頭山満の玄洋社と広田弘毅 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治になって旧藩士ら士族は失業するが、士族と表裏の存在の被差別民達も江戸時代までの独占的既得権益を失った。

独自研究によると、明治になって既得権益を失った旧士族と被差別民達が、下層ではヤクザなどの暴力団、中層には右翼的秘密政治結社、そして上層には自由民権運動に基づく政党などを結成して、明治維新以来の政権と社会に対して批判と横車などの対抗的活動を活発化した。

旧福岡藩士の頭山満らは、尊敬する西郷隆盛とともに西南戦争を戦えなかった悔しい思いが(参考)、政治結社の玄洋社の原点になっている。右翼の政治結社は、明治維新以来の政権に対して政治的批判を主張し、独自の政治観で活動するために存在した。

頭山満の政治結社の玄洋社も、ある意味、表裏の存在のヤクザと同様に、反政府的な気質と価値観の人々による文化と行動原理を持っていたと考えられる。頭山満の大アジア主義なんて侵略的な行動原理で、明治維新以来の政府の方針に対して先走りや横車を押すような主張であった(参考1参考2)。

第32代の内閣総理大臣の広田弘毅は外交畑の文官ではあったが、陸軍のA級戦犯と一緒に絞首刑に処された。彼ら陸軍のA級戦犯は、ほぼ戊辰戦争時の賊軍となった奥羽越列藩同盟に属した旧藩の没落士族であった(参考)。広田弘毅も玄洋社の秘密メンバーと見なされ、政府の方針に対して横車をおして大東亜戦争に巻き込んだ陸軍のA級戦犯の一味と同類と見做されたと考えられる。

玄洋社ゆかりの地


雑談

福岡藩は幕末、月形洗蔵など親長州藩の尊皇攘夷派が活躍して、七卿を太宰府天満宮に滞在させるなどした。しかし、島津からの養子の藩主、黒田長溥の気まぐれで壊滅した(参考)。

以降、佐幕の藩士達が主流を占めて明治新政府に参画出来ないどころか、反明治新政府的な立場となり、明治10年の西南戦争に呼応した福岡の変を起こした(参考)。

この後に頭山満が玄洋社を作った。


 参考


① 福岡の玄洋社と頭山満(ヤフー知恵袋より)

Q: 玄洋社について質問いたします。

この結社は、GHQから大東亜戦争の開戦におおいに貢献したとのことで、戦後解体されました。

しかし、一方では、杉山茂丸や明石元二郎等のような国際金融資本のエージェントのような人物も輩出しています。頭山満はヤクザの親玉的な人間だったようですし、非常にいろいろ面をもった結社であるようです。

広田弘毅もこの結社の人間でしたが、彼が処刑されたのも、この結社の人間だったからとの分析もされているようです。(それ以外、彼が処刑される理由が見当たらないのですが・・)

この結社の本質をどなたか詳しい方、ご教示ください。


A1: 玄洋社や頭山満に関してはwikipや回答者の方の解説でお分かりかと思いますが、彼は決してヤクザの親分的存在ではなかった。日本の国士でいわば坂本龍馬的存在で、日本国を憂い想い、自分の全財産を、命さえ擲(なげう)った人物で、国政に自分の人生を捧げた。

其の政治思想は国粋的な右翼であり全アジア開放論であった(これが玄洋社の、基本思想)。

この玄洋社に後に政財界に睨みを利かす杉山茂丸(政界の黒幕)らが加わり、更に玄洋社の門下生には内田良平らの人材を輩出するにいたる。

創立者たちは頭山、箱田六助、平岡浩太郎らで、後に日露戦争で大諜報で英雄となった赤石元二郎と同様旧福岡藩士だった。其の日露戦争には、玄洋社から義勇兵となり大陸に渡り当地の反ロに燃える支那人を募り、ロシア軍相手に大活躍を展開する。

話を頭山満に戻し、同じような右翼の大物で戦後日本の黒幕と騒がれた児玉名誉士夫(ロッキード事件)とでは雲泥の違い、児玉みたいに守銭奴・金の亡者なんかと違う、頭山のスケール・人間の器(うつわ)は坂本龍馬にダブり、これを語ると長文になるから割愛・・

一方広田弘穀に関しては、福岡県福岡市出身で玄洋社とは浅からぬ縁があったようであるが、彼の現役任期中の政治家としての重要なポジション(総理大臣や外務大臣を歴任)に、日本は軍部が暴走し、日中戦争ならびに太平洋戦争に至らせた事への抑止出来なった責任をGHQに追求されたようです。厳密には広田自身が職責を問われる問題であったかどうか、広田は弁明すれば誤解を解けたものだったが、一切の弁解をせずに民間人でただ一人A級戦犯となり刑場と露となり消えていったものだったようです。


A2: 玄洋社…1881年、旧福岡藩士が中心となって設立された秘密結社の事。

母体となっているのは指導者的存在の頭山満が設立した「向陽社」で、その思想をさらに過激化した組織と言われている。

「玄洋社」の基本的な思想は板垣退助が唱えた「自由民権運動」だが、根本には「皇室を敬愛すべし」「本国を愛重すべし」「人民の主権を固守すべし」と言った右翼思想である。又、頭山自身、西郷隆盛に傾注していた人物で西南戦争の前身となる「萩の乱」に連座して投獄された経歴を持つ。

この為、頭山は思想のためには手段を選ばない『実力行使をもいとわない過激な結社』として「玄洋社」を設立したとも言われ、当時政治の中心にいた「薩長藩閥政治」の打倒を目的にしていたと考えられている。

「玄洋社」が歴史の表舞台に姿を表すのは1892年の「第二回衆議院選挙」だが、この時には時の政府に協力し大々的な選挙干渉を行っている。その他、1889年の「大隈重信爆弾テロ事件」や1932年の「血盟団事件」に関与していたとも言われているがいずれも確証はない。

「玄洋社」の思想は後に「大アジア主義」に変換している。良く「大アジア主義=大東亜共栄圏思想」と言われるが、考え方は根本的に違う。その為頭山自身、満州国建国や日韓併合には反対の意を表明している。

1946年「玄洋社」はGHQにより解散させられているが、戦争に加担した事で解散させられた訳ではない。「玄洋社」は孫文の辛亥革命を支援していたと言われ、その他インド、フィリピン、アフガニスタン、韓国等の独立、革命を支援したと言われている。その為、GHQに危険視され解散させられたと言われている。尚、「玄洋社」のメンバーで戦犯として処刑された者はいない。


A3: 福岡の高場塾の塾生が中心となって成立した政治結社ですが、自由民権運動に同調するなど反政府的スタンスを取りながらも、品川弥二郎の選挙干渉に加担したりとよく分からない面があります。

官憲からかなり警戒されましたが、来島恒喜の大隈重信暗殺未遂と読売新聞主筆の高田早苗襲撃以外に大きな事件は起こしていないと思います。

広田弘毅も岳父月成功太郎が玄洋社員であった関係があり、玄洋社や黒龍会の秘密メンバーと疑われ、判決に大分不利に働いたようですね。


② 頭山満(wikiより)




③ 玄洋社(wikiより)




④ 内閣総理大臣、広田弘毅(wikiより)、、、玄洋社の社員と考えて良い。


猷館卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣山座円次郎内田良平杉山茂丸の知遇を得た。玄洋社幹部・月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。


⑤ 安川電機の創業者で九州工業大学の創立者でもあった安川敬一郎(参考)は玄洋社のスポンサーであった。

安川敬一郎(wikiより)