私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。
(四)、徳川家康と天領堺
家康(一五四二~一六一六年)は天正十年(一五八二)、堺を遊覧直後に本能寺の変を知る。そのため、河内から三河まで、小人数で逃げ帰ることになる。
関ヶ原の戦い後、堺は徳川方の領地になり、宗久の子今井宗薫が家康の御用を務める。
慶長十七年(一六一二)六月、スペイン人ビスカイノは、西国を船で測量していた部下の航海士らと堺で合流した。堺は「甚だ広大にして都の市と同じく商業の市なり。海岸の大なる湾内に在り、船の港にして帝国の船悉く同所に集れり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」『異国叢書』雄松堂書店、一九二八年、一三六頁)。
堺のまちは、豊臣方から徳川方になっても、帝国(日本)の船がことごとく集まる港であったことが分かる。南蛮船も少し堺港に入っているが、それはイエズス会と協力関係にあったポルトガル船ではなく、太平洋航路で東からやってきて紀淡海峡を大阪湾に入ってきたスペイン船であった。ビスカイノは金銀島を探すためなどに日本に来た。
こうして、ポルトガル船に少し遅れて来航したスペイン船が、測量が済んだ堺の港にも続々と入港するはずであった。しかし、徳川政権の鎖国政策によって、貿易港は平戸、そして長崎に限定されることになるのである(拙稿「港からみた堺の歴史」『堺市博物館報』二七号、五〇頁)。
大坂夏の陣で、堺のまちは豊臣方に火をかけられ、ほぼ全焼してしまう。戦後復興で、町並の大幅な改変・整備がなされた。堺のまちを理解するには、第三節に記すとおり夏の陣の以前と以後で大きく異なることを理解する必要がある。
寺町が、この時にまちの東部に整備されている。東側の堀の内側であり、堀と寺町の間には農人町が設けられた。第二次世界大戦後の昭和二十年代から三十年代にかけて、堀に流れ込む汚水による悪臭問題などもあり、高速道路を通すために東側の堀を埋めることが検討され実行されるところとなった。世界的にも珍しい農人町の町並みも、一棟も残らず土居川公園などになってしまった。
都市のはずれに寺町を整備することは、一般的には防御のためとされるが、そうではなく信長以来続く都市振興策ではないのか。京や大坂では秀吉が実施しており、堺でも一部、秀吉が先行して実施したかもしれないが、いずれも防御のためとは思えない。すでに戦国時代ではないし、天領とはいえ広大な商人町全体の防御まで、幕府は考えないだろう。地方の城下町では、そういうところもあったかもしれないが、そこでも振興が主ではなかっただろうか。
堺(旧市域)南部の臨済宗大徳寺派の南宗寺に、家康の墓があるという。大坂夏の陣で、豊臣方の真田幸村に追われて堺に逃げ込んだところを後藤又兵衛(基次)に殺され、南宗寺に埋められたという伝説である。上方講談の「難波戦記」「真田三代記」などで語り継がれ、今も語られることがある。しかし、又兵衛の討死は五月六日、幸村は七日、秀頼・淀君の自害は八日であるが、堺の炎上は四月二八日であることから、信憑性は低いだろう。
元和九年(一六二三)に徳川秀忠・家光父子が相次いで堺、南宗寺に来たことがその証拠であるとする説もあるようだが、周知のとおり家光が将軍宣下を受けるため、および上方を視察するために京都、伏見、大坂、堺に二人は来たのであった。この時期まだ、堺は経済都市として幕府にとって重要な拠点であった。特に南宗寺は、沢庵の努力で旧市街地南部の広い寺地を元和三年には確保し、同五年には再興工事をほぼ竣工させていた。
なぜこのような伝説が生まれたのか、その理由を知りたいところであるが、幸村や又兵衛は最も人気のあった武将である。
(五)、三好元長・長慶父子から天下人の時代へ
天下人といえば、信長・秀吉・家康の三人であるが、その基礎を築いたのは三好長慶であろう。
第二次世界大戦での空襲の被害が比較的少なく、今でも堺(旧市域)の二大寺院ともいえるのが南部の南宗寺、北部の妙國寺であるが、南宗寺は三好長慶の建立であり、妙國寺は実弟である三好実休の建立である。堺幕府の実質的な中心であった三好元長は、長慶の父親である。堺と三好一族との関係は、実に深いものがある。
南宗寺(なんしゅうじ)は、堺旧市域南部にある臨済宗大徳寺派の寺院である。三好氏の菩提寺で、茶人の武野紹鴎や千利休が関係した寺でもある。
畿内一の実力者となった三好長慶が、前身の南宗庵を拡大し、父・元長の菩提を弔うため、弘治二~三年(一五五六~七)に七重大塔や三好神廟を建造し、大徳寺九十世の大林宗套を開山としたが、慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣の兵火で堺の町とともに焼失した。
その後、沢庵宗彭らによって現在地に再興された。太平洋戦争の空襲で一部の建物を焼失したが、江戸時代の禅宗寺院の雰囲気をとどめる。
妙國寺(みょうこくじ)は、堺旧市域北部にある日蓮宗の寺院である。開基は、長慶ら三好四兄弟の一人である三好豊前守義賢(実休)である。国指定天然記念物の大蘇鉄などで、今も有名である。
天正十年(一五八二)本能寺の変の時に、徳川家康はここ妙國寺で宿泊している。また、幕末に起こった堺事件ゆかりの寺としても知られる。
実休が、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁(一丁は約一〇九m)の土地を、開山である日珖に寄進したと伝える。元亀二年(一五七一)に本堂が竣工している。
第二次大戦末の昭和二十年七月、堺大空襲による戦火で再びかなりの部分が焼失したが、伝来の寺宝や大蘇鉄などはかなり残り、昭和四十八年に本堂も再建され現在に至っている。
三好氏と堺の商人たちは、茶の湯でのつながりも大きかったようである。織田信長が所持した名物茶器の半分以上は、元々三好氏が所持していたものであった(竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』思文閣出版、二〇〇六年。天野忠幸「戦国期における三好氏の堺支配をめぐって」『堺市博物館報』三〇号、二〇一一年、一二七頁)。
堺と関係した権門寺社や武将を、時代順にざっと振り返ると、住吉大社、山名・大内、足利・細川・三好、織田・豊臣・徳川などである。
古代は住吉領だっただろうから、堺に領主(神主・宮司)はいなかったはずである(「堺の歴史は住吉御旅所から」『堺市博物館報』三十号、二〇一一年)。堺が庄園になる鎌倉時代ころでも、庄園領主は京都などにおり、堺には代官だけであった。
南北朝時代の末になって、山名氏清、大内義弘が領主として堺に来た。和泉国の守護所も、山名氏により和泉府中あたりから堺へ移されている。堺が大大名の城下町となり、いまでいう県庁所在地にもなった期間だった。
しかしその後の細川、三好支配時代は、堺にはまた代官のみ駐在した。それによって、商人による自治が発展した。織田~徳川期も同じである。それ以後もずっと代官が派遣されるのみであった。そして堺県の県令や大鳥郡堺区長、堺市長を置く明治に到り今に続く。
天下人が堺に求めたものは、信長が経済力や今井宗久らによる武器製造、秀吉も経済力であり、大坂(城)の外港化を目指したようだが、最後に断念して船場の開発を進めた。いずれも、堺を支配しようとした訳ではない。
本稿の主要部分は、昨年後半に行なったいくつかの講演会の原稿などを基に、それらを加除して組み直したものである。
まず第一節は、仕事などで見聞し感じたことを、試論として少しまとめた新稿である。
第二節は、昨年十一月九日に関西大学東京センターで行なった関西大学×堺市連携公開講座千利休と堺の第二回「堺の利休‐わび茶と黄金の日々‐」、および十二月二十一日によみうり堺文化センターで行なった映画利休にたずねよ公開記念特別講座「千利休そして金銀の都市・堺」などの講演会を基にまとめた。利休については、一昨年あたりから高齢者大学や女性大学などでしゃべってきたが、茶の湯文化史は専門外でありまだまだ不勉強である。
なお、第二節前半部の原稿は、昨年十一月六日発行の『月刊歴史街道』十二月号掲載の拙稿「天下一の繁栄を極めた海の商都・堺、その夢の証」も参考にした。この原稿は、『歴史街道』編集部副編集長川上達史氏に上手にまとめていただいた。
第三節が昨年十一月十日になんばパークスで行なった南海沿線文化セミナー「天下人と堺」である。
本稿は、『堺市博物館研究報告』三三号(二〇一四年三月発行予定)に掲載予定の原稿を、インターネット用に改めたものである。
(よしだゆたか・堺市博物館学芸員、二〇一四年一月二十六日制作)