私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。



史跡都市堺の歴史観光‐夏の陣・茶の湯・天下人‐


 第二節、金銀都市堺における茶の湯

 堺で生まれ育った千利休であるが、簡単な手紙類を除いて彼自身が語った史料はほとんどなく、利休と堺との関係を示す史料もない。

 イエズス会を代表する宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本の金銀の大部分が集まる港町と記した堺で、対照的ともいえるわび茶(侘数寄)が利休によってなぜ大成されたのだろうか。



(一)、倭寇・火縄銃とバブル経済都市堺

 一五四三年ころ、倭寇の船(実は中国船)に乗ったポルトガル人が、鉄砲(火縄銃)を種子島に伝えた。種子島の領主がそれを購入し、地元の鍛冶屋に複製を作らせている。

 鉄砲は、日本の銀を求めて中国方面からそのころ日本各地にやってきた倭寇などによって、種子島だけでなく日本各地に伝来したかもしれない。しかし、種子島で短期間で複製品が作られ、その技術を応用して堺で大量生産がおこなわれたという普及過程こそが、世界的にも例のないことであった。日本史上にとって重要なのは、鉄砲伝来ではなく鉄砲複製・大量生産である(拙稿「宗久茶屋と鉄砲伝来‐歴史研究における伝説と通説‐」『堺市博物館報』二九号)。

 石見銀山など日本でこの頃から大量に出土・精製されるようになった銀を求めて、中国から倭寇やポルトガル人がやってくるようになる。倭寇は、堺の貿易商人とも関係していたようである。

 種子島は堺商人の貿易ルート上にあったため、堺商人が種子島銃をすぐ堺に持ち帰り、信長の天下統一過程の頃には堺で大量に作れるようになっていた。ヨーロッパ以外で鉄砲を作れたのは日本だけであり、しかも大量生産であった。こうして堺で、鉄砲バブルが始まる。

 また、鉄砲や大砲に使われた火薬の主な原料であった硝石は、当時は東南アジア方面からの輸入に頼っていた。堺の貿易商人が、それらの輸入にも携わっていたと思われる。海の神様、船の神様である住吉神と強く結びついてきたことが物語るように、堺は古くから貿易商人の町として発展してきた。

 一五四九年、鹿児島に上陸したザビエルは、そこからマラッカ(ポルトガル領、現マレーシア)の長官に宛てた手紙のなかで、日本の主要な港である堺に商館を設けること、なぜなら堺は日本で最も富裕な町で、全国の金銀の大部分が集まる所だと述べている。鹿児島は、種子島とともに堺商人が琉球を経て中国、東南アジアと貿易する商圏であった。

「日本の最大の港都であり、京都から二日ばかりの旅程を距ててゐるだけの堺には、神の思召に従つて、物質的な利益の非常に大なるポルトガル商館を開くことができる」「この堺の港は、日本中で、最も殷賑を極めた富裕な町であって、全国の金銀の大部分が集まる所です」(『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄』下巻、岩波文庫、一九四九年、八五頁)。

 堺は、なぜそれほどまでに繁栄する都市となったのだろうか。それは海と船を守護する住吉神の大社との繋がりの他に、堺が海のネットワークを束ねる地だったからである。中世においては、瀬戸内海が物流のメインルートだったが、もう一方で紀伊から土佐沖を通って薩摩へ渡り、さらには琉球にまで至るルートもあった。古代からの熊野水軍や中世倭寇の活動地域でもある。最初の遣明船も、この土佐沖ルートで堺に入港しており、種子島もこのルート上にある。両方のルートにアクセスできることは、堺の非常な強みだった。

 さらに、古代から陸路での大和との結びつきもあった。難波と大和を結ぶ大道として、推古天皇二十一年(六一三)に長尾・竹内街道などが整備されて、昨年で一四〇〇年を迎えた。難波と結ぶのがメインルートであったと思われるが、途中の住吉大社・堺も大きく影響を受けたと考える。



(二)、堺の新興商人による新しい茶の湯文化

堺幕府(一五二七~三二年)の後、三好元長の息子・長慶が再び堺を拠点に、近畿一円に覇を唱えた。三好長慶は「戦国初の天下人」ともいえる。信長の前であり、 長慶・信長・秀吉・家康となる。

 ザビエルが、堺は金銀の大部分が集まる所と言ったように、安土桃山時代には、この莫大な富を背景に、金融都市堺で茶の湯などの文化が大きく花開いた。

茶道検定の公式テキストには、「武野紹鴎が茶の湯を主導した天文年間(一五三二~五五)からその直後は、経済力のある茶人が主流をなしたため、ぜいたくな料理がふるまわれ、料理の上には金銀の箔が散らされ、器にも金銀の装飾がほどこされるといった豪華な仕立てもあった。漆器と素焼の土器(かわらけ)が主たる器で、土器には金箔を貼った濃手(だみで)がほどこされた」と記されている(財団法人今日庵茶道資料館監修『茶道文化検定公式テキスト一級・二級用』淡交社、二〇一二年・五版、一二七頁・矢部良明執筆部分)。

天正七年(一五七九)に来日したイエズス会東インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、当時の日本人が、まるで宝石であるかのように茶道具を珍重し、西洋人から見れば「鳥籠に入れて鳥に水を与えること以外には何の役にも立たないような」茶入れ一個が、銀九千両(一万四千ドゥカード)で売買されていたと記録している(ヴァリニャーノ『日本巡察記』東洋文庫二二九、一九七三年、二三頁)。キリシタン大名大友宗麟所持の茶入であるが、その金額はイエズス会日本支部の一年間の経費を上回るものであった。

ちなみに同書(二四頁)によれば、堺の日比屋了珪の鉄製五徳蓋置は九百両であった。了珪は、堺商人のなかで上位の豪商ではなかった。

鉄砲製造や火薬(硝石)輸入によるバブル経済であったが、豪商たちの手ごろな投機対象になったのは高級な貿易陶磁器や舶来の茶道具くらいしかなく、異常なほど高値になったのではないか。

熊倉功夫氏は、「茶道具はさまざまの品物のなかで、最も換金性の高いものの一つであろう。その換金性こそ、堺の町衆が一番大事にした道具の性格であった」とされる(同氏『茶の湯の歴史 千利休まで』朝日選書四〇四、一九九〇年、一六五頁)。

堺は大坂夏の陣で大きな戦火に見舞われ、大量に持ち出して逃げる間もなく、茶器などの陶磁器が地中に埋まってしまった。現在、千地点以上が調査されており、「堺環濠都市遺跡」と呼ばれる日本で最も大規模な中近世都市遺跡になっている。秀吉・家康時代の後半、埋まっている遺物が使われていた慶長期(一五九六~一六一五年)の堺が、金銀あふれる黄金の日々を迎えていたことの証である。

誤解されがちなのが、武野紹鴎や今井宗久らが伝統的な「会合衆」の一員とされることである。会合衆は、えごうしゅうと読まれたりもしたが、かいごうしゅうが正しい(拙稿「堺中世の会合と自由」『堺市博物館報』一七号、七頁)。堺の「会合衆」の史料的な初出は、一四八〇年代に書かれた『蔗軒日録』であるが、当時すでに湯川(池永)や三宅、野遠屋(阿佐井野)など地元の有力商人が活躍している。

一方、武野紹鴎は父の代ころから堺で商売を始め、鹿革など武具を商って戦国時代に一気に巨富を得た人物であり、その娘婿の今井宗久は大和国、あるいは近江国の出身、いわば新興財閥といえる。だからこそ過去のしがらみも少なく、信長や秀吉と結びつきやすかったのであろう。

武野紹鴎や今井宗久は、新興財閥であったが故に、茶の湯も室町将軍家など以来の伝統に囚われることがなかったのではないか。前述のとおり、津田(天王寺屋)宗及も、湯川や三宅に比べれば新興商人であっただろう。永島福太郎氏も、堺の「都市自治を誇り、会合衆をリードしていたのは旧豪族の一部だった」とされる(同氏『中世文化人の記録‐茶会記の世界‐』淡交社、一九七二年、五七頁)。

千利休も、確定ではないが、同じく伝統的な商人ではなかったと思う。不審菴蔵「緑苔墨跡」によれば、若いころは豪商でもなかった(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』角川書店、二〇〇五年、一〇八頁)。それ故に、このような堺の革新的な部分と強く結びついていたのではないか。堺の町と自らの新しい感性を信じて、わび茶という新しい茶の湯を究めたのが利休かもしれない。

今井宗久も津田宗及も千利休も、「天王寺屋茶会記」などによれば茶の湯で三好一族と関わっていたことも分かっている(天野忠幸「戦国期における三好氏の堺支配をめぐって」『堺市博物館報』三〇号、二〇一一年、一二五頁)。大徳寺聚光院において、千利休の墓は三好長慶の隣にある。

しかし、三好一族と会合衆が旧守派、信長・秀吉や天下三宗匠は新興勢力と片付けられるほど単純ではない。当時の堺のまちの目まぐるしい変転のなかで、どのようにして新しい茶の湯が生まれたのか、まだまだ考えないといけないことは多い。



(三)、堺の豪商と武家茶の湯

 茶の湯は武家文化であろうか町衆(町人)文化であろうか。安土桃山時代の堺においても、まだ町衆文化にまでなっていなかったように思う。室町から安土桃山時代までの町衆文化といえば、共同体ごとに行なわれた年中行事や人生儀礼、民俗芸能のようなものが主であった。長く日本文化の中心的な担い手であった公家の圧倒的な影響力のなかにあって、一般の武家や町衆まで広く行なえた文化といえば地下(じげ)の連歌くらいのものであっただろう。

 茶の湯も、闘茶や茶寄合くらいであった。茶屋や茶店も、庶民にまで広がるのは江戸時代になってからであろう。堺の茶の湯は豪商文化であり、上層武家の御用商人文化であり、三宗匠は信長や秀吉の茶頭であり、江戸時代の三千家も加賀前田家や紀州徳川家に仕官している。

 禅宗は武家による信仰が多く(公家は少ない)、武家文化としての茶の湯は大徳寺などの禅宗と結びつきやすかった(『京都の歴史』第三巻四六一頁)。

堺のまちなどでこの時代、茶の湯が盛んに行なわれていたと一般に言われるが、豪商の主な取引先は武家であった。武家の求めに応じて茶道具を販売したり茶会を催すだけでなく、茶会記に記されるように商人同士でも茶会が催された。しかしそれは、武家との商売のための勉強会であったりもした。商人が、儲けに結びつかないことを熱心にするのは例外的な場合だけであろう。商売としては、多くは武家が対象であったはずである。

村井康彦氏の最近の論考「茶に生きた人‐信長・秀吉・家康‐」でも、茶の湯の中心は武家であったことが述べられている(『茶道雑誌』平成二十六年一月号)。

 千利休は、師の一人(あるいは師の師)である武野紹鴎たち堺の豪商が行なった金銀あふれた高級な茶の湯に反発してわび茶にのめり込んだのか、単に紹鴎たちとは異なる茶の湯をすることにこだわっただけなのだろうか。あるいは、秀吉の力を借りて庶民にまで幅広く茶の湯を広めたかったのか、秀吉政権のなかで茶頭としてただ生きただけなのだろうか。

 町人に多い法華宗よりも、武家に多い禅宗との関係が深いのも、茶の湯が武家のものだからだろうが、秀吉政権において一時期、異父弟の秀長に次ぐナンバースリーであり、最後は武士のように切腹した利休も、その点ではまさに武士であった。

江戸時代には煎茶が、黄檗宗僧侶などによって中国から取り入れられ、文人に広まり、町人も行なうようになり、広く庶民まで簡単なお茶を喫するようになる。

一方、抹茶を使った茶の湯は、上層の武家のなかで生き続けた。北山文化、東山文化に代表される足利将軍家以来の武家の茶であり、信長による茶の湯御政道、秀吉の北野大茶会などによる広がり、そして利休によって完成に向かった日本的なわび茶など、当時の日本を代表する上層武家文化の一つであった。

そういった桃山から江戸時代にかけて続けられてきた茶の湯セレモニーは、能狂言や歌舞伎、文楽といった芸能もそうであるが、さらに上層の日本文化を今に伝えるタイムカプセルの役割を果たしたのではないか。

そのなかに込められた日本の伝統的な美意識の一端は、昨年末から公開の映画「利休にたずねよ」でも大きく取り上げられ、モントリオール(カナダ)で映画賞をとるなど外国でもその日本的な美に対する理解を得たようである。最近、世界的(特に欧米)に日本文化が人気であるが、その一環であろう。

 これまでの日本文化論では、公家文化や町衆(町人)文化に比べて武家文化が低くみられすぎていたのではないだろうか。



(四)、貿易港堺と利休のわび茶

堺のまちにおける鉄砲バブルのなかで、紹鴎などによる金銀を散りばめた華やかな茶の湯が行なわれる一方、その対極にあるらしい利休のわび茶が行なわれたのではないか。

 利休のわび茶とは、何なのであろう。利休自身はそれについて語っていないので、推測するしかない。利休百回忌に向けて『南方録』などが作られていくが、そこに加えられた理想的・意図的な利休像、そのなかから、あるいはそれを選り分けて真実を探し出さないといけない。

永島福太郎氏が『中世文化人の記録‐茶会記の世界‐』(淡交社、一九七二年)の冒頭に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。」という松尾芭蕉の紀行文を引用している。貞享四年(一六八七)に畿内西国に向かった時の「笈の小文」の序文の一節である。これも利休百回忌に近い時代であるが、芭蕉はこれらを「風雅」と呼んだ。

 桑田忠親氏も『世阿弥と利休』(至文堂、一九六六年)の「はしがき」で、この「笈の小文」を引用しておられる。ただ、たとえば「和歌の西行と絵の雪舟には、誰しも異議があろう。西行は芭蕉型の歌僧ではあるが、歌神と崇められた人麿や定家と比べると、それ以上に高く買われない」とし、「日本第一流の芸術家」について芭蕉独特の見解を述べたものとされたが、それは勘違いであろう。

日本文化の一方の旗手が、柿本人麻呂ではなく西行であり、狩野永徳や喜多川歌麿ではなく雪舟でなければならないと、芭蕉は考えたのである。そして「利休が茶」である。

 日本文化は、舶来文化と国風文化の二つが絡み合って成り立っている。舶来文化は、明治以前は中国など主に東洋から、明治以降は欧米など主に西洋から輸入されており、国風文化との融合文化もあった。芭蕉のいう風雅は、どちらかといえば国風文化に近い。

 例えば堺においては、「与謝野晶子の和歌、高三隆達の小歌、土佐光起の絵、千利休の茶」ということになろうか。これらの先人も、どちらかといえば地味な国風文化を育てた人々であった。ただ、それぞれの時代の国際性を反映した国風文化でもあったのは、堺という町の気風を多かれ少なかれ反映していたであろう。堺文化の特徴は、海に向かって開かれた国風文化であった。

 茶の湯は唐物趣味が強く、どちらかといえば舶来文化であるが、そのなかで利休のわび茶は国風文化寄りである。明治以降の我々現代人には、中国や朝鮮文化などは大半が国風文化と融合しており、欧米からの舶来文化とはやや異なるが、舶来文化であることに変わりない。大徳寺や南宗寺など、茶の湯と関係深い仏教も、全てインド・中国からの舶来である。

 日本文化の中心は舶来文化の方であろう。華やかな桃山文化にも、中国文化の影響がみられる。国風文化や民族文化、国民文化といったものは、地味な存在であり副次文化である。

今風にいえば、サブカルチュアであろう。男性中心の武家文化であった茶の湯が、今では裏千家などの努力によって広く女性に支持されているのも、どこかサブカルチュア的な感じがする。

村田珠光の有名な遺文「心の文」(古市播磨宛一紙)にある「和漢の境をまぎらかす」ことも、唐物と和物の関係を述べたものであろう。熊倉功夫氏は、珠光のこの言葉の背景に、五山の禅僧たちとの「和漢連句」という文芸運動があり、永島福太郎氏は『茶道文化論集』で和漢兼帯が中世文化の主張であったとしたという(熊倉『茶の湯の歴史 千利休まで』一〇九頁)。