イギリス海岸 宮沢賢治
高大連携情報誌 調べもの新聞
『大学受験ニュース』(ブログ版)
【検索の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
【情報の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を記入!!!
イギリス海岸
宮沢賢治
夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処(ところ)がありました。
それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上(きたかみ)川の西岸でした。東の仙人(せんにん)峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截(よこぎ)って来る冷たい猿(さる)ヶ石(いし)川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云(い)へず青白くさっぱりしてゐました。
所々には、水増しの時できた小さな壺穴(つぼあな)の痕(あと)や、またそれがいくつも続いた浅い溝(みぞ)、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆(あし)きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠(かむ)ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊(はくあ)の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。
町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。
それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃(ころ)、たしかにたびたび海の渚(なぎさ)だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺(ぶんすゐれい)の麓(ふもと)まで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって居ました。たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※(ローム)[#「土+母」、102-13]、それから沖積の砂や粘土や何かに被(おほ)はれて見えないだけのはなしでした。
それはあちこちの川の岸や崖(がけ)の脚には、きっとこの泥岩が顔を出してゐるのでもわかりましたし、又所々で掘り抜き井戸を穿(うが)ったりしますと、ぢきこの泥岩層にぶっつかるのでもしれました。
第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとへばその岩には沈んでできた縞(しま)のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のヘりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕(あと)らしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると、いま北上の平原になってゐる所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣(かき)や何か、半鹹(はんかん)のところにでなければ住まない介殻(かひがら)の化石が出ました。
さうして見ますと、第三紀の終り頃、それは或(あるい)は今から五六十万年或は百万年を数へるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしづまった処ではありましたが、やっぱり時々噴火をやったり爆発をしたりしてゐましたので、そこから降って来たのでした。
その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰(たれ)もそれを見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃(くるみ)の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽(たちま)ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫(くゎざんれき)は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧(お)し潰(つぶ)され、埋められ、まもなく又水が被(かぶ)さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません。ところがどうも仕方ないことは、私たちのイギリス海岸では、川の水からよほどはなれた処に、半分石炭に変った大きな木の根株が、その根を泥岩の中に張り、そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでゐました。尤(もっと)もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け、度々の出水に次から次と削られては行きましたが、新らしいものも又出て来ました。そしてその根株のまはりから、ある時私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。それは長さが二寸位、幅が一寸ぐらゐ、非常に細長く尖(とが)った形でしたので、はじめは私どもは上の重い地層に押し潰されたのだらうとも思ひましたが、縦に埋まってゐるのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思はれませんでした。
それからはんの木の実も見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
この百万年昔の海の渚(なぎさ)に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨(おほ)きな波をあげたり、じっと寂(しづ)まったり、誰(たれ)も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水(かんすゐ)の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。
こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。
それにも一つこゝを海岸と考へていゝわけは、ごくわづかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退(ひ)いたりしたのです。それは向ふ側から入って来る猿(さる)ヶ石(いし)川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、それとも全くほかの原因によるのでせうか、とにかく日によって水が潮のやうに差し退きするときがあるのです。
さうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終りあとは三十一日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、私の方から云へばまあさうです、農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、まあ一段落といふそのひるすぎでした。私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。瀬川の鉄橋を渡り牛蒡(ごぼう)や甘藍(キャベジ)が青白い葉の裏をひるがへす畑の間の細い道を通りました。
みちにはすゞめのかたびらが穂を出していっぱいにかぶさってゐました。私たちはそこから製板所の構内に入りました。製板所の構内だといふことはもくもくした新らしい鋸屑(おがくづ)が敷かれ、鋸(のこぎり)の音が気まぐれにそこを飛んでゐたのでわかりました。鋸屑には日が照って恰度(ちゃうど)砂のやうでした。砂の向ふの青い水と救助区域の赤い旗と、向ふのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスヰーデンの峡湾にでも来たやうな気がしてどきっとしました。たしかにみんなさう云ふ気もちらしかったのです。製板の小屋の中は藍(あゐ)いろの影になり、白く光る円鋸(まるのこ)が四五梃(ちゃう)壁にならべられ、その一梃は軸にとりつけられて幽霊のやうにまはってゐました。
私たちはその横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣(いしがき)の下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏(いかだ)もちやうど来てゐました。花城(くゎじゃう)や花巻の生徒がたくさん泳いで居(を)りました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行かうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいゝ所に行かない人はありません。町の雑貨商店や金物店の息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、或(あるい)は裸になって二人三人づつそのまっ白な岩に座ったり、また網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈(むぎわら)帽をかぶったりして歩いてゐるのを見て行くのは、ほんたうにいゝ気持でした。
そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらってゐるのです。殊に一番いゝことは、最上等の外国犬が、向ふから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来たことでした。実にそれはロバートとでも名の附きさうなもぢゃもぢゃした大きな犬でした。
「あゝ、いゝな。」私どもは一度に叫びました。誰(たれ)だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。殊にも行けたら、そしてさらはれて紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあはないなら、フランスかイギリスか、さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。
私たちは忙しく靴(くつ)やずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚(かうしゃう)なもんでした。その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、泥岩の向ふのはづれは高い草の崖(がけ)になって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
それから私たちは泥岩の出張った処に取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスヰミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんたうのオーケストラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度(ちゃうど)そのやうに冷い水は流れたのです。
私たちは泥岩層の上をあちこちあるきました。所々に壺穴(つぼあな)の痕(あと)があって、その中には小さな円い砂利が入ってゐました。
「この砂利がこの壺穴を穿(ほ)るのです。水がこの上を流れるでせう、石が水の底でザラザラ動くでせう。まはったりもするでせう、だんだん岩が穿れて行くのです。」
また、赤い酸化鉄の沈んだ岩の裂け目に沿って、層がずうっと溝(みぞ)になって窪(くぼ)んだところもありました。それは沢山の壺穴を連結してちゃうどへうたんをつないだやうに見えました。
「斯(か)う云ふ溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でせう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦の棒のやうになってゐます。みんなこれです。」
「あゝ、騎兵だ、騎兵だ。」誰(たれ)かが南を向いて叫びました。
下流のまっ青な水の上に、朝日橋がくっきり黒く一列浮び、そのらんかんの間を白い上着を着た騎兵たちがぞろっと並んで行きました。馬の足なみがかげろふのやうにちらちらちらちら光りました。それは一中隊ぐらゐで、鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋を渡って行きました。
「どごさ行ぐのだべ。」
「水馬演習でせう。白い上着を着てゐるし、きっと裸馬だらう。」
「こっちさ来るどいゝな。」
「来るよ、きっと。大てい向ふ岸のあの草の中から出て来ます。兵隊だって誰だって気持ちのいゝ所へは来たいんだ。」
騎兵はだんだん橋を渡り、最後の一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思ふと、またこっちの袂(たもと)から一人がだくでかけて行きました。私たちはだまってそれを見送りました。
けれども、全く見えなくなると、そのこともだんだん忘れるものです。私たちは又冷たい水に飛び込んで、小さな湾になった所を泳ぎまはったり、岩の上を走ったりしました。
誰かが、岩の中に埋もれた小さな植物の根のまはりに、水酸化鉄の茶いろな環(わ)が、何重もめぐってゐるのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです。
「どうしてこの環、出来だのす。」
「この出来かたはむづかしいのです。膠質体(かうしつたい)のことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環と云ひます。実験室でもこさへられます。あとで土壌の方でも説明します。腐植質磐層(ばんそう)といふものも似たやうなわけでできるのですから。」私は毎日の実習で疲れてゐましたので、長い説明が面倒くさくて斯(か)う答へました。
それからしばらくたって、ふと私は川の向ふ岸を見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、互によりかゝるやうにして一本の腕木でつらねられてありました。そのすぐ下の青い草の崖(がけ)の上に、まさしく一人のカアキイ色の将校と大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。
「来た、来た、たうとうやって来た。」みんなは高く叫びました。
「水馬演習だ。向ふ側へ行かう。」斯う云ひながら、そのまっ白なイギリス海岸を上流にのぼり、そこから向ふ側へ泳いで行く人もたくさんありました。
兵隊は一列になって、崖をなゝめに下り、中にはさきに黒い鉤(かぎ)のついた長い竿(さを)を持った人もありました。
間もなく、みんなは向ふ側の草の生えた河原に下り、六列ばかりに横にならんで馬から下り、将校の訓示を聞いてゐました。それが中々永かったのでこっち側に居る私たちは実際あきてしまひました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみに取りついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかり待ちあぐねてしまひました。さっき川を越えて見に行った人たちも、浅瀬に立って将校の訓示を聞いてゐましたが、それもどうも面白くて聞いてゐるやうにも見え、またつまらなさうにも見えるのでした。うるんだ夏の雲の下です。
そのうちたうとう二隻の舟が川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬の蹄(ひづめ)の底の砂利をふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くの夢の中からでも来るやうに、こっち岸の水の音を越えてやって来ました。私たちはいまにだんだん深い処へさへ来れば、兵隊たちはたてがみにとりついて泳ぎ出すだらうと思って待ってゐました。ところが先頭の兵隊さんは舟のところまでやって来ると、ぐるっとまはって、また向ふへ戻りました。みんなもそれに続きましたので列は一つの環(わ)になりました。
「なんだ、今日はたゞ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないやうにも思ひましたが、亦(また)、あんな浅い処までしか馬を入れさせずそれに舟を二隻も用意したのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは養蚕の用もありましたので急いで学校に帰りました。
その次には私たちはたゞ五人で行きました。
はじめはこの前の湾のところだけ泳いでゐましたがそのうちだんだん川にもなれて来て、ずうっと上流の波の荒い瀬のところから海岸のいちばん南のいかだのあるあたりへまでも行きました。そして、疲れて、おまけに少し寒くなりましたので、海岸の西の堺(さかひ)のあの古い根株やその上につもった軽石の火山礫層(くゎざんれきそう)の処に行きました。
その日私たちは完全なくるみの実も二つ見附けたのです。火山礫の層の上には前の水増しの時の水が、沼のやうになって処々溜(たま)ってゐました。私たちはその溜り水から堰(せき)をこしらへて滝にしたり発電処のまねをこしらへたり、こゝはオーバアフロウだの何の永いこと遊びました。
その時、あの下流の赤い旗の立ってゐるところに、いつも腕に赤いきれを巻きつけて、はだかに半纒(はんてん)だけ一枚着てみんなの泳ぐのを見てゐる三十ばかりの男が、一梃(ちゃう)の鉄梃(かなてこ)をもって下流の方から溯(さかのぼ)って来るのを見ました。その人は、町から、水泳で子供らの溺(おぼ)れるのを助けるために雇はれて来てゐるのでしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって実際ひまなもんだから、あゝやって用もない鉄梃なんかかついで、動かさなくてもいゝ途方もない大きな石を動かさうとして見たり、丁度私どもが遊びにしてゐる発電所のまねなどを、鉄梃まで使って本当にごつごつ岩を掘って、浮岩の層のたまり水を干さうとしたりしてゐるのだと思ふと、私どもは実は少しをかしくなったのでした。
ですからわざと真面目(まじめ)な顔をして、
「こゝの水少し干した方いゝな、鉄梃を貸しませんか。」
と云ふものもありました。
するとその男は鉄梃(かなてこ)でとんとんあちこち突いて見てから、
「こゝら、岩も柔いやうだな。」と云ひながらすなほに私たちに貸し、自分は又上流の波の荒いところに集ってゐる子供らの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっち側で、手をあげたり脚を俥屋(くるまや)さんのやうにしたり、みんなちりぢりに遁(に)げるのでした。私どもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが鬼のやうにこはがってゐるのだと思って遠くから笑って見てゐました。
さてその次の日も私たちはイギリス海岸に行きました。
その日は、もう私たちはすっかり川の心持ちになれたつもりで、どんどん上流の瀬の荒い処から飛び込み、すっかり疲れるまで下流の方へ泳ぎました。下流であがっては又野蛮人のやうにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまふと、又昨日の軽石層のたまり水の処に行きました。救助係はその日はもうちゃんとそこに来てゐたのです。腕には赤い巾(きれ)を巻き鉄梃も持ってゐました。
「お暑うござんす。」私が挨拶(あいさつ)しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、
「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸(ちょっと)来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰(たれ)かが溺(おぼ)れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。だんだん談(はな)して見ると、この人はずゐぶんよく私たちを考へてゐて呉(く)れたのです。救助区域はずうっと下流の筏(いかだ)のところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにも行かず、時々別の用のあるふりをして来て見てゐて呉れたのです。もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿(ばか)げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。全くこの人は、救助区域があんまり下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及ばず、それにも係はらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、殊に小さな子供らまでが、何べん叱(しか)られてもあのあぶない瀬の処に行ってゐて、この人の形を遠くから見ると、遁げてどての蔭や沢のはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を雇ふかさうでなかったら救助の浮標(ブイ)を浮べて貰(もら)ひたいと話してゐるといふのです。
さうして見ると、昨日あの大きな石を用もないのに動かさうとしたのもその浮標の重りに使ふ心組からだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさへ、今年になってから二人も救ったといふのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないやうになるかわからないといふのです。何気なく笑って、その人と談(はな)してはゐましたが、私はひとりで烈(はげ)しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺(おぼ)れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした。
さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。
その時、海岸のいちばん北のはじまで溯(さかのぼ)って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。
「先生、岩に何かの足痕(あしあと)あらんす。」
私はすぐ壺穴(つぼあな)の小さいのだらうと思ひました。第三紀の泥岩で、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳(ほにゅう)類の足痕のあることもいかにもありさうなことだけれども、教室でだって手獣(しゅじゅう)の足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合(ぐあひ)に見えたんだと思ひながら、あんまり気乗りもせずにそっちへ行って見ました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまひました。みんなも顔色を変へて叫んだのです。
白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥(は)がされて、浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつ蹄(ひづめ)の痕のある大さ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱(ちんでん)してあたりの岩から実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまゝ保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとらうと思ひました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまく行きませんでした。私は「あした石膏(せきかう)を用意して来よう」とも云ひました。けれどもそれよりいちばんいゝことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまゝ学校へ持って行って標本にすることでした。どうせ又水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構はないで置いてもすぐ壊れることが明らかでしたから。
次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯(か)う書いて置きました。
八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
除草、追肥 第一、七組
蕪菁(かぶら)播種(はしゅ) 第三、四組
甘藍(かんらん)中耕 第五、六組
養蚕実習 第二組
(午后イギリス海岸に於(おい)て第三紀偶蹄(ぐうてい)類の足跡(そくせき)標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)
そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。私はあの救助係の大きな石を鉄梃(かなてこ)で動かすあたりから、あとは勝手に私の空想を書いて行かうと思ってゐたのです。ところが次の日救助係がまるでちがった人になってしまひ、泥岩の中からは空想よりももっと変なあしあとなどが出て来たのです。その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました。
それを読んでしまふかしまはないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。
丁度この日は校長も出張から帰って来て、学校に出てゐました。黒板を見てわらってゐました、それから繭を売るのが済んだら自分も行かうと云ふのでした。私たちは新らしい鋼鉄の三本鍬(さんぼんぐは)一本と、ものさしや新聞紙などを持って出て行きました。海岸の入口に来て見ますと水はひどく濁ってゐましたし、雨も少し降りさうでした。雲が大へんけはしかったのです。救助係に私は今日は少しのお礼をしようと思ってその支度もして来たのでしたがその人はいつもの処に見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石を掘りはじめました。気がついて見ると、みんなは大抵ポケットに除草鎌(ぢょさうがま)を持って来てゐるのでした。岩が大へん柔らかでしたから大丈夫それで削れる見当がついてゐたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせはしくそれをとめて、二つの足あとの間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取らうとしてゐる人もありましたし、も少しのところでこはした人もありました。
まだ上流の方にまた別のがあると、一人の生徒が云って走って来ました。私は暑いので、すっかりはだかになって泳ぐ時のやうなかたちをしてゐましたが、すぐその白い岩を走って行って見ました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがひ、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退(ひ)いたらまだまだ沢山出るだらうと思はれました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命掘り取ってゐるのを見ますと、こんどはそこは英国でなく、イタリヤのポムペイの火山灰の中のやうに思はれるのでした。殊に四五人の女たちが、けばけばしい色の着物を着て、向ふを歩いてゐましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に照って来たからでした。
いつか校長も黄いろの実習服を着て来てゐました。そして足あとはもう四つまで完全にとられたのです。
私たちはそれを汀(なぎさ)まで持って行って洗ひそれからそっと新聞紙に包みました。大きなのは三貫目もあったでせう。掘り取るのが済んであの荒い瀬の処から飛び込んで行くものもありました。けれども私はその溺(おぼ)れることを心配しませんでした。なぜなら生徒より前に、もう校長が飛び込んでゐてごくゆっくり泳いで行くのでしたから。
しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも申しましたやうにこれは昨日のことです。今日は実習の九日目です。朝から雨が降ってゐますので外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ばうと思ふのです。これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。天気が悪くてよく乾かないで困ります。麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。けれども全くそんな風に考へてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。
(一九二三、八、九、)
--------------------------------------------------------------------------------
底本:「新修宮沢賢治全集 第十四巻」筑摩書房
1980(昭和55)年5月15日初版第1刷発行
1983(昭和58)年1月20日初版第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
ファイル作成:
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
ポータルサイト 【検索の達人】 【情報の達人】 ブログで情報を入手!
検索の達人
情報の達人
【検索の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
オープンキャンパス(大学・高校・中学)・イベントの取材にお伺いします。(無料)
当日のイベント情報を
高大連携(こうだい・れんけい)情報誌「大学受験ニュース(ブログ版)」にて
全国に発信します!!!
【全国の学級新聞(A3の2つ折)をお作りします】
【大学受験問題集(現代国語・古文・日本史・世界史)の版下をお作りします】
【紙媒体の高大連携情報誌「大学受験ニュース」】もお作りします。
先生が、教室で、子供たちに学級新聞を配りだすと、教室の空気が活気づきます。
毎週金曜日の13時、校了。翌週の月曜日の午前中に学校に届きます。
(全国のオープンキャンパスにて、受験生に配布します。)
見本誌(紙媒体)をお送りします。(無料)
(A4の2つ折:A5の4P)共通記事(1~3P)と▲▲▲大学記事(4P)で構成。
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 ▲学部(▲学部を持つ日本の大学)
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 ▲▲県(▲▲県の大学一覧)
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 ▲▲▲大学のオープンキャンパス
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 取得資格の一覧(▲▲▲大学・▲学部)
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 名作文庫(▲▲県)▲▲▲大学
調べもの文庫 大学受験の基礎知識 ▲▲▲大学への道 (入試日程・資料請求)
【正会員募集!】
調べもの新聞編集室では、
隔月刊「大学受験ニュース」(紙媒体)の発行と
ブログ版高大連携情報誌(「大学受験ニュース」毎日更新)の全国発信をしております。
正会員(大学院・大学・高校・:教育関係出版社) 年会費(18000円)
高大連携情報誌「大学受験ニュース」 早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞 通信員 (横浜)中村惇夫(前橋)宮正孝(大阪)西村新八郎
236-0038 横浜市金沢区六浦南2-27-18-201 調べもの新聞編集室
nakamurayoshio@gmail.com
TEL&FAX 045-701-6113
【高大連携情報誌「大学受験ニュース」(ブログ版)発信中!
【通信員募集中!】
神奈川県立横浜翠嵐高等学校
高大連携情報誌 調べもの新聞
『大学受験ニュース』(ブログ版)
【検索の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
【情報の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を記入!!!
【神奈川県立横浜翠嵐高等学校】
神奈川県立横浜翠嵐高等学校
過去の名称 神奈川県立第二横浜中学校
神奈川県立横浜第二中学校
神奈川県立横浜第二高等学校
国公私立の別 公立学校
設立年月日 1914年(大正3年)5月11日
創立記念日 5月11日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
定時制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制
高校コード 14103J
所在地 〒221-0854
神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢南町1-1
電話番号 045-311-4621
FAX番号 045-312-9142
外部リンク 公式サイト
■テンプレート/■ノート
校内
校章バッジ。桜の花に朝日(桜花旭光)の意匠。神奈川県立横浜翠嵐高等学校(かながわけんりつよこはますいらんこうとうがっこう)は、神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢南町にある県立高等学校。
目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 教育
3.1 大平凡主義
3.2 自由と個性を尊重
3.3 特色
4 行事
5 著名な出身者
6 関連項目
7 外部リンク
[編集] 概要
神奈川県の公立高校の中では有数の進学校。かつては、横浜東部学区に属していた(2005年度に学区は撤廃)。独自入試や翠嵐オリジナル新時程を導入するなど、先進的な試みも取り入れられ、大学進学を希望する生徒が広く集まる。校則は比較的緩く、生徒の自律と個性の伸張を促す。
校舎は、横浜駅より徒歩20分。横浜港を見下ろす丘の上に建つ。近くには、Jリーグに加盟する横浜F・マリノスと横浜FCがホームスタジアムとする三ツ沢公園球技場がある(ちなみに、創立当初、初代校長・滝沢又市の方針により野球部を作らず、サッカー部の育成に力を入れた。現在は野球部もある)。
校名は、現在も使用されている旧制中学時代からの校歌の冒頭「美なりや翠嵐」からとられた。「翠嵐」とは、山は緑で吹く風は香しく麗しいという意味の漢語的表現。樹木が青々と茂っている様子をいう。同窓会は翠嵐会(すいらんかい)。
[編集] 沿革
1913年3月17日 - 神奈川県立第二横浜中学校が設立認可される。
1914年5月11日 - 神奈川県立第二横浜中学として開校(旧制県立中学としては5番目の開校)。この日を創立記念日とする。
1916年5月7日 - 校舎建築落成式を挙行。
1923年4月1日 - 神奈川県立横浜第二中学校と改称。
1930年9月21日 - 開校10周年記念として、図書館とプールが落成。
1934年5月11日 - 開校20周年記念祭を挙行。
1945年8月16日 - 終戦と同時に、生徒昇降口、グラウンド、プール、講堂がGHQに接収される。
1948年4月1日 - 神奈川県立横浜第二高等学校と改称。
1950年4月1日 - 神奈川県立横浜翠嵐高等学校と改称。男女共学となる。小学区制(1学区に1校)が施行される。
1951年 - 2学期制を導入。
1954年 - 神奈川県立横浜平沼高等学校との間で、「平沼・翠嵐体育対抗戦」(通称「翠平戦」)が始まる。
1954年5月11日 - 開校40周年記念式を挙行。
1955年12月27日 - GHQによる接収が解除される。
1956年3月29日 - 体育館兼講堂が落成。
1958年10月1日 - グラウンドの整地が完了。
1961年12月18日 - 第1棟コンクリート造3階建て校舎が落成。
1963年 - 横浜市内に中学区制が施行される。横浜北部学区に属する。同学区には、本校のほか、鶴見、川和、市立東の各校が属する。
1964年4月1日 - 定時制普通科を設置。
1964年5月11日 - 開校50周年記念式を挙行。
1967年10月31日 - 第2棟(HR教室)コンクリート造4階建て校舎が落成。
1968年3月30日 - 柔剣道場が落成。
1968年12月3日 - 第3棟(特別教室)コンクリート造3階建て校舎、給食室が落成。
1972年3月28日 - 部室(クラブハウス)が完成。
1980年 - 最後の「翠平戦」。途中二度の中断をはさむ25戦で、翠嵐の13勝12敗だった。
1981年 - 新たな中学区制を実施する。本校は横浜東部学区に属する。
1984年6月5日 - 開校70周年記念式を挙行。
1989年10月31日 - アメリカ合衆国メリーランド州のエレノア・ルーズベルト高校と姉妹校協定書調印。
1993年3月26日 - プールが落成。
1994年10月29日 - 開校80周年記念式を挙行。
2004年11月26日 - 開校90周年記念式を挙行。
2005年 - 学区制を廃止。
2007年 - 県教育委員会から「学力向上進学重点校」10校のうちの1校に選ばれる。
[編集] 教育
[編集] 大平凡主義
校訓・校是は大平凡主義。初代校長・滝沢又市が、当時の修身の授業で「平凡主義で世の中を渡るよう」教えたことによる。その意味するところは、
中道を重んじ極端突出した行動をしない
当たり前のことを当たり前にできることを目指す
など、一定しない。
[編集] 自由と個性を尊重
翠嵐は、自由と個性の尊重を教育方針としており、校風もこれに倣う。この校風と上に示された校訓・校是は、一見矛盾するが、いずれも確かに翠嵐および翠嵐生に当てはまる。
[編集] 特色
アメリカ・メリーランド州のエレノア・ルーズベルト高校(en:Eleanor Roosevelt High School)と柿妹校協定を結んでおり、例年6月にはエレノア・ルーズベルト高校の生徒が翠嵐高校を訪問する。また、例年3月には、翠嵐の生徒がエレノア・ルーズベルト高校を訪問する。
近所にある神奈川朝鮮中高級学校との交流会が行われる。
行事が盛んで、9月の終わりの体育祭も3年主体で行われる。
定時制は自校方式3修制を行い校内の授業で3年でも卒業できるシステムを取り入れている。
[編集] 行事
陸上競技大会:例年5月頃に、三ツ沢競技場で行われる。1年生にとって最初の行事。
球技大会:前期と後期の2回行われる。前期は各学年ごとに、後期は学年の枠を取り払って行われる。
翠翔祭(文化祭):6月に行われる。クラスや部活動、同好会、気の合う仲間単位で様々な催しが繰り広げられる。入学、進級してからすぐに企画せねばならないため、そこで団結できるかどうかが、1年間のクラスの雰囲気を決定する傾向にある。
芸術祭:秋に行われる。自由参加に近く、参加者数が少ないと正式行事にならない。
体育祭:例年9月末頃に行われる、横浜翠嵐高校最大の行事。クラス・学年にかかわらず、誕生日ごとに緑組(春生まれ)・赤組(夏生まれ)・黄色組(秋生まれ)・白組(冬生まれ)に分かれ、様々な競技で得点を争う。4年連続最下位ならば、色替えが強制される。最も盛り上がりを見せるのは、1年男子が仮装(女装)して踊る「可愛子ちゃん(通称:カワイコ)」である。さらに現在は各色からさらに5人選抜されて「カッコイイ」と呼ばれるものがある。彼らは女装することはなく、「可愛子ちゃん」の曲で踊った後、かっこいいダンスのメインとして登場する。また、各組が製作する「パネル」は、教室ほどの大きさの板に割り箸を使って点描される。完成度は毎年高くなっており、体育祭としての結果に関わらず3年生にとって忘れられない夏になる。「可愛子ちゃん」は1・2年生が主体となり、「パネル」は3年生が主体となる。「パネル」を立てるためには「穴掘り隊」、「プロジェクト」などが編成される。「野外劇場(通称:野劇)」と呼ばれる演劇も体育祭三大種目の一つであるが、一部の部活を中心に編成される為にいまいち脚光を浴びずにいる。いずれも祭の2ヶ月以上前から、放課後を使って練習・製作される。
1954年から1980年までは、神奈川県立横浜平沼高等学校との体育対校戦、翠平戦(すいへいせん)が行われた。25戦13勝12敗と翠嵐の勝ち越しのまま、20年以上も開催されていないが、各部活独自に翠平戦を開催しているところもある。
[編集] 著名な出身者
五十音順
愛河里花子(声優)
青木雨彦(コラムニスト)
赤塚行雄(評論家)
浅妻章如(立教大学専任講師)
安藤次男(立命館大学教授)
五十嵐洋一(元プロ野球パリーグ審判部副部長)
生島治郎(直木賞作家)
伊東玉美(白百合女子大学教授)
伊東正夫(東京海洋大学教授)
牛島辰彌(運輸事務次官)
遠藤雅伸(ゲームデザイナー)
大貫憲夫(横浜市会議員)
大前研一(評論家)
大森美香(脚本家)
岡村仁美(TBSアナウンサー)
岡奈理子(山階鳥類研究所鳥学研究室長)
冲中重雄(東大医学部教授、虎ノ門病院院長、文化勲章受章)
奥井規晶(オクイ・アンド・アソシエイツ会長)
尾関之康(電気通信大学准教授)
小田嶋忠宏(詩人)
川幡穂高(東京大学教授)
菊地一嘉(イニシャルサイト社長)
草柳大蔵(評論家)
國谷知史(新潟大学教授)
駒井健一郎(日立製作所第3代社長、東京帝国大学工学部卒)
坂井豊(弁護士)
桜井秀俊(真心ブラザーズ)
佐藤和歌子(ライター)
鮫島正洋(弁護士、弁理士)
汐見朝子(漫画家)
杉浦隆(NHKアナウンサー)
鈴木恒夫(衆議院議員、第10代文部科学大臣)
斗鬼正一(江戸川大学教授)
高木東六(作曲家)
田辺光彰(彫刻家)
田辺とおる(オペラ歌手)
土門拳(写真家)
那谷屋正義(参議院議員)
中谷有里 旧芸名:細田あかり(女優)
新浪剛史(ローソン社長)
畑野鎮雄(横浜市会議員)
葉月あこ(アイドル)
浜田昌良(参議院議員、元外務大臣政務官)
平田毅(NHKアナウンサー)
深谷賢治(京都大学教授)
松井泰弘(NHKアナウンサー)
真水康樹(新潟大学教授)
間宮敦(東京六大学野球・東大選手・首位打者/「東大のイチロー」)
間宮聰夫(順天堂大学大学院客員教授)
三木聡(放送作家、映画監督)
水谷修(夜回り先生)
水原紫苑(歌人)
宮原昭夫(芥川賞作家)
村田真一(上智大学教授)
森田哲弥(一橋大学名誉教授)
山田徹(慶應義塾大学教授)
山中直明(慶應義塾大学理工学部教授)
山本茜(騎手)
横澤彪(吉本興業相談役、後千葉県立千葉高等学校に編入)
吉原訓(横浜市会議員)
和田卓生(横浜市会議員)
わたりとしお(ダンサー)
[編集] 関連項目
学校記事一覧
神奈川県高等学校一覧
旧制中学校
ナンバースクール
[編集] 外部リンク
神奈川県立横浜翠嵐高等学校 公式サイト
翠嵐会お知らせページ
この項目「神奈川県立横浜翠嵐高等学校」は、神奈川県の学校に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。(P:教育/PJ学校)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%BF%A0%E5%B5%90%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
" より作成
カテゴリ: 横浜市の公立高等学校 | 神奈川区 | 神奈川県の学校に関するスタブ
最終更新 2008年10月9日 (木) 02:53。
【神奈川県立湘南高等学校】1933年:北原白秋作詞、山田耕筰作曲による校歌発表
高大連携情報誌 調べもの新聞
『大学受験ニュース』(ブログ版)
【検索の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
【情報の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を記入!!!
【神奈川県立湘南高等学校】
神奈川県立湘南高等学校
過去の名称 神奈川県立湘南中学校
国公私立の別 公立学校
設立年月日 1920年
共学・別学 男女共学
課程 全日制
定時制
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制
高校コード 14153E
所在地 〒251-0021
神奈川県藤沢市鵠沼神明5-6-10
電話番号 0466-26-4151
FAX番号 0466-28-0020
外部リンク 公式サイト
■テンプレート/■ノート
内庭
校舎内は船内のイメージ
冷暖房完備の多目的ホール神奈川県立湘南高等学校(かながわけんりつ しょうなんこうとうがっこう)は、神奈川県藤沢市鵠沼神明に所在する公立高等学校。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
2.1 略歴
2.2 年表
3 全日制
3.1 部活動・行事
3.2 教育課程
3.3 入学試験
4 定時制
5 通信制
6 施設
7 校歌
8 同窓会
9 高校関係者一覧
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 概要
県下有数の公立進学校である。かつては、県立浦和・県立千葉と並んで首都圏の公立高校御三家と称されていたこともあった。略称は「湘南(しょうなん)」で、単に「湘南」といえば湘南高校を指す場合も多い。受験や体育選手育成に偏ることなく生徒の自主性を重んじ、文武両道を校是とする。多目的ホールをはじめ神奈川の公立高校としては屈指の設備を持ち、部活動加入率は兼部を含めると10割を超す。最寄り駅は藤沢本町駅で、ターミナル駅の藤沢駅も徒歩圏内である。全日制のほか、定時制も設置されている。(通信制は平成19年度をもって神奈川県立横浜平沼高等学校の通信制と統合し、神奈川県立横浜修悠館高等学校に移管)
[編集] 歴史
[編集] 略歴
湘南地方には海軍高級士官の子弟が多いため早くから県立中学の設置が待望され、神奈川県下6番目の旧制中学校として神奈川県立湘南中学校が設置された。初代校長は、新潟県女子師範学校(現在の新潟大学教育学部の前身校のひとつ)校長から赴任した赤木愛太郎で、27年間の長きにわたって校長を務めた。戦前は第一高等学校などの難関旧制高等学校などとともに、日本中の秀才が集まった海軍諸学校(海軍兵学校、海軍経理学校、海軍機関学校)や陸軍士官学校にも多数の合格者を輩出した。特に、海軍兵学校の予備校であった。このため戦後連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により赤木校長は教職を追放されるが、構内には赤木校長の像や赤木苑があり、学年ごとに氏の名前にちなむ赤緑藍の3色(赤黄藍(アカギアイ)とする予定だったが、物資不足で黄色の色合いがよく出ず緑に変えられたという)に色分けされるなど現在もその影を留めている。
野球部が甲子園に3回出場し、1回は全国制覇する一方、東京大学など難関大学に多数の合格者を輩出する文武両道の進学校として、その名をとどろかせてきた。近年は公立高校の学区細分化などにより、進学実績に影響を受けてきたが、学区制の撤廃や独自入試が導入されるなどの入試改革が着々と進んでいる。日比谷高校のような進学実績での復活を期待する声は大きく、今後の動向が注目されている。2007年に神奈川県教育委員会から「学力向上進学重点校」に選ばれた。
[編集] 年表
1920年:文部省告示第三九六号をもって神奈川県立湘南中学校設立認可(県下6番目の旧制中学)
1921年:初代校長として新潟県女子師範学校校長であった赤木愛太郎が赴任する
1922年:三位一体(学校・家庭・生徒)の訓育目標と三位一体(知育・体育・徳育)の教育目標を定める
1925年:県下中等学校剣道大会にて剣道部初の優勝
1933年:北原白秋作詞、山田耕筰作曲による校歌発表
1938年:体育優秀校として文部大臣より表彰
1946年:サッカー部、第一回国民体育大会で全国優勝
1948年:学制改革により神奈川県立湘南高等学校となる
1948年:定時制高等学校ならびに通信教育部の設置
1949年:全国高等学校野球選手権大会(甲子園)で全国優勝
1950年:男女共学となる 学区制発足、鎌倉湘南学区に属す 創立30周年記念式典に当時の天野貞祐文部大臣が出席
1956年:埼玉県立浦和高等学校の要請に応え、浦和高等学校定期戦が始まる
1981年:新学区制実施、鎌倉藤沢学区に属す(茅ヶ崎地区が学区から外れる)
2001年:創立80周年記念行事を実施
2005年:学区制廃止
2007年:県教育委員会から進学重点校に指定される
2008年3月:通信制は独立校に移管
[編集] 全日制
[編集] 部活動・行事
野球部は1949年に全国高等学校野球選手権大会で全国優勝した。当時西日本が圧倒しており、深紅の大優勝旗が33年ぶりで箱根の山を越える「箱根越え」と言われた。選抜高等学校野球大会に2回出場。サッカー部は1946年に全国優勝、1988年に全国ベスト16。筑波大学附属高等学校|筑波大附属高校]]と定期戦を行っている。吹奏楽部は1952年に全国吹奏楽コンクールで全国優勝した。[[ここ数年は硬式テニス部や陸上競技部等の活躍が目立つ。珍しい運動部としてはフェンシング部がある。部活動以外にも、体育祭、駅伝大会、文化祭等の行事が盛んに行われている。
埼玉県立浦和高校とは、交流を行っている。1956年から2002年までは、毎年5月中旬に、湘南浦和対抗定期戦(湘南では、浦高戦。浦和では湘南戦)として、毎年交互に往来して運動部=対抗戦、文化部=交流会を開催してきた。湘南新宿ライン運行開始によりイベント時に団体電車を走らせることが困難となって、2002年の第46回を最後に廃止されるに至ったものの、部単位の交流は続いている。
[編集] 教育課程
前期・後期の2期制で、70分授業を採用している。第2学年まではクラスごと、第3学年から文理の各コース別の授業になる。 いわゆる校則は存在せず、規則といえるものはバイク通学の禁止(免許取得は可)程度である。アルバイトも可能。制服は男子は黒の詰襟(ただし、ボタンは本校専用のものを着用)、女子は紺のブレザーが「標準服」と規定されているが、細かな形までは指定されていない。授業の進度が速いために自主学習が求められる。学制改革後まもなく男女共学校となった年の記念式典には、高等学校として異例なことに当時の文部大臣が出席し、女子教育への期待を述べた。近年は女子が生徒のおよそ半数を占める。
[編集] 入学試験
かつては横浜国立大学附属鎌倉中学校や同附属横浜中学からの入学者が突出して多い時代もあったが、1976年に起きた横浜国立大学附属鎌倉中学校内申書事件以降、同附属中学校からの入学者は激減した。
1981年の学区細分化などにより、全国公立高校トップの進学実績は失われているが、学区制は2005年に廃止され、再び広範囲の中学校から生徒が集まるようになってきており、進学面での復権が注目されている。絶対評価の導入もあり、前期選抜では内申点が満点であっても不合格者が出ている。後期選抜では2007年度入試より自校作成問題を使用(独自入試)しており、内申点に加えて高い学力が要求される。
定時制
入学定員は全日制の約半分であり、規模は大きくなりつつある。新校舎に建て替えた際に全日制と定時制の使用場所を区切ったが、定時制の規模拡大に伴って全日制の教室も一部使用するようになった。4年制であるが、通常よりも早い15時30分からの授業を受けることにより3年間で卒業することも可能。2009年度より単位制に改編される。
[編集] 通信制
通信制課程は平成19年度末をもって横浜平沼高等学校の同課程と統合され、横浜修悠館高等学校に移管された。以下の記述は、かつての湘南高校通信制の記録である。
高校通信教育を実施する特性上、門戸が広く、同校全日制の倍以上の生徒を擁し(後述する少年工科学校からの集団入学を除いても全日制のそれより多い。)、その年齢や職業(平日は仕事をしている生徒もいる。)は様々である。面接授業(スクーリング)は日曜日と火曜日、そして木曜日(木曜日は自習による。)に主に定時制の教室を利用して行われる他、学校周辺のウォーキングや、各種教育・研究施設の見学などといった形で特設スクーリングが行われる。
又、運動部が非常に強く、軟式野球部が全国制覇をしている。
なお、本課程には個人のほか陸上自衛隊少年工科学校の生徒(陸上自衛隊生徒)が集団入学し、授業に際しては本課程の担当教員が少年工科学校のある、武山駐屯地に出向いて授業を行う。その為、本課程一般入学の生徒と少年工科学校の生徒が同じ教室で授業を受けると云うことは無い。
[編集] 施設
校歌に謳われるように、校舎は丘の上に建つ。蔵書県内随一を誇るドーム型の図書館・自習室、多目的ホール、学生食堂、購買部、セミナーハウス、2つの体育館、プール、シンボルタワーなど施設が充実している。
当初計画では丘の下にあるグラウンド上に新校舎を建築、旧校舎所在地はグラウンドとして整備される予定であったが、卒業生や付近住民からの反対によって、校舎建設地は旧校舎の建っていた丘の上に変更された。
[編集] 校歌
校歌は、北原白秋作詞、山田耕筰作曲。
一
秀麗の富士を 高く 西に仰ぐ この丘
巍々たり 我が校 風も薫れリ
清明 ここに学ぶ 我等
眉わかく 常に純なり
天与の稟質 磨け我と
開けよこの窓 すべて光らむ
二
湘南の空は 広く 雲雀あがる この庭
集えよ 我が師と 声は和したり
協同 ここに励む 我等
松蒼く 人は正なり
自由の研学 思え知徳
努めよ普く 絶えず求めむ
三
澎湃と満つる 潮は 相模灘ぞ この海
騰げよや 我が士気 波も頻吹けり
剛健 ここに勢ふ 我等
胆大に 意図は荘なり
立身報国 期せよ友よ
響かせかの雲 共に興らむ
[編集] 同窓会
「湘友会誌」創刊号(1932年11月1日発行)。反戦記事により同3日発禁処分(内務省「出版警察報」51号14頁)。LC所蔵。名称は「湘友会」。1926年(大正15年)3月4日設立。各地方や海外、クラブ別、企業別の支部も存在する。
[編集] 高校関係者一覧
神奈川県立湘南高等学校人物一覧を参照。
[編集] 関連項目
学校記事一覧
神奈川県高等学校一覧
旧制中学校
陸上自衛隊少年工科学校
[編集] 外部リンク
湘南高校紹介
神奈川県立湘南高等学校
神奈川県立湘南高等学校・湘友会
神奈川県立湘南高等学校・サッカー部
神奈川県立湘南高等学校・ジャグリング同好会
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
" より作成
カテゴリ: 学校記事 | 藤沢市の公立高等学校
最終更新 2008年9月27日 (土) 13:39。
高大連携情報誌 調べもの新聞『大学受験ニュース』(ブログ版)
★【検索の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
【情報の達人 ■■■■】 ■■■■に文字を記入!!!
【検定試験の達人】 ■■■■に文字を入力!!!
【神奈川県高等学校一覧】
神奈川県高等学校概要(H18年度) 総数 253校・1分校(H20年度) 国立 0(H18年度) 公立 171校・1分校(H20年度)
私立 82(H18年度) 県教育委員会所在地 〒231-8588 神奈川県横浜市中区日本大通1 電話番号 045-210-8034
FAX 045-210-8920 公式サイト 神奈川県教育委員会横浜市教育委員会川崎市教育委員会横須賀市教育委員会
神奈川県高等学校一覧(かながわけん こうとうがっこういちらん)は、神奈川県の高等学校一覧。
目次 [非表示]
1 国立高等学校 2 県立高等学校 2.1 横浜市 2.1.1 鶴見区 2.1.2 神奈川区 2.1.3 西区 2.1.4 中区 2.1.5 南区 2.1.6 保土ヶ谷区 2.1.7 磯子区 2.1.8 金沢区 2.1.9 港北区 2.1.10 戸塚区 2.1.11 港南区 2.1.12 旭区 2.1.13 緑区 2.1.14 瀬谷区 2.1.15 栄区 2.1.16 泉区 2.1.17 青葉区 2.1.18 都筑区 2.2 川崎市 2.2.1 川崎区 2.2.2 中原区 2.2.3 宮前区 2.2.4 多摩区 2.2.5 麻生区 2.3 横須賀市 2.4 平塚市 2.5 鎌倉市 2.6 藤沢市 2.7 小田原市 2.8 茅ヶ崎市 2.9 逗子市 2.10 相模原市 2.11 三浦市 2.12 秦野市 2.13 厚木市 2.14 大和市 2.15 伊勢原市 2.16 海老名市 2.17 座間市 2.18 南足柄市 2.19 綾瀬市 2.20 高座郡 2.20.1 寒川町 2.21 中郡 2.21.1 大磯町 2.21.2 二宮町 2.22 足柄上郡 2.22.1 大井町 2.22.2 山北町 2.22.3 開成町 2.23 愛甲郡 2.23.1 愛川町 3 市町村立高等学校 3.1 横浜市 3.2 川崎市 3.3 横須賀市 4 私立高等学校 5 廃校(統廃合された高等学校) 5.1 県立 5.2 横浜市立 5.3 横須賀市立 5.4 私立 6 関連項目 7 外部リンク
[編集] 国立高等学校なし
[編集] 県立高等学校
[編集] 横浜市
[編集] 鶴見区
神奈川県立鶴見高等学校 神奈川県立鶴見総合高等学校
[編集] 神奈川区
神奈川県立神奈川工業高等学校 神奈川県立神奈川総合高等学校 神奈川県立城郷高等学校 神奈川県立横浜翠嵐高等学校
[編集] 西区
神奈川県立横浜平沼高等学校
[編集] 中区
神奈川県立横浜立野高等学校 神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校
[編集] 南区
神奈川県立横浜国際高等学校 神奈川県立横浜清陵総合高等学校
[編集] 保土ヶ谷区
神奈川県立光陵高等学校 神奈川県立商工高等学校(総合学科への改編に伴い、2010年3月閉校予定) 神奈川県立保土ヶ谷高等学校
[編集] 磯子区
神奈川県立磯子高等学校 神奈川県立磯子工業高等学校 神奈川県立氷取沢高等学校
[編集] 金沢区
神奈川県立金沢総合高等学校 神奈川県立釜利谷高等学校
[編集] 港北区
神奈川県立岸根高等学校 神奈川県立港北高等学校 神奈川県立新羽高等学校
[編集] 戸塚区
神奈川県立上矢部高等学校 神奈川県立舞岡高等学校 神奈川県立横浜桜陽高等学校
[編集] 港南区
神奈川県立港南台高等学校(2009年3月閉校予定。統合後(仮称)横浜市栄区方面単位制普通科高校へ) 神奈川県立永谷高等学校
神奈川県立横浜南陵高等学校
[編集] 旭区
神奈川県立旭高等学校 神奈川県立希望ヶ丘高等学校 神奈川県立二俣川看護福祉高等学校 神奈川県立横浜旭陵高等学校
[編集] 緑区
神奈川県立霧が丘高等学校 神奈川県立白山高等学校
[編集] 瀬谷区
神奈川県立瀬谷高等学校 神奈川県立瀬谷西高等学校
[編集] 栄区
神奈川県立金井高等学校 神奈川県立上郷高等学校(2009年3月閉校予定。統合後(仮称)横浜市栄区方面単位制普通科高校へ)
神奈川県立柏陽高等学校 (仮称)横浜市栄区方面単位制普通科高校(2009年4月開校予定)
[編集] 泉区
神奈川県立松陽高等学校 神奈川県立横浜修悠館高等学校 神奈川県立横浜緑園総合高等学校
[編集] 青葉区
神奈川県立市ヶ尾高等学校 神奈川県立田奈高等学校 神奈川県立元石川高等学校
[編集] 都筑区
神奈川県立荏田高等学校
神奈川県立川和高等学校
神奈川県立新栄高等学校
[編集] 川崎市
[編集] 川崎区
神奈川県立川崎高等学校 神奈川県立大師高等学校
[編集] 中原区
神奈川県立川崎工業高等学校(総合学科への改編に伴い、2010年3月閉校予定) 神奈川県立新城高等学校 神奈川県立住吉高等学校
[編集] 宮前区
神奈川県立川崎北高等学校
[編集] 多摩区
神奈川県立生田高等学校 神奈川県立生田東高等学校 神奈川県立菅高等学校 神奈川県立多摩高等学校 神奈川県立向の岡工業高等学校 神奈川県立百合丘高等学校
[編集] 麻生区
神奈川県立麻生高等学校 神奈川県立麻生総合高等学校
[編集] 横須賀市
神奈川県立大楠高等学校 神奈川県立追浜高等学校 神奈川県立海洋科学高等学校 神奈川県立津久井浜高等学校 神奈川県立横須賀高等学校
神奈川県立横須賀大津高等学校 神奈川県立横須賀工業高等学校 神奈川県立横須賀明光高等学校
[編集] 平塚市
神奈川県立大原高等学校(中高一貫化に伴い、2014年3月閉校予定) 神奈川県立神田高等学校(2009年3月閉校予定) 神奈川県立五領ヶ台高等学校(2009年3月閉校予定) 神奈川県立高浜高等学校 神奈川県立平塚工科高等学校 神奈川県立平塚江南高等学校 神奈川県立平塚商業高等学校 神奈川県立平塚農業高等学校
[編集] 鎌倉市
神奈川県立大船高等学校 神奈川県立鎌倉高等学校 神奈川県立七里ガ浜高等学校 神奈川県立深沢高等学校
[編集] 藤沢市
神奈川県立大清水高等学校(2010年3月閉校予定) 神奈川県立湘南高等学校 神奈川県立湘南台高等学校 神奈川県立藤沢高等学校(2010年3月閉校予定) 神奈川県立藤沢工科高等学校 神奈川県立藤沢総合高等学校 神奈川県立藤沢西高等学校
[編集] 小田原市
神奈川県立小田原高等学校 神奈川県立小田原城北工業高等学校 神奈川県立小田原総合ビジネス高等学校 神奈川県立西湘高等学校
[編集] 茅ヶ崎市
神奈川県立茅ヶ崎高等学校 神奈川県立茅ヶ崎西浜高等学校 神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校 神奈川県立鶴嶺高等学校
[編集] 逗子市
神奈川県立逗子高等学校神奈川県立逗葉高等学校
[編集] 相模原市
神奈川県立相原高等学校 神奈川県立麻溝台高等学校 神奈川県立新磯高等学校(2010年3月閉校予定) 神奈川県立神奈川総合産業高等学校
神奈川県立上鶴間高等学校 神奈川県立上溝高等学校 神奈川県立上溝南高等学校 神奈川県立相模大野高等学校(中高一貫化に伴い、2014年3月閉校予定) 神奈川県立相模田名高等学校 神奈川県立相模原高等学校 神奈川県立相模原総合高等学校 神奈川県立城山高等学校
神奈川県立相武台高等学校(2010年3月閉校予定) 神奈川県立津久井高等学校 神奈川県立橋本高等学校 神奈川県立弥栄高等学校
[編集] 三浦市
神奈川県立平塚農業高等学校初声分校 神奈川県立三浦臨海高等学校
[編集] 秦野市
神奈川県立秦野高等学校 神奈川県立秦野総合高等学校 神奈川県立秦野曽屋高等学校
[編集] 厚木市
神奈川県立厚木高等学校 神奈川県立厚木北高等学校 神奈川県立厚木商業高等学校 神奈川県立厚木清南高等学校 神奈川県立厚木西高等学校 神奈川県立厚木東高等学校
[編集] 大和市
神奈川県立大和高等学校 神奈川県立大和西高等学校 神奈川県立大和東高等学校 神奈川県立大和南高等学校
[編集] 伊勢原市
神奈川県立伊志田高等学校 神奈川県立伊勢原高等学校
[編集] 海老名市
神奈川県立有馬高等学校 神奈川県立海老名高等学校 神奈川県立中央農業高等学校
[編集] 座間市
神奈川県立栗原高等学校(2009年3月閉校予定) 神奈川県立座間高等学校 神奈川県立ひばりが丘高等学校(2009年3月閉校予定)
[編集] 南足柄市
神奈川県立足柄高等学校
[編集] 綾瀬市
神奈川県立綾瀬高等学校 神奈川県立綾瀬西高等学校
[編集] 高座郡
[編集] 寒川町
神奈川県立寒川高等学校
[編集] 中郡
[編集] 大磯町
神奈川県立大磯高等学校
[編集] 二宮町
神奈川県立二宮高等学校
[編集] 足柄上郡
[編集] 大井町
神奈川県立大井高等学校
[編集] 山北町
神奈川県立山北高等学校
[編集] 開成町
神奈川県立吉田島農林高等学校(総合学科への改編に伴い、2010年3月閉校予定)
[編集] 愛甲郡
[編集] 愛川町
神奈川県立愛川高等学校
[編集] 市町村立高等学校
[編集] 横浜市
横浜市立金沢高等学校 横浜市立桜丘高等学校 横浜市立鶴見工業高等学校(2011年3月閉校予定) 横浜市立戸塚高等学校 横浜市立東高等学校 横浜市立みなと総合高等学校 横浜市立南高等学校 横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校(2009年4月開校) 横浜市立横浜商業高等学校 横浜市立横浜総合高等学校
[編集] 川崎市
川崎市立川崎高等学校 川崎市立川崎総合科学高等学校 川崎市立商業高等学校 川崎市立高津高等学校 川崎市立橘高等学校
[編集] 横須賀市
横須賀市立横須賀総合高等学校
[編集] 私立高等学校
浅野高等学校 麻布大学附属渕野辺高等学校 旭丘高等学校 厚木中央高等学校 アレセイア湘南高等学校 栄光学園中学校・高等学校 大西学園高等学校 柏木学園高等学校 神奈川学園高等学校 神奈川大学附属中学校・高等学校 鎌倉学園中学校・高等学校 鎌倉女学院高等学校 鎌倉女子大学高等部 カリタス女子高等学校 関東学院高等学校 関東学院六浦高等学校 函嶺白百合学園高等学校 北鎌倉女子学園高等学校 鵠沼高等学校 公文国際学園高等部 光明学園相模原高等学校 慶應義塾高等学校 慶應義塾湘南藤沢中・高等部 向上高等学校 相模女子大学高等部 サレジオ学院中学校・高等学校 秀英高等学校 湘南学院高等学校 湘南学園高等学校 湘南工科大学附属高等学校 湘南白百合学園高等学校 自修館中等教育学校 逗子開成中学校・高等学校 聖光学院中学校・高等学校 清心女子高等学校 聖セシリア女子高等学校 清泉女学院高等学校 聖ヨゼフ学園高等学校 聖和学院高等学校 洗足学園高等学校 捜真女学校中学部・高等学部 高木学園女子高等学校 立花学園高等学校 橘学苑高等学校 鶴見大学附属中学校・高等学校 桐蔭学園高等学校 東海大学付属相模高等学校 桐光学園高等学校 藤嶺学園藤沢高等学校 日本女子大学附属高等学校 日本大学高等学校 日本大学藤沢高等学校 白鵬女子高等学校 平塚学園高等学校 フェリス女学院中学校・高等学校 藤沢翔陵高等学校 横浜富士見丘学園中等教育学校 武相高等学校 法政大学女子高等学校 法政大学第二高等学校 三浦高等学校 聖園女学院高等学校 緑ヶ丘女子高等学校 明徳学園相洋中学校・高等学校 森村学園高等部 山手学院中学校・高等学校 横須賀学院高等学校 横浜中学校・高等学校 横浜英和女学院高等学校 横浜学園高等学校 横浜共立学園高等学校 横浜商科大学高等学校 横浜国際女学院翠陵高等学校 横浜女学院高等学校 横浜清風高等学校 横浜創英高等学校 横浜創学館高等学校 横浜隼人高等学校 横浜雙葉高等学校 横浜山手女子高等学校
[編集] 廃校(統廃合された高等学校)
[編集] 県立
2003年3月閉校
神奈川県立汲沢高等学校 神奈川県立豊田高等学校 神奈川県立横浜日野高等学校 神奈川県立野庭高等学校 神奈川県立藤沢工業高等学校 神奈川県立大船工業技術高等学校 神奈川県立平塚工業高等学校 神奈川県立平塚西工業技術高等学校 神奈川県立大沢高等学校 2004年3月閉校神奈川県立平安高等学校 神奈川県立寛政高等学校 神奈川県立都岡高等学校 神奈川県立中沢高等学校 神奈川県立清水ヶ丘高等学校 神奈川県立大岡高等学校 神奈川県立富岡高等学校 神奈川県立東金沢高等学校 神奈川県立川崎高等学校(学年制) 神奈川県立川崎南高等学校 神奈川県立柿生西高等学校 神奈川県立柿生高等学校 神奈川県立初声高等学校 神奈川県立三崎高等学校 神奈川県立長後高等学校 神奈川県立藤沢北高等学校 神奈川県立小田原高等学校(学年制) 神奈川県立小田原城内高等学校 2005年3月閉校神奈川県立厚木南高等学校 神奈川県立相模台工業高等学校 神奈川県立相模原工業技術高等学校 2008年3月閉校神奈川県立岡津高等学校 神奈川県立和泉高等学校 神奈川県立六ツ川高等学校 神奈川県立外語短期大学付属高等学校 神奈川県立久里浜高等学校 神奈川県立岩戸高等学校 神奈川県立三崎水産高等学校 神奈川県立秦野南が丘高等学校神奈川県立大秦野高等学校 神奈川県立小田原城東高等学校 神奈川県立湯河原高等学校 神奈川県立弥栄東高等学校 神奈川県立弥栄西高等学校
[編集] 横浜市立
2004年3月閉校
横浜市立港商業高等学校
2005年3月閉校
横浜市立港高等学校
横浜市立横浜工業高等学校
[編集] 横須賀市立
1972年3月閉校
横須賀市立第一高等学校 横須賀市立第二高等学校 2003年3月閉校横須賀市立横須賀高等学校 横須賀市立商業高等学校 横須賀市立工業高等学校
[編集] 私立
信証高等学校 聖ミカエル学院高等学校 法政大学工業高等学校 東横学園大倉山高等学校
[編集] 関連項目
高校百校新設計画 神奈川方式 県立高校改革推進計画 学校記事一覧 神奈川県中学校一覧 神奈川県小学校一覧 神奈川県幼稚園一覧
[編集] 外部リンク
神奈川県教育委員会 横浜市教育委員会 川崎市教育委員会 横須賀市教育委員会
神奈川県公立高等学校名簿(県教委) 神奈川県高校受験辞典 [隠す]表・話・編・歴日本の高等学校一覧
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7
" より作成
カテゴリ: 神奈川県の高等学校 | 日本の高等学校一覧
最終更新 2008年9月6日 (土) 22:11。