東京アメリカンクラブ、麻布 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

自動化されてからボウリング場が出来たと勘違いしていた。最初期のボウリング場は人手でピンを立て直していた。戦後の日本の人件費の安い時期に、アメリカ人などの外国人がレジャーを楽しんでいたことになる。

日本人として複雑な思いがする。発展途上国に旅行した日本人が当時のアメリカ人と同じことをすると、現地の人々から同様に複雑な思いをされるであろうことを肝に銘じておこう。

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黄印: 東京アメリカンクラブ、ロシア大使館の南側

西側の坂(ピンク印あたりの南北道)が狸穴坂、江戸時代までタヌキの巣穴があったので、そう名付けられた。

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東京アメリカンクラブ正門、右手がロシア大使館


参考

<あのころ>汗だくの舞台裏 ボウリング場のアルバイト

共同通信(2017.8.24、参考)

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1956(昭和31)年8月24日、東京・麻布の会員制施設「東京アメリカンクラブ」のボウリング場で汗だくになって両手でピンをそろえるアルバイト学生。民間の施設は52年に東京・青山にできたのが最初。61年に自動式のピンセッターが登場すると数も増え、大衆レジャーとして普及していく。