技術に堪能なる士君子、九州工業大学の教育理念 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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国立大学法人の九州工業大学は今から100年以上前の明治42年(1909年)に私立明治専門学校(明専)として開学した。著者が入学式で真っ先に聞かされたのは、開学時の校長であった山川健次郎先生の教育理念技術に堪能(かんのう)なる士君子」になれであった。

白虎隊士の生き残り山川健次郎先生は兄の浩とともに、戊辰戦争を最後まで戦った会津藩を賊徒扱いする歪んだ史観を打破しようと『京都守護職始末』を執筆し、 兄の死後の明治34年、これをもって会津松平家の困窮を救うための手許金を、宮中から下賜されることになった。先生は明治の世にあって、社会を正しく導く見識を持った人という意味で、「星座の人」と呼ばれ、多くの人から尊敬を受けた。その後、先生は私立明治専門学校や旧制武蔵高等学校の校長、九州帝大、京都帝大、東京帝大の総長に就任し、そして、先生は生涯、質素な家で暮らし続け、壁に架かるのは保科正之の「会津藩家訓」と、恩人である奥平謙輔の書のみであったという。

このような山川健次郎先生を九州の私立明治専門学校の校長に招いたのが、旧福岡藩士であり、北九州の炭鉱経営に関わる実業家の安川敬一郎であった。彼は、戊辰戦争に引き続く武士の反乱であった福岡の変や西南戦争に影響を受けた政治結社の玄洋社(参考)のスポンサーであった。

すなわち、安川敬一郎は思想信条、価値観が全く一致する当世随一の古武士然とした学者の山川健次郎先生を招聘したことになる。

今まで漠然と受け取っていた山川健次郎先生の教育理念技術に堪能なる士君子になれ」は、科学技術を身につけた紳士くらいにしか理解されていないし、九工大の先生も正しい意味を受け継いではいないと思われる。

明治時代の背景を考えると、刀の代わりに科学技術を身につけた武士になれ!と理解した方が正しい。明治維新後、世襲の職と刀を失った旧士族達の子弟に、科学技術を身につけた誇り高い武士になることを要求したのであった。

九州工業大学戸畑キャンパスの正門
昭和46年まで存在した九州工業大学の本館(参考)、東京駅を設計した辰野金吾氏の作品
昭和46年以前の九州工業大学(本館と明専寮が在る)
山川健次郎先生(wikiより)


参考

① 私立明治専門学校創立者の安川敬一郎(wikiより)
 

安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(福岡藩士)、戦前の実業家、政治家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松

同志的な繁がりがあった平岡浩太郎により、1881年(明治14年)に福岡に玄洋社が創設されると社員となり、安川の炭鉱経営による豊富な資金が、その後の玄洋社の活動を支えた。辛亥革命が起こると、頭山満の大きな再三の反対を顧みず、孫文を神戸から東京に迎え、自分の隣家を孫文の隠家に借り4年間、毎月孫文に5百円の生活費を提供していた。また、漠冶萍公司との共同事業として辛亥革命後、中国から銑鉄の供給を受けることとし、艦船用厚板製造を主たる目的として中国との合弁企業を始めた(後の西八幡の九州製鋼株式会社)。その他、著書『撫松餘鎮』(昭和10年出版)では黒龍会の活動を記した。

1907年(明治40年)技術者養成を目的とし、明治専門学校を戸畑に設立。1908年(明治41年)松本及び三男の安川清三郎と共に明治鉱業株式合資会社を設立。1909年(明治42年)4月明治専門学校開校。1910年(明治43年)松本と共に「明治専門学校附属小学校(現:明治学園)」を創立。1913年(大正2年)、反袁世凱を掲げて中華民国前臨時大総統として亡命した孫文を戸畑の明治専門学校に迎え、返礼に「世界平和」と書いた書が贈られた。


② 玄洋社(wikiより)

当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令した。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。


③ 玄洋社の頭山満(wikiより)

明治9年(1876年)に秋月の乱萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。


④ 士君子(し-くんし、wikiより)

旧制熊本中学校の末期の戦時中には、“士=さむらい”と解されていた。

現在、士君子学問、人格ともにすぐれた人、徳行の高い人と解されている。


⑤ 旧安川敬一郎邸(参考)


⑥ 私立明治専門学校の初代校長の山川健次郎先生の教育理念、「技術に堪能なる士君子」