古代中国大陸にも縄文人が居住し、殷王朝や末裔の秦、斉、宋、楚、さらに魏、晋、隋、そして唐などでは当時の原日本語が喋られていたことを論証した。
それでも、広大な大陸では原日本語と言っても方言が存在して口頭で会話するには通訳が必要であったと考えられる。現代の日本においても微妙な発音の違いで、下関など西日本の人に対し、東北の人とか、鹿児島・奄美・沖縄の人とはコミュニケーションに困難が伴う場合がある。また、現代の中国語においても、北京語(普通語)と広東語などの方言は、通訳無しには意思疎通が困難であり、別言語と言える。
古代の東アジアで、同じ原日本語を喋る人々の間でも、当然、通訳が必要であったと考えられる。もちろん、共存していた漢民族などとは口頭の会話は困難で、漢文による筆談か通訳が必要であった考えられる。
ところで、『唐六典』によれば、唐の鴻臚寺に通訳(訳語)が設けられていたと記されているが、日本語の訳語はほとんどいなかったようだ!滅多に日本人が唐に来なかった訳では無く、遣唐使と唐の皇帝や高官とは直接に会話出来たと考えられる。
参考
① 訳語(おさ、wikiより)
古代日本における通訳のこと。通事とも表記された。
概要
だが、世代を重ねるにつれて言語の変化もあって世襲の氏による訳語の価値が減じ、代わって留学経験者などが訳語の役目を務めるようになった。また、大学寮においても音道が設けられていたが、9世紀前半には世襲や大学寮による育成は形骸化し、そのため来日外国人から教授を受けたり、当人を訳語に抜擢する方法が採用された。
『延喜式』には遣唐使・遣新羅使・遣渤海使などに訳語・通事が置かれたことが知られる他、新羅訳語・奄美訳語などの官職が存在したことが知られている。新羅訳語・奄美訳語については、漂着時に備えて新羅や奄美の言葉を話せる者を同行させたとする見方と、新羅・奄美出身の訳語とする見方がある。
当時の東アジアでは漢字および漢文が広く用いられていたことから遣唐使なども文書を読むことや筆談に関しては支障がなかったとみられているが、会話に関しては訳語なくして円滑なコミュニケーションを取ることは困難であった。また、唐国内では遣唐使などの外国使節は役人以外の唐の人々と会話をすることは禁じられていた(『唐律疏議」巻8衛禁・越度縁辺関塞条疏議所引「唐主客式」)が、現実には船が漂着した時や必要文物の調達などのためには現地住民との会話が必要となるため、訳語の存在が必要であった。また、留学生においても同様であり、最澄は同行していた弟子の義真が訳語としての能力を有していたおかげで業を為し得たことが知られている(『扶桑略記』延暦21年9月2日条)。
なお、『唐六典』によれば、唐の鴻臚寺には定員20名の訳語が設けられていたと記されているが、その多くが新羅などの近隣もしくは使者の来訪が多い国の訳語であったとみられ、日本語の訳語はほとんどいなかったとみられている。
⑤ 礼賓図(壁画模写)
[和:れいひんず]【中:Li bin tu】
唐時代
高184cm 幅242cm
1971年陝西省乾県章懐太子墓出土
陝西省博物館蔵
この壁画の左側に立つ3人は唐の鴻臚寺の役人で、その袍衣が朱色であることから、四・五品の官であると推定される。4番目の人物は丸顔、禿げ頭、濃い眉、深目高鼻で『旧唐書・拂菻(東ローマ帝国)伝』によって推測すると、東ローマ帝国の使節かもしれない。5番目の人は頭に羽毛の帽子をかぶり、直立する2本の烏の羽をつけ、身体には長袍を着て、腰に帯を束ね、黄色靴をはいている。『旧唐書』の日本・高麗に関する記載によれば、日本あるいは高麗の使節かも知れない。6番目の人は毛皮の帽子をかぶり、丸首の灰色の外套をはおり、毛皮のズボンをはいているが、『旧唐書』の室韋・靺鞨(ともに中国東北部の民族とくに渤海国と呼ばれる)に関する記載によれば、この人は中国の東北の少数民族の代表かもしれない。この壁画は、当時の中国と外国および国内各民族の間の交流の史実を記録し、唐代の中国と外国の友好往来を研究する上で珍しい貴重な資料である。出所:中国陝西省文物展悠久の遺産1987
⑥ 日本語の起源、、、中国大陸にも原日本語が喋られていた。秦の始皇帝の生きた時代、羌、秦、斉、楚、宋などが原日本語が喋られていた