引島は彦島、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

引島は彦島

むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。

ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。

ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。

また、こんな説もある。

むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。

だから、今でも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。

さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。

そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。

時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」

それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


(富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より)(彦島のけしきより)


参考

① 干潟を埋め立てた大和町・東大和町が無かった頃の彦島と関門海峡

1920年(大正9年)   中央の白いところが干潟


② 契丹古伝によると本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となった(参考)


③ 関門海峡は神代の時代から浚渫され続けたようだ(参考)