母の知る中国・・③【時事所感・番外】
北京を発つ日、目立たないように日が落ちて暗くなってから出発。
移動手段を如何にするか、これが先ず問題になりました。
自家用車はごく一部の階級層のものであり、
当時の中国では、これもまた逆に目立って日本人だと分かり、
的になる危険性がある。
汽車では駅や列車内の多数の中国民衆のなかへ入っていくことになって危険性がある。
しかし北京から日本までの距離を考えると遠い。
朝鮮半島までの移動に数回に分けての汽車利用を考えたが、これも後に予定を変更することになります。
北京市内を徒歩で人混みの市中を抜け出るには時間がかかる。
短時間で脱出したいために、
山林に近い北京郊外の駅までを
汽車で移動することにします。
服装はできる限りみすぼらしい服装、顔には炭や砂泥を塗り施し、
終戦直後の混乱下の中国民衆に紛れるようにします。
因みに母は幼少だったこともあり、
男の子の服を着せられて、顔をわざと汚すのが凄く嫌だった、と。
手荷物が多いとみられれば、
引き揚げの日本人と判るので、
同伴してくれる中国人の元従業員や家政婦さんが分担して荷物を持ってくださることになった。
祖父はじめ家族全員、日本語は一切話してはいけないと決めました。
家族と従業員・家政婦さんは
数人で数グループに分かれ、少し距離をおいて、汽車に乗り込みます。
祖父も家族も中国語は殆ど分からず、北京で仕事をしていた祖父ですら片言の中国語と漢字の筆談でやる程度で、
この中国語が分からないことが、
この汽車移動の際にはかえって幸いします。
母の知る中国・・②【時事所感・番外】
中国に渡った日本人社会の間で一気に恐れや不安感が広まります。
中国民衆の日本人に対する暴動や暴行が起こるかもしれない、
屋内に身を伏せておくほうがよい
と話が伝わります。
屋外の喧騒は聞こえるものの、
祖父の屋敷には暴動の群衆や破壊行為等は特には無く、
寧ろその逆で、多くの中国人従業員が、日本人の祖父家族を案じて屋敷に多く訪ねてきていたそうです。
敗戦から数日後、中国の警察が来ます。
屋敷入口から兵隊か警察かと思しき集団がなだれ込む。
凄まじい勢いのままに大声の中国語で捲し立て、
これを中国人家政婦が対応しているなか、
他の中国人家政婦が前で盾の様に立ちはだかり護ってくれ、
その後ろで様子を見ていたそうです。
部屋の奥から祖父は現れ、
その警察と思しき集団に連れていかれ、
母は為す術も無く、恐怖に怯え眺めて泣いていました。
祖父が警察の取り調べで体罰や暴行を受けていないか、
何日すれば無事に釈放され帰ってくるのか、否や帰られなくなるのか、
警察へ直接足を運んでも取り合ってもらえず、
家族は家政婦さん達と静かに待つだけの時間が過ぎてゆくだけでした。
十日程過ぎて祖父は釈放され帰ってきました。
顔や躰に痣や掠り傷が少しみられる程度だったそうです。
しかしながら祖父はこれについては、家族を気遣ってあまり多くは語らなかったそうです。
祖父が十日程で釈放されたのは、
他の日本人に比べて早かったようです。
実は、会社や工場の中国人従業員、祖父を知っている近隣の人達が、警察に多数詰め掛けて、
「この人は悪くない。無事に直ぐ釈放して欲しい」
と連日直訴してくれていたそうです。
他にも、離れた地域から祖父らの住む日本人居住街に中国民衆が終戦直後の押し寄せた時も、
この従業員や家政婦達が対応し話をしてくれて以降、民衆が来ることは殆ど無かったのです。
祖父は自分達日本人と一緒にいる中国人従業員や家政婦達に次の災難が降り掛かるかもしれないことを危惧し、
直ぐに会社、工場を閉めて日本へ帰国することを決めました。
今の平和な日常にある引っ越しではありません。
終戦の混乱下、帰国の途中で日本人と判れば、中国民衆に何をされるか分からないという理由から、
多くの中国人従業員や家政婦達が通訳と道案内を申し出てくれました。
従業員と家政婦さん数人にこれをお願いしました。
出発の際は多くの中国人従業員、家政婦さん達が別れの挨拶と見送りに来てくれました。
これらの話には感謝の気持ちで胸一杯になります。
大きな荷物は返って目立つために、着替え等の小さな荷物だけ持って
殆ど無一文に近いままで、
北京から祖国日本へ帰ることになります。
大陸へ渡った多くの日本の出兵兵士や民間人とその家族が身の危険にさらされながら、祖国日本へ帰ります。
「引き揚げ」です。
母の知る中国・・①【時事所感・番外】
私が小学生の頃、戦争の実体験を家族や親戚から直接聞く、という夏休み課題がありました。
祖父母や叔父叔母などから戦争の実体験を聞く同級生が殆どのなか、
私は遅くの生まれもあり、両親から実の戦争体験を聞くことができました。
しかしながら、母は日本の空襲を経験していません。
広島で生まれて、直ぐに中国の奉天に渡り、その後暫しの間、北京で暮らしています。
母の実家は代々の商家で、
戦争景気で商いは好調だったそうです。
次第に国や軍からの注文や要請もあり、中国へと渡り、商売することになったそうです。
中国へ渡り、事業を始めた頃は、従業員は現地の中国人20人程度だったそうです。
労働賃金や待遇が他所よりも良く、
中国人に対しての偏見や差別意識も無かったためか、
人伝に広まって、就労希望の人が続けて訪ねてきていたそうで、
祖父もその希望に応えようと、事業を拡大したそうです。
従業員20人程度だった会社も好調で、
北京飯店に会社を構えるまでになり、
2つ目の会社も同じ北京飯店内に構えました。
しかしながら従業員数が増えて人件費が膨れ上がるも、
中国人従業員の生活を考慮して、
会社を切り盛りするために、会社全般の事務から何からを祖父一人でこなしていたようで、
徹夜続きは日常的で相当な苦労をしていたと叔父から聞いています。
この頃に母は現地北京の日本人学校に通っていて、母専任の中国人家政婦さんに自家用車で通学送迎してもらっていました。
母の記憶には、勉強や躾については厳しく、優しい遊び相手だった中国人家政婦さん達の記憶があります。
因みにこの頃住まいにしていた屋敷のお隣に李香蘭さん(故・山口淑子さん)がお住まいで、家族ぐるみのお付き合いだったそうで、
アルバムの写真にはその様子が分かるものもあります。
事業は好調で従業員は200人程度までになった後に生活は一変します。
日本の敗戦です。
この日本敗戦により中国の警察や兵隊が大陸へ渡った沢山の在中の日本人を逮捕、連行し始めます。
母方の祖父も逮捕、連行されることになります。
