関門海峡は神代の時代から浚渫され続けたようだ! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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関門海峡は地質学的には6000年前に自然に出来たようだ。しかし、明治時代までは浅瀬に岩礁がある急流の海峡で海峡を船で通過することには困難がつきまとった。明治後期になって浚渫を始め、今も浚渫を行い、砂が堆積するのを防ぐために未来永劫続けていくようだ。すなわち、超古代に関門海峡が自然に出来たとしても砂がたまって塞がれ、陸繋島の類になることが考えられる。

神功皇后が本州と九州が元々は繋がっていたものを開削して、関門海峡が出来たとの伝説がある。しかし、現在の広大な関門海峡を見ると、人工的に開削したとは誰も信じないと思う方が当たり前である。しかし、古代の北東アジアの国、契丹の古文書、契丹古伝に「本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となった」と書いてあった!

どうも、関門海峡の長い歴史の中で、何度も砂がたまって塞がれたことがあるのであろう。この砂を人力で取り除いた歴史が、神功皇后伝説などに残ったと思われる。


参考

① 関門海峡の浚渫(参考)

古来関門海峡は、我が国屈指の要衝として聞こえたところであったが、往時の海峡は、大きく湾曲した水路に与次兵衛岩、金伏瀬を初めとする岩礁、浅所が随所に散在して、航路を複雑狭隘にし、加えて名にし負う急潮渦巻き、天下の難所として海の男たちの大いに恐れるところでもあった。ここにおいて、政府は、海難の防止と海運の振興のため、海峡の大改良を決意し、明治44年4月この地に内務省下関土木出張所を開設して、その事業に当たらせると共に、西日本一体の公共土木事業を所掌させることとした。


② 関門海峡は簡単に通過出来なかった(参考)


③ 明治29・30年頃の関門海峡の浅瀬の位置(参考)

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④ 関門海峡は元々陸続きであった(参考)

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。 


⑤ 関門海峡の歴史(wikiより)

約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。


⑥ 関門海峡の地質(参考)

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⑦ 関門海峡 早鞆瀬戸付近のサンドウェーブについて

海上保安庁(平成14年12月26日発表 、参考)

関門海峡では、各地で強い潮流によるサンドウェーブ(砂浪;sand wave)の存在が知られています。

サンドウェーブは、流れの強い海域の海底に、海底の砂粒が流れによって運ばれ堆積する現象で、海峡部では海峡中心部の流れの強すぎる所では存在しませんが、海峡両端入り口付近などの、強い流れから比較的弱い流れに変る海域の砂の海底に発達し、砂州や砂堆の上にも大小さまざまな砂の波として存在することや移動・変形していくことが知られています。

関門海峡では、壇ノ浦から田野浦に至る早鞆瀬戸付近、彦島の西山ふ頭から対岸の戸畑区に至る海域などで、大規模なサンドウェーブの発達することが知られています。

今回、関門海峡早鞆瀬戸付近の潮流と海底地形の関係を調査するため、測量船「はやしお」のマルチビーム音響測深機を使用して調査を行った結果、調査海域では長さ200~250m、波長が約90m、波高3~4mのサンドウェーブが東西約650m、南北約250mの海域に北東方向から南西方向に向かって数列発達していることが明らかになりました。(別 図) 

大規模なサンドウェーブの発達は、関門海峡の水深の減少とともに航行船舶の安全確保を図る上でも危険なため、国土交通省九州地方整備局と共同で水深調査を行い、特に航路内での水深減少については、航行警報や水路通報で海事関係者に周知しています。

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⑧ 契丹古伝(参考)

『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。


⑨ 下関市の埋立地や人工島の造成は、関門海峡の航路浚渫土砂を利用(参考)

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10 深坂の溜池の土木工事(参考)、、、つい最近まで、牛馬も使わず人手のみで作業を行なっていた。

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昔から大きな川のない安岡、川中地区では毎年水不足に悩まされ稲作にとっては命である水を確保するのになんとか出来ないものかと時の村長伊村雅重さんに村民が相談を持ちかけ伊村村長を中心に結束し、反対する村民を一集落づつ説明して廻り溜池の構築に漕ぎ着け、大正2年4月安岡耕地整理組合を設立された。溜池の場所として安岡地区で一番高所で集水面積が広く幅の狭い谷間を選んで堰止めし、現在の深坂溜池が完成した。

大正7年着工~大正13年完成、工事は当時のこと「ツルハシ、スコップ、モッコ、トロッコ等」で構築、延べ13万人の人手により完成当時の金で30万円を要した。

貯水量135万トン 堤防の長さ(土堰堤)233m 巾7.3m 水深24.55m 高さ26.2m 満水面積13.4ha 集水面積260ha全国有数の歴史のある溜池(土堰堤)です。


11 大きく離れた島と陸が繋がった日本最大級の陸繋島の例:

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男鹿半島

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函館半島

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福岡市の海の中道

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山口県の平生町から田布施町、柳井市あたりはかつて海峡であったと言われており、遣新羅使の航海ルートになったとの説もある。


12 人手により開削されて出来た海峡の例

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平清盛が命じて開削したとの伝説!広島県呉市の音戸の瀬戸
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明治時代に開削された!対馬市の万関瀬戸