母の知る中国・・①【時事所感・番外】
私が小学生の頃、戦争の実体験を家族や親戚から直接聞く、という夏休み課題がありました。
祖父母や叔父叔母などから戦争の実体験を聞く同級生が殆どのなか、
私は遅くの生まれもあり、両親から実の戦争体験を聞くことができました。
しかしながら、母は日本の空襲を経験していません。
広島で生まれて、直ぐに中国の奉天に渡り、その後暫しの間、北京で暮らしています。
母の実家は代々の商家で、
戦争景気で商いは好調だったそうです。
次第に国や軍からの注文や要請もあり、中国へと渡り、商売することになったそうです。
中国へ渡り、事業を始めた頃は、従業員は現地の中国人20人程度だったそうです。
労働賃金や待遇が他所よりも良く、
中国人に対しての偏見や差別意識も無かったためか、
人伝に広まって、就労希望の人が続けて訪ねてきていたそうで、
祖父もその希望に応えようと、事業を拡大したそうです。
従業員20人程度だった会社も好調で、
北京飯店に会社を構えるまでになり、
2つ目の会社も同じ北京飯店内に構えました。
しかしながら従業員数が増えて人件費が膨れ上がるも、
中国人従業員の生活を考慮して、
会社を切り盛りするために、会社全般の事務から何からを祖父一人でこなしていたようで、
徹夜続きは日常的で相当な苦労をしていたと叔父から聞いています。
この頃に母は現地北京の日本人学校に通っていて、母専任の中国人家政婦さんに自家用車で通学送迎してもらっていました。
母の記憶には、勉強や躾については厳しく、優しい遊び相手だった中国人家政婦さん達の記憶があります。
因みにこの頃住まいにしていた屋敷のお隣に李香蘭さん(故・山口淑子さん)がお住まいで、家族ぐるみのお付き合いだったそうで、
アルバムの写真にはその様子が分かるものもあります。
事業は好調で従業員は200人程度までになった後に生活は一変します。
日本の敗戦です。
この日本敗戦により中国の警察や兵隊が大陸へ渡った沢山の在中の日本人を逮捕、連行し始めます。
母方の祖父も逮捕、連行されることになります。
