He is to blame.とHe is to be blamed.はどちらも「彼は非難されるべき」という同じような意味で使われます。形式上to blameは能動、to be blamedは受動になっているのに意味に大差ないということには違和感があります。この理由には不定詞の歴史的変遷が大きくかかわり、その真相を知ることが不定詞の多彩な用法を理解することにつながります。

 

 まずは現在の用法から、to不定詞のコアイメージのとらえ方を見ていきます。よく不定詞のイメージは「未来的」と言われることがあります。しかし、言語学的にはto不定詞のコアは未来的では不十分だとされます。

 

1a) She wants to be a doctor. (彼女は医者になりたがっている)

 

1b)  She seems to be a doctor. (彼女は医者のように見える)

 

1c)  She grew up to be a doctor. (彼女は成長して医者になった)

 

 用例1aでは、医者になるのは将来のことで「未来的」と言えます。用例1bは、

It seems to me that she's a dotor.と言い換えてもほぼ同じ意味で、今医者であると思っていると言っています。用例1cでは、実際に医者になっていることを言っています。

 to不定詞は「未実現」「未確認」「実現」と幅広く使われることが分かります。to不定詞自体のコアは「未達成」から「達成」まで幅広く、wants、seems、grew upなど他の語句の表す文脈に対応しています。

 

 to不定詞を「未来的」と感じる理由の1つは前置詞toが「~へ向かう」というようイメージを持つことが多いという影響もあるでしょう。前置詞toのコアは「~へ向かう」ではないということを言語学的に押さえておきましょう。

 前置詞towardとの違いを念頭に置くとtoのコアがとらえやすくなります。

 

  前置詞 toward 「~の方へ向かう」

 

    前置詞 to 「~の方へ向かう、~と向き合う、~まで到達する

 

 forward、backwardなどの語にもあるように-wardは」「~方へ」という意味です。だからtowardは単に方向を示すだけです。このとき-wardは、それぞれの語for、back、toに付けられた標識markerととらえることができます。標識が無い形for、back、toを、言語学では無標unmarkedといい、標識がある形forward、backward、towardを有標markedといいます。

 

 標識は、ふつう使用法を制限すると考えられます。例えば、道路標識は速度制限や駐車禁止など道路の使用法を制限します。一般に有標の形は標識によって使用法を制限され、無標の形は標識による制限が無く幅広く使用できると言えます。

前置詞toはwardという標識に制限されない無標の語です。さらに機能語として意味が一般化generalizationしているので、汎用性が極めて高い語なのです。

 

 face-to-faceというような表現は「向き合う」「相対する」というtoのコアをよく表していると思います。

 無標のtoは「~の方へ向かう」だけではなく「向き合う」というところまでが守備範囲に入ります。このようにtoのコアイメージを的確につかめばto不定詞に応用できます。

 

2a) I am able to swim 50 meters.(50メートル泳げます)

 

2b) I was able to swim 50 meters yesterday. 

                   (昨日50メートル泳ぐことができた)

  

  用例2aは「泳げる能力がある」という意味なので泳ぐという行為は実際には「未実現」あるいは「未達成」です。これに対して2b)は泳ぐという行為を「実現」あるいは「達成」したことを表します。この用例はcouldが実際には具体的な行為を実現しないことと対比されます。それはtoが文脈に応じて達成までを守備範囲にするからです。

 他にもhad toやused toが具体的な行為を実行したことを含意します。具体的行為として「未達」「未確認」を含意する法助動詞mustやwouldと比べて、助動詞相当語句が具体的行為の「達成」を含意します。これは無標の機能語toの守備範囲の広さに関係付けることができます。

 

 to不定詞は、そのコアの広さから他の語句と関連して、文脈により「未達成」から「達成」まで対応できます。つまりto不定詞自体が「未来的」というよりも他の語句が未来的であればそれに対応し、現実的であればそれにも対応できるのです。

 

 to不定詞の汎用性はtoが持つコアの広がりとは別に、不定詞自体にもあります。不定詞のとらえどころの無さは、その歴史的経緯からわかります。

 ただし、歴史的経緯といっても、英語の標準化が始まる18世紀事前は地域ごとに文法も異なり、記録するすべが限られていた頃のことです。あまり厳密性を求める意味はなく、今日のコアにつながる経緯で十分です。

 

「Friesの「American English Grammar」によると、古代英語ではtoつき不定詞と原形不定詞の使用比率は原形不定詞のそれが約75%であるに反して、toつき不定詞の使用率は約25%に過ぎなかったと述べられている。これは言うまでもなく、古代英語においては不定詞は~anの語尾を持つ動詞的名詞の性格が顕著で会って、主語にも補語にも、また目的語にも自在に原形不定詞が使用できたことによるのである」

                四方田敏『不定詞に於けるtoの出没について』

 

「現代英語において,不定詞(Infinitive)は,前置詞toを伴なった形式で表現されるのが普通である。この形式の不定詞が文中の動詞的または名詞的な機能単位に対して従属的に関係する。Morgan Callaway,Jr.の綿密周到な研究The Infinitive in Anglo-Saxon(Washington, 1913)によれば、古英語における主語および名詞的叙述語の用例は総数378のうち,単純不定詞が113,前置詞付き不定詞が265であるという,つまり前者30%後者70%の割である.」

           山川喜久男『英語の不定詞に見られる主格的機能の発達』

 

 これらの論文や他の資料から、大きな流れは次のようなります。

 古英語期には語尾が屈折して文法性を示していた動詞が次第に語尾の屈折を失っていきます。そのうち、先行する前置詞が無いものと有るものがあり、それが今日の原形不定詞と、to不定詞です。

  原形の方は、動詞writanの語尾-anが消失してwriteになります。動詞語尾無くし、動的な語が名詞のように静的な語になります。

 to不定詞の方はto writenneの与格不定詞語尾-enneは 1500年頃までに消失して、to writeになります。こうして前置詞+名詞という構造からto+不定詞に移行したことになります。

 古英語期には原形不定詞の使用比率が高く主語や目的語や補語として自在に使われていました。その後、時代を経るにしたがって比率が逆転しto不定詞が一般的になります。その経緯からいえば、不定詞は、動詞的性質と名詞的性質の両方ともあるということになります。

 

 例えば、元は動詞swimanから標識として機能していた語尾-anが取れ、無標のswimになります。動詞語尾の消失は、使用する品詞を制限する標識が無くなり、動詞以外にも使うようになる素地を作ったことになります。

 語尾の消失から原形不定詞への移行は、日本語で言えば「動きだす」とか「動きまわる」というように動的な言葉の語尾がなくなり「動き」という静的な言葉になったという感じでしょうか。

 

 同時期に名詞の格を示す語尾の消失なども進み、屈折(語形変化)で品詞という文法性を示す仕組み自体が退潮していきます。そうして英語の文法が大きく転換し、屈折に代わって、機能語と語の配列によって無標の内用語に文法性を与える仕組みになります。

 例えば、無標のswimは発達した機能語と配列によって様々な文法性を持ち汎用されます。 標識aによって文法性を与えたa swimは「ひと泳ぎ」という名詞になります。 I swimやwill swimのように配列すると動詞として働きます。

 swimに先行するa、I、willは後置するswimの文法性を決める標識という文法機能を持つ機能語と見ることができます。[a+swim]、[I+swim]、[will+swim]はいずれも

[機能語+内容語]という現代英語の基本的な型なのです。

 かつて優勢だった原形不定詞が後にto不定詞に代わっていきます。[to+不定詞]の構造もやはり[機能語+内容語]です。この基本構造に収斂していって現代英語になったということです。

 

 to swimenne型の方は昔は他にさまざま前置詞と結びついていました。その名残として、現在でもexcept, but, than, about, besidesなど特定の前置詞の後に原形不定詞が起きます。

 Sandy can do everything except cook.(サンディは料理以外は何でもできる)

 She did nothing else than laugh. (彼女は笑うしなかった)

 = She did nothing but laugh.  ※butは昔は前置詞でした

 

 様々にあった前置詞はほとんどが廃れ、結局toと結ぶ付くto swim[to+動詞の原形]という型が一般的になります。構造的には[前置詞+名詞]なので、副詞的用法はこの型が担っていました。

 このto不定詞型と原形不定詞は、使役動詞[make+O+to 不定詞/原形不定詞]のようにしばらく併存していました。規範文法がlet、make、see、hearなどは原形不定詞を使用するように統一する教育政策もあって、原形不定詞が残ります。ただし、大勢としては原形不定詞は退潮し、to 不定詞が一般的になって今日に至ります。

 結果として今日では、以下のような型に分かれます。

 [let/make/have+O+原形不定詞]

 [see/hear/feel+O+原形不定詞]

 [help+O+原形不定詞/to不定詞]

 [allow/cause/get+O+to不定詞] 

 

 一般的には標識は使用法を制限しますが、面白いことに標識toは無標の語の自由度を保証するように見えます。[to+原形]という型は、動詞的な機能と性質を残しながら、多様な文法性をもっています。人によっては、aやtheが名詞の冠詞であることになぞらえて、toを動詞の冠詞と言ったりします。

 to 不定詞は、動詞のように目的語や補語を従えるという動詞の機能を持ちながら、文の中では主語や目的語など名詞的な働きや他の品詞として働きます。

 

3a) I'd like to swim in this river.  (この川で泳ぎたい)

 

3b) To swim in this river is prohibited. 

                  (この川で泳ぐことは禁止されています)

 

 3aではto swimはlikeの目的語なので名詞的ではありますが、発話者が今ここで「実際に泳ぐ」という具体的な行為を含意しています。3bは文の主語なので名詞的ですが、特定の誰かの行為ではなく、「ここで泳ぐということ」という一般的な意味合いがあります。

 

 同じ不定詞の名詞的用法といっても、主語として使う(Sの位置に配列する)か、目的語として使うか(Oの位置に配列する)で性質が変わります。主語では名詞的な性格がでて、抽象的で堅い表現になりやすい傾向があります。目的語では述部の一部になることから具体的で動的な表現になりやい傾向があります。

 例えば、Mary had a walk in the garden.の中のwalkは形式上はhaveの目的語です。しかし、意味的には軽動詞のhaveは機能語化して意味を希薄化し、動作的に意味を担うのは walkの方です。同様にtake a kickやmake a turnのような軽動詞構文では、軽動詞の目的語になっている無標の内容語が動詞的な意味を担います。

 

 次の2文を比較してみます。

 

4a) Mary used to walk in the garden. (メアリーは昔に庭園を散歩していた)

 

4b) Mary had a walk in the garden. (メアリーは庭園を散歩した) 

 

 一般的には(4a)では、used toを助動詞相当句とみなしてwalkはinfinitive(原形動詞)と解釈します。(4b)では、hadを述語動詞Vとみなしてwalkは目的語Oと解釈し、品詞としては名詞とされます。

 分析は解釈法であって正しい1つの答えがあるわけではありません。見方を変えると、usedもhadも文法化の一般的傾向である意味の希薄化が生じています。またto、aはどちらも後続する無標の語の文法性を示す標識です。(4a)と(4b)はまったく文の型が異なるとも言い切れないところがあります。

 一般的な分析ではwalkの品詞は原形動詞、名詞ですが、意味合いとしては(4a)も(4b)も動詞的であるとも言えます。walkは無標なので品詞は事後的な解釈で、名詞的であったり動詞的であったりするのです。

 

 ここで改めて、冒頭に挙げた2文を比較します。

 

5a) He is to blame. 

 

5b) He is to be blamed.

 

 to blameとto be blamedは、図式化すれば[S+is+X]という配列のXの位置に置かれています。このbe動詞に後置されるXは、文法的働きのスクランブル交差点のようなところです。補語Cとしてみれば、名詞や形容詞とされる要素になります。またing形をおいて[be -ing]の型を一体とする進行形となり、過去分詞を置けば[be done]の型を一体とする受動態になります。

 無標のblameは文中の働きによって品詞が変わります。to 不定詞を補語としてみれば名詞的あるいは形容詞的と解釈できます。また[be to]を一体としてみれば原形動詞と解釈できます。

 (5a)では、to blameは屈折しない名詞や形容詞のような意味合いと解釈する人が好む形ということです。「責任をとるべき人」というような概念です。

 それに対して、to be blamedは態変化しているので、動詞的な意味合いと解釈する人は好む形ということになります。「非難される(べき)」というような概念です。

 

 このto blameとto be blamedは意味合い自体が違うと主張する人もいます。「形が違えば意味は違う」ということを原理主義にしている立場の人です。その主張の1つは次のようなものです。

 

「to不定詞の述語が、受動のマーク無しで受動態の意味を持つ文と、受動態になった文は、一見意味は同じに見えるが、前者は義務または可能などのモダリティを持つことが知られている。

 

a.He is to blame.

b.He is to be blamed.

a.は「非難すべき」という「義務」のモダリティを含む。b.にはその要素はない。

 

a.Jenny is definitely somebody to keep an eye on.

b.Jenny is definitely somebody to be kept an eye on.

a.は、「目を離してはならない」という「義務」のモダリティを含む。

 

a. The water is to drink.

b. The water is to be drunk.

a.は「可能」のモダリティを含む。

 

a.This in turn makes you that much of a harder target to hit.

b.This in turn makes you that much of a harder target to be hit.

a.は、「可能」のモダリティを含む。

 

a.The book is easy to read.

b.The book is easy to be read.

a.は「可能」のモダリティを含む

 

a.I am the wrong person to ask.

b.I am the wrong person to be asked.

a.は物事を「たずねられるべき」ではないという「義務」のモダリティを含む。

 

 上記の例が示すように、受動態のto不定詞の文と、受動のマーク無しに受動態の意味を持つto不定詞を含む文は、全く同じ文意を持つわけではない。しかし、その差異が発生する原因については、今回の調査では明らかにはできなかった。」

                                            柳瀬弘美『To不定詞についての一考察』2021

 

 モダリティというのは主観的な「想い」が入っているということです。モダリティが入っていないというのは、客観的だということです。

 

 この論文にあるaタイプは主観で、bタイプは客観という使い分けにどれほどの意味があるか検討してみましょう。

 bタイプのYou are to be blame.はモダリティを含まないとすれば、「わたしは客観的に非があると言っているだけで、主観的に非かあると思ってはいないよ。」という意図で使うということになります。実際にそのように使うものでしょうか?

 仮に現状の一般的な社会的コードがto blameにはモダリティがあり、to be blamedにはモダリティがなく客観性があったとして、その区別は本当に有効とは言い切れません。実際の人との会話では、客観的な表現を使いながら実際には、本音だってことはよくあるでしょう。

 

 言語学では、主観化という現象があることが知られています。話し手がもともとは客観的事実を表す言葉を発話しても、それを受けた聞き手が想像力を働かせて主観性を感じます。そうして、もともと客観的事実を表していた表現が、使われるうちに主観的な想いを表す表現へと変化することを主観化というのです。

 例えば、法助動詞canは昔は「やり方を知っている」という客観的な意味でした。それが使われていくうちに「やろうと思えばできる」、「やろうと思えばやっていい」というような主観的な「想い」を表す表現へと変わっていったのです。

 

 発話者が客観的な表現として使っても、受信者が「想い」を感じその表現自体がモダリティを帯びるのは、現実によくあることです。

 語感は世代や個人により異なります。言語は変化するものなのです。

 

 言語学では社会的コードと個々の発話を区別します。ざっくり言うと、ソシュールは前者をラングと呼び、後者をパロールと呼び区別しました。このとき、言語学が求めるものはラングに属する社会的コードとしました。だから、ラングを重視する学者は多いのです。

 しかし、私たちは学者じゃありません。実際に日常使うのは個々の発話であるパロールの方です。そこには人としての感情の機微があります。主観化という現象は、人の感情の機微が生むのです。

 

 伝わり方の違いの程度によりますが、選択によって自分の意図が誤解されるようであれば、その違いを知って使い分けることが必要です。しかし、でコミュニケーション上支障にならないニュアンスの違いであれば、過度に気にすることはないでしょう。

 人に想像力がある限り言葉は変化します。ことばに絶対的な唯一の正解などないものです。文法は参考にはなりますが、それは出発点に過ぎません。語感は自分で育て行くものだと思います。言葉を選択するのは自分自身ですから。

 

 不定詞を扱う上で大事なことは、名詞とか動詞とかいう品詞名は、もともと屈折言語であるラテン語からの借用で、屈折を失った無標の不定詞にはそぐわない面があるということです。いちいち品詞分類しないと気が済まない人は結構いますが、英語は英語であってラテン語ではありません。

 不定詞はもともと動詞だった語が名詞的になった、あるいは前置詞toという機能語がさらに機能特化した極めて英語らしい表現です。その構造[to+原形]は現代英語のモジュール[機能語+内容語]の典型です。英語話者は、文法性が薄れた[機能語+内容語]という構成単位を、品詞の制約を超えて、語の配列によって様々な文法性を持たせて使いまわすのです。それが現代英語の文法的特徴です。

 

 たまに、「品詞」に関わらす形容詞を副詞的に使ったりする英語のネイティブを見て、「文法がでたらめ」とかいう日本人がいます。その人は自分が知らずしらずのうちにラテン語という色眼鏡をかけていることに気づいていないのでしょう。

 英語のネイティブは、単語の品詞を気にせず、機能語を語の配列を駆使して、伝えたいことを表現しているのです。それを外国語として学ぶ私たちが、教養が無いとでもいうかのように非難するのは失礼なことだと思います。

 

 英語の本質について、ピンカーは次のように記しています。

「自称指南役たちは昔から、英語の話し手が無造作に名詞を動詞化すると、嘆いてきた。…じつは、名詞が動詞化しやすいことは、何百年もまえから英語文法の特徴になってきた。英語を英語にするプロセスの1つなのだ。私の推定では、英語の動詞の約5分の1が元来は名詞だった。」

「普通の話し手はそんないい加減ではないし、想像力にかけているわけではない。名詞のcaveatが動詞になったり、自動詞のdeteriorateが他動詞になったりする根底には、単語の品詞を変え、それに伴って役割の担い手を変える抽象的なルールがあり、何十何百の単語に適応される。」

「英語はラテン語とは言語の種類が違う。複雑な構造の単語を自由に並べる言語ではなく、単純な構造の単語を構造的に配列する孤立言語である。不定詞も補文標識のtoと動詞の2単語で構成されている。」『言語を生み出す本能』1995

 

 外国語の習得は、その言語の話者が使っている表現を、謙虚に学んでいくことが大切だと思います。