回コラムであらためて書きますが、天英院と月光院のライバル関係も壮絶でした。

こうした、母どうしの抗争の中に、それぞれの将軍候補に付き従っていた男の家臣たちが加わっていきます。
その深い「よどみ」は、まったく先が見えない状態でした。

* * *

綱吉の時代頃は、世の中全体で「捨て子」が大量にあったようです。
病人も、ほぼ放りぱなしの状態でした。
命に対する道徳観が、人々から、かなリ失われていた時代だったようです。
幕府内もそうだったのかもしれません。
だからこそ、「生類憐みの令」が生まれてきます。
この令に関しては、コラム「お盆に思い出す / 東京都中野区(1)」で書いています。


◇暗躍だらけ(4)群馬県

「内藤新宿」までたどり着くお話しの最初は、まず、家光の長男である四代将軍 家綱から、五代将軍 綱吉に代替わりする時のお話しから始めます。

四代将軍 家綱の時の、幕府の大老は酒井忠清(さかい ただきよ)です。
酒井は、前橋藩主(今の群馬県前橋市)です。
酒井忠清は、鎌倉幕府の執権であった北条氏になぞらえられることもあり、その権力は絶大でした。

* * *

大老(たいろう)とは、今の内閣総理大臣のような地位で、実際の政治の最高権力者です。
大老は、井伊家、酒井家、土井家、堀田家の四家の中から就任します。
柳沢吉保は大老格で、綱吉のもうひとりの大老です。
老中(ろうじゅう)は、今の各省庁の大臣のような地位に似ています。

* * *

1680年、四代将軍 家綱の死後、館林徳川家(今の群馬県館林市)の徳川綱吉が五代将軍となります。
綱吉は、三代将軍 家光の四男です。
家綱の弟です。

大老の酒井忠清は、綱吉の将軍就任に反対しましたので、当然、失脚します。
酒井は、皇族から次期将軍を迎えようとしたという説もありますが、よくわかりません。

その後、大老は、井伊家をはさんで、群馬県や茨城県の藩主を務めた堀田正俊(ほった まさとし)が就きます。
綱吉が五代将軍になる際に、安中藩主(今の群馬県安中市)の堀田正俊のチカラは絶大でした。

その後、堀田正俊は、綱吉の書類憐みの令などの政策に反対しており、それが実施される前に暗殺されます。
綱吉の側近の柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)あたりが、動いた可能性があります。
柳沢吉保は、館林徳川家(今の群馬県館林市)の家臣の家の生まれです。
吉保は、その後、幕府の実権を握ります。

* * *

幕府の実権が、前橋藩、安中藩、館林藩の人物に、順に引き継がれていったということです。
すべて今の群馬県です。
今も昔も、群馬県内の政争は、中央の政争と関わりあっているようですね。

なぜ、群馬県なのでしょうか…。
江戸時代のその時は、館林徳川家がそこにあったからなのでしょう。
もとをただせば、家康の頃の最重要家臣の「徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)」のうちの榊原が館林藩(群馬県館林市)をおさめたことに始まると思います。

* * *

他の四天王たちは、井伊は高崎藩(群馬県高崎市)、本多は大多喜藩(千葉県)、酒井は臼井藩(千葉県)を、それぞれおさめました。
江戸には家康と秀忠がいます。
その後、酒井と榊原が関東地域、本多(三重県)と井伊(滋賀県)が関西地域に行き、ふた手に分かれて睨みをきかせました。
ようするに、四天王を使って、東北の伊達家や、京都から西の旧豊臣側の勢力に備えたというかたちです。

前述の前橋藩の出の酒井忠清は、四天王の酒井忠次とは、元をたどれば同じ一族です。

山梨県の武田家から家康のもとにやって来た武士たちのたいはんは、井伊が引き取ります。
もともとは新潟県の上杉勢力は、山形県に追いやります。

江戸防衛を考慮し、今の栃木県の日光に東照宮が建てられます。
日光街道も整備されます。

神奈川県、静岡県、愛知県、山梨県、埼玉県は、もちろん徳川家(松平家)や酒井家などでおさえます。
長野県と新潟県は、古くから家康の信頼が厚い三河出の武家たちでかためます。
真田家は少し事情が違いますが、最終的には群馬県から長野県に戻し、監視下に置きます。
こうして、江戸のある関東、東海、信越地域を固めました。

西日本や東北・北海道の方々には、少しピンとこないかもしれませんが、江戸時代以降のこれらの地域は、徳川の影響が非常に大きい地域でした。
ですから、徳川に関連した史跡もたくさんあります。

* * *

茨城県には、もちろん水戸徳川家がいます。
北関東三県(群馬・栃木・茨城)は、南関東の江戸の将軍家と並んで、幕府の最重要地域でした。

江戸時代の歴史を知ると、群馬県に、政治家の DNA が、現代まで受け継がれていても、不思議はない気もしますね。


◇暗躍だらけ(5)山梨県

さて、もうひとつの徳川家が甲州(今の山梨県)にもありました。

1678年、甲府徳川家は、三代将軍 家光の三男、綱重から、後に六代将軍 家宣となる綱豊(つなとよ)に藩主が代替わりしました。

群馬県館林の綱吉と、山梨県甲府の綱豊は、五代将軍の座を争い、綱吉が将軍の座を勝ち取ったのです。

五代将軍 綱吉と、六代将軍 家宣(綱豊)は、熾烈なライバル関係だったのです。

水戸徳川家の光圀(みつくに)「水戸黄門さま」は、綱豊をおしていました。
同じ北関東勢ではなく、山梨県をおしたということですね。
綱吉と、黄門さまの関係も、いいはずがありません。

* * *

その後、後継者ができない綱吉は、1704年、綱豊を後継者とするために、自分の養子とし、江戸に呼びよせます。
綱吉は、次の将軍の座を餌に、綱豊を養子に、そして江戸に呼び寄せたのかもしれません。

そして綱吉は、側近の柳沢吉保を、元は武田家の甲斐の国であった甲府徳川家に入れるのです。
そして吉保が甲州の実権を握ることになります。

柳沢家は、もともと甲斐源氏の武田家一門の流れをくむ家柄です。
本来の地に戻って来たということになります。
武田家復活にも感じるような出来事ですね。
綱吉が、家宣の勢力をおさえようとして、吉保を甲府徳川家に入れたのは一目瞭然です。

家宣が江戸に来たことで、甲府徳川家は終焉します。
綱吉は、本当に綱豊を後継者にする意志はあったのでしょうか?

綱吉の館林徳川家も、跡継ぎがないため、終焉となりました。

* * *

ここで柳沢吉保と対立し始めるのが、綱豊の家臣たちです。
新井白石は、綱豊の学問の師です。
間部詮房(まなべ あきふさ)も家宣の家臣のひとりです。
この後、白石一派と書いていきますが、間部一派と考えられなくもないです。

私は、この間部を、豊臣秀吉に仕えた石田三成を連想してしまいます。
そのとおり、彼も、他の大名たちには不人気でした。
お城の女性たちとのつながりも、よく似ています。

さて、その頃までの、徳川家の学問分野担当は、林家です。
湯島聖堂、昌平坂学問所…、みな林家の支配です。
綱吉は、林家とべったりです。
白石にとっては、学問の最大のライバルは林家でした。

「綱吉・吉保」vs.「綱豊・白石・詮房」という構図です。
綱豊が家宣となって江戸に来ても、本当に六代将軍になれる保証は何もなかったのかもしれません。

綱吉や吉保の本当の狙いは、将軍後継とは別にあったのかもしれません。


◇暗躍だらけ(6)水戸黄門さま

群馬県の館林徳川家から将軍が生まれたことを、茨城県の水戸徳川家の方々は、どのように考えていたのでしょうか。

家光の四男とはいえ、家格は御両典が下のはず…。
徳川御三家をさしおいて…。

そもそも、徳川御三家は、将軍家がいざという時の家です。
そこから将軍を出さずに、家格が下の「御両典(館林・甲府)」に先を越されたのです。

とはいえ、実際のチカラ関係では、三代将軍 家光の子供であるという事実は、揺るぎない強力な立場です。
水戸徳川家のぶんざいで…と、綱吉は思っていたかもしれませんね。

* * *

実を言うと、この頃の徳川御三家は、徳川宗家、尾張徳川家、紀州徳川家のことでした。
水戸徳川家は含まれていません。
後世に、今の徳川御三家となったようです。
尾張や紀州よりも、低い位置づけの水戸徳川家でした。

* * *

これ以降、こんなことが続くと、徳川御三家はいったい何のためにあるのかわからなくなりますね。
お家の掟(おきて)と、パワーバランスが、くずれてきたのかもしれません。

尾張徳川家や、紀州徳川家は、どのように考えていたでしょうか。

御両典や水戸徳川家にくらべて、尾張(愛知県)と紀州(和歌山県)は、江戸からかなり遠い地で不利なようにも感じます。
人間が江戸にいても、やはり拠点や軍勢が遠いのは、こういう場合には不利かもしれません。

北関東では、水戸徳川家と館林徳川家とのあいだにも、何かあったのかもしれません。
水戸徳川家は、 新興勢力の「御両典(ごりょうてん)」である館林徳川家と甲府徳川家を、将来何か脅威な存在になると感じていたかもしれませんね。

「水戸黄門さま」の水戸光圀(みとみつくに)は、綱吉の五代将軍就任に反対だったともいわれています。

後に、紀州徳川家は、見事な逆襲劇に転じます。

* * *

江戸に距離が一番近いのは、水戸徳川家です。
尾張と紀州の争いもありましたが、水戸徳川家は何をしていたのでしょう。

かなり好奇心が強く、変わった人物で、行動力もある水戸黄門さまです。
大の歴史ファンでもありましたね。歴史をかなり研究していました。
彼の性格からして、黙っていたはずはありません。

水戸徳川家は、五代将軍就任までに、幕府内や大奥に政治力を張り巡らすことができなかったのかもしれませんね。
それとも、自重して、あえて控えめな行動をとったのでしょうか。
尾張と紀州より先に手を出すのを避けたのでしょうか。
あるいは、御両典を相打ちでつぶさせ、その後に存在感を示そうと画策していたのでしょうか。

このままでは、徳川御三家よりも、御両典のほうが家の格が上になるかもしれません。
要は、館林徳川家と甲府徳川家が消滅すればいいのです。
これ以上、徳川家の中に、ライバルをつくられるのを良しとはしなかったと思います。

とはいえ、尾張や紀州と連携するのも難しかったでしょうから、御両典は、そのスキをついてきたのかもしれません。

そうであるなら、水戸家は、まずは、どちらかの御両典の徳川家についていくと見せかけて、相打ちで両者をつぶさせあったほうがいい気もします。
戦国時代の戦術では、敵どうしを戦いあわせて、最終的に、両方を一網打尽にすることもよくありました。
黄門さまなら、戦国時代の戦術も研究していたことでしょう。

水戸黄門さまは、何を考えていたのでしょう…?

黄門さまは、山梨県の甲府徳川家を応援するかたちになりましたが、最終的には、御両典の、館林徳川家と甲州徳川家は、相打ちのように消滅しましたので、水戸徳川家は高笑いだったでしょうね。
もし、どちらかの家がしっかり残っていたら、その後の徳川家の歴史は変わっていたでしょう。

黄門さまにとっては、尾張や紀州から、将軍が生まれるよりは、御両典のほうが、都合がいいと考えたかもしれませんね。
水戸徳川家の存在価値も高まりそうな気がします。
黄門さま、なかなか したたかに見えてきます。
黄門さまは、綱吉の死を見届ける前に亡くなってしまいました。
綱吉は、黄門さまの死の8年後に不審死します。


◇暗躍だらけ(7)徳川御三家

その数年後、徳川御三家の紀州徳川家から、すごい人物が登場してきます。

群馬県vs.山梨県の御両典の戦いは、その後、尾張徳川家(愛知県)vs.紀州徳川家(和歌山県)の様相にもなっていきます。

ある意味、徳川御三家のシステムは、ここでしっかり機能したということかもしれませんね。
もともと、このシステムは、徳川の一族で、何かを補完し合う、皆が話し合いで解決するというものではないのかもしれません。
徳川家の中の由緒ある系統で、もっともチカラのある、頭脳明晰で優れた者が、将軍の座を勝ち取るシステムだということですね。

たしかに、江戸幕府が終わる幕末で、尾張徳川家は薩長に味方して、江戸幕府を終わらせたといっていいかもしれません。
尾張徳川家の行動次第では、あの時に幕府の消滅はなかったかもしれません。
尾張徳川家は、明治の代になって、権力のトップに立ったわけではありませんが、徳川御三家のシステムがなかったら、江戸幕府は消滅しなかったのかもしれません。
尾張徳川家は、江戸時代に一度も将軍を出せませんでしたが、最後の最後に、将軍家を、江戸幕府を、消滅させました。
何とも、皮肉な徳川御三家のシステムですね。

* * *

さて、それにしても、前将軍の影響力が江戸城に残っているということは、古い掟の徳川御三家のシステムよりも有利に働くかもしれませんね。
何かのシステムや決まり事よりも、その時のチカラがものを言うというのは、現代でも同じですし、日本史では当たり前です。
大奥や未亡人たち、そして「母」という立場は、そのために必要ですし、だからこそチカラを持ってきますね。
大奥がチカラを持つのも、よくわかる気がします。


◇暗躍だらけ(8)内藤新宿

話しを、五代将軍 綱吉の時代に戻します。

前述の保科家から鳥居家へ藩主が移っていた高遠藩が、1689年、幕府直轄の天領になったことは、先ほど書きました。
そして天領の高遠藩に、突然、藩主としてやってきたのが内藤家です。
1691年のことです。

その時の将軍は綱吉です。
生類憐みの令が始まって数年後といったところです。
綱吉の権威や人気がどんどん下がってきており、逆に、山梨県の綱豊(家宣)や白石ら一派が盛り返してきた時期だったかもしれません。
家宣が綱吉の養子になるのは1704年です。

「内藤新宿」がつくられたのは1700年頃です。

内藤家が高遠藩主になることと、内藤新宿の創設、綱吉派と家宣派の政争は、何か絡んでいるように感じます。
おそらく、内藤家が高遠藩に来る頃は、この二大勢力が激しく戦っていた時期なのかもしれません。

* * *

内藤家が、綱吉側だったのか、家宣側だったのかはわかりません。
よほど野心があるか、実力を自認していなければ、中級大名が、どちらかにはっきりつくのはリスクがありすぎますね。
強い側につく、勝つ側につく、これは生き残る武家の鉄則です。

* * *

甲府徳川家の綱豊(家宣)の家臣の白石ら一派が、五代将軍 綱吉や、新しい幕府の権力者の柳沢吉保をつぶすための準備をしていたのは間違いないと思います。

新井白石はエリート学者でもあり、それまでの幕府の学者一門の林家とは、ライバル関係でした。
白石は、政権の入れ替えとともに、学者のトップの座も手に入れました。
このあたりのことは、コラム「ダンボみたいに・前編」でも少し書きました。
彼は、とにかく頭がキレたようです。

* * *

一方、綱吉や吉保は、名実ともに、甲府徳川家をつぶす方法を考えていたのかもしれません。

新宿という新しい宿場づくりを利用して、内藤家を味方にし、それを実現しようとしたとは考えられないでしょうか。
あるいは、何かの利権を餌に、内藤家を抱き込もうとしたとは考えられないでしょうか。

綱吉の命令で、内藤家が入った高遠藩は、甲府徳川家の西のお隣です。
甲州街道を使って、甲府の両側から敵を監視したかったのかもしれませんね。
それに、この高遠の地は、二代将軍 秀忠の隠し子を保護していた秘密の場所で、暗躍するにはめっぽう向いている場所です。

内藤家は、綱吉と綱豊の二大勢力の暗躍をつぶさに観察していたことでしょう。
その時、その時で、有利な側、勝ちそうな側につこうと考えても不思議はありません。

* * *

現代でも、大規模カジノ、防災拠点、復興事業、軍事施設、大規模インフラなどの、大型公共工事が、利便性や経済効果だけで、場所が選定されるわけではありません。そこには、必ず政治力がはたらきます。
江戸時代も、「内藤新宿」創設が、商人や町人たちの希望や、街の利便性だけで、決定したとは考えにくい気がします。
まして経済のことなど考えていなかったでしょう。


◇暗躍だらけ(9)柳沢吉保を甲州へ

実は、高遠藩のすぐ北側の諏訪湖には諏訪一族の高島藩(諏訪藩)がいます。
諏訪一族にとって、武田家は因縁の間柄です。
綱吉側は、甲州で甲府徳川家を消滅させ、元の武田家一門の柳沢家を戻す前提として、諏訪の高島藩は気になる存在です。

綱吉らは、内藤家を甲府と諏訪の間に配置して、諏訪の高島藩をけん制しようとした可能性はないでしょうか。

そして1704年、甲府徳川家の綱豊が家宣と改名し、五代将軍 綱吉の養子にしました。
ここで、甲府徳川家が消滅し、柳沢家が甲州の実権を手にしました。
柳沢吉保は江戸にいて、江戸幕府の実権を握っています。

柳沢家が甲州に入るための準備として、内藤家が高遠藩主になったということは考えられないでしょうか?
もちろん、甲州街道で、敵側の甲府徳川家の情報を収集する目的もあったと思います。

「内藤新宿」という新しい宿場をつくるなど、甲州街道付近が急に騒がしくなったのは、将軍の座をめぐって、甲州徳川家と館林徳川家の抗争が急に激しくなってきたからではないでしょうか。
その道が、甲州につながっていたこと、これが「内藤新宿」が今の場所につくられた理由ではないかと感じています。

* * *

実は、同様の手法で、綱豊や白石ら一派が、内藤家を抱き込むことも考えられなくもないです。

その時の、幕府内でのチカラ関係によるとも思います。
白石らは、甲州徳川家を失っても、いずれ将軍家を手中にするので、我々の側に組してほしいと、内藤家に言ったかもしれません。

綱豊が養子となって江戸に来たのにあわせて、吉保が甲州の実権を握ったということは、何を意味しているのでしょう。
何かの取引きがあったのでしょうか。

綱吉は、しぶしぶ綱豊の養子を受け入れ、そのかわりに、吉保の甲州入りを認めさせたのでしょうか。
あるいは、綱吉側の反撃として、吉保を入れたのでしょうか。

内藤家の高遠藩主の座も、何かの取引き材料だったのでしょうか。
いずれにしても、内藤家にはいい話しでしたね。

このあたりの、両者のチカラ関係がよくわかりません。
一進一退だったのでしょうか。

綱豊(家宣)が綱吉の養子になってから、綱吉が死ぬまでの5年間が、両者の最大の戦いであった気もします。

* * *

豊臣秀吉は、姉の長男を後継予定者に決めておいてから、実子を誕生させ、その後継予定者を切腹させましたが、綱吉も、ひょっとしたら同じような戦略を持っていたのかもしれません。あくまで想像です。
この五年間で、綱吉と吉保は、甲府徳川家の勢力を一掃しようと考えていたのかもしれません。

ですが、綱豊(家宣)や白石らは、綱吉が後継者として尚も実子をつくれないこと、「生類憐みの令」、「赤穂浪士討ち入り」に、綱吉への反撃の道を見つけたのかもしれません。

綱吉と吉保は、幕府側とはいっても、弱みをたくさんかかえています。
とにかく、どちらが先に戦いを優位に進められるかですね。


◇暗躍だらけ(10)よどみまくりの五代・六代・七代将軍

赤穂浪士の討ち入りが、1703年です。
綱豊が家宣と改名し、五代将軍 綱吉の養子に入ったのが、1704年です。

この頃には、綱吉の権威と人気はかなり落ちており、家宣側の白石ら一派の勢力はかなり盛り返していたのかもしれません。

甲府徳川家のライバルであった館林徳川家は、綱吉の子が夭折し、絶えてしまい、天領となっていました。
1707年、その館林に、今度は甲府徳川家の人間が入ってきます。
家宣や白石らの復讐・反撃ですね。
ということは、家宣や白石ら一派がかなり優位な状況にあったとも考えられます。
まさに「やられたら、やりかえす」ですね。
ですが、彼らもいずれ、八代将軍 吉宗に追い出されます。

そんな中、1709年、五代将軍 綱吉夫妻が、突然、不審死しました。
一応、ふたりとも、公式には病死です。

この死が、江戸城に「開かずの間(宇治の間)」のお話しを生みます。
このお話しについては、コラム「お盆に思い出す / 東京都中野区(1)」で少し書きました。
日本史では江戸城内での不審死はたくさんありましたが、これは最大の不審死のように思います。

激しい政争の末、この死が最終決着の決定打だったのかもしれません。
家宣は六代将軍となります。

綱吉の死とともに、柳沢吉保の権力も完全に弱体化しました。
家宣の家臣たちの白石や間部らは、ほくそ笑んだことでしょう。

このしばらく後、柳沢家を甲州から完全に追い出し、甲州を幕府直轄領に戻すのは、八代将軍 吉宗です。

* * *

綱吉・吉保の勢力にかわって、家宣の家臣の白石ら一派が幕府の実権を握ります。

元群馬県勢から、元山梨県勢に実権が、見事に移りました。

その後、家宣が病気で亡くなって、幼い年齢の家継(いえつぐ)が将軍になったのが、1712年。
新井白石ら一派は、実権を握りつづけます。

白石らの権力の絶頂期に、前述の「絵島生島事件」が、1714年におきます。
幼い家継が将軍になってから、わずか2年後です。
将軍はいないも同然でしたね。
豊臣秀吉に滅ぼされた北条氏の、歴代お殿様の中のひとり、北条氏綱は言いました。
「勝って兜の緒を締めよ」と。
このお話しは、コラム「旅番組とお城(4)/ どこから見てるの…」に書いてあります。

その後、家継が亡くなって、吉宗が八代将軍になったのが、1716年。
白石ら一派は、吉宗に一掃されます。

綱吉や吉保ら群馬県勢の天下は、29年あまり。
白石や間部ら山梨県勢の天下は、わずか7年あまりでしたね。
吉宗の和歌山県勢がその後、天下をとりました。

こうした歴史の流れは、歴史ファンからしたら、大きな戦闘はありませんが、ゾクゾクする内容です。
権力が、速いスピードで、次々に入れ替わります。
血生臭い壮絶な政争です。

家康・秀忠・家光という将軍たちの幕府創成期の後の、江戸時代中頃の大動乱期のお話しです。

* * *

前回コラム「よどみ…(1) 淀橋・内藤新宿・高遠」で、江戸藩邸のことを書きました。
今回、館林とか甲府とか書いていますが、お殿様はたいがい江戸にいます。
家臣の大勢も江戸にいます。
とにかく、地名のついた徳川家が存在していることが重要な意味を成しています。

* * *

群馬県vs山梨県は、それぞれ一勝一敗といったところでしょうか。
茨城県は山梨県を応援しました。
そして最後は、和歌山県が勝利しました。
でも、みな同じ徳川家内での争いですから、徳川幕府が崩壊するようなところまでは発展しませんでしたね。

歴史的には、こうした御両典のような徳川家の存在は、この後の江戸時代にも、つぎつぎに生まれてきます。
将軍が代替わりするとは、そういうことですね。
権力を代々維持するとは、相当にたいへんなことですね。

ここまで、かなり複雑なお話しを、相当に簡略化し、個人的な想像も含めて書きましたので、内容の誤記述があるかもしれません。
なにとぞ、ご容赦ください。


◇暗躍だらけ(11)幕府と大奥をワナに…

四代将軍の家綱以降、大奥の多くの母たちが、将軍の後継に大きく影響力を持っていたことは、先ほど書きました。
紀州(和歌山県)の吉宗は、八代将軍になるため、大奥を上手く使って準備を早くから始めていたでしょうから、前述の「絵島(江島)生島事件」は、その最中での騒動といえます。

尾張徳川家は、家宣や白石ら一派に近づきすぎたのが、あだとなりましたね。
さすがに紀州の吉宗です。弱みをつくりません。

「絵島(江島)生島事件」は、実は、吉宗の壮大なワナだったのかもしれません…?
吉宗なら、できそうな気がします。

その後、尾張徳川家をさしおいて、紀州徳川家の吉宗は将軍の座を手にし、白石ら一派を一掃します。
大奥も弱体化させます。

和歌山県の紀州徳川家の戦略は、群馬県館林や山梨県甲府の「御両典」の戦略よりも、何か巧妙で、長期的な展望のような気がしますね。
さすが徳川御三家です。

* * *

個人的な印象ですが、もし、家康と吉宗が、同じ時代に生きていたら、同じ一族といえども、家康は、吉宗のチカラを恐れたかもしれません。
私は、家康と吉宗が、何か重なって見えてきます。
吉宗の実際の戦闘の強さはわかりませんが、頭脳戦や調略を得意としたに違いないでしょう。

* * *

吉宗は、将軍になってからも、大奥の勢力をおさえていましたから、ある段階まで大奥を上手く政治利用しておいて、実は第三者を使って、大奥勢力のチカラを削いだともいえますね。
もし、それが本当なら、どうしたら、そんなことが実現できるのでしょうか。

私の個人的な意見ですが、あるひとりの人物の協力か、その人物を利用すれば、それは実現できそうな気がします。
大奥にいた「絵島」です。

そのお話しは次回に書きたいと思います。

* * *

女性を中心とした「大奥」のお話しは、これまでにも、たくさんテレビドラマ化され、大ヒットしましたね。

ですが、男性陣の抗争のお話しは、あまりドラマ化されていません。
せいぜい、吉宗の生涯のドラマくらいで少し取り上げられたかどうか程度です。

男性の場合は、「奥」ではなく、「表」で繰り広げられました。
実は、暗躍は、史料として、たいてい記録されません。
男性の暗躍とは、そうしたものです。
男性にとって、日記は、第三者に読まれる前提ですね。

今、男性を中心としたビジネスドラマがヒットする時代ですね。
江戸時代のこの時代の、男たちの抗争も、作り方によってはヒットするかもしれませんね。
「半沢直樹」や「集団左遷」のように、男性のしっと、ねたみ、うらみ、復讐、反撃などを、上手にスッキリ表現してほしいものですね。

* * *

さて冒頭の写真…、左側は浅間山、右側は富士山です。
両方とも、火を噴いたら相当に怖いです。

それでは、次回はいよいよ、大奥の「よどみ」に突入します。


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コラム「よどみ…(3)大奥・絵島生島事件」へつづく


2019.9.14 jiho

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