武士とヤクザの起源の一考察 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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江戸時代、徳川幕府は戦国時代の戦に負けた武士や足軽など、すなわち幕藩体制下の正式な武士や足軽となれなかった者たちの生活を安定させるために、既存の農工商以下の下層階級の独占的な既得権益として仕事を認めたのが、武家奉公人や博徒や的屋や穢多などの被差別民の大きな起こりであったと考えられる(参考)。

それまでも、色々な騒乱や飢饉で社会の枠組みから外れた人々が発生していたのは当然、考えられる。彼らが徒党を組んで野武士とか野盗などの武士になったと考えられる。また、これらに対抗する社会の枠組み内の用心棒も武士になったと考えられる。

江戸時代初期に現れた傾奇者は、武家奉公人の若党や中間や小者が派手な格好で徒党を組んで悪さを行ったことで、そう呼ばれた。この傾奇者が現代のヤクザに繋がったともされている(wikiより)。

そして、被差別民の博徒の親分が賭場を開帳しながら、奉行所から十手を預かったり、火消しや飛脚の役割を担ったように、支配階級の武士と最底辺の被差別民は表裏一体として独占的な既得権益を与えられて社会を構成していた(wikiより)。

明治維新による四民平等と職業選択の自由で、武士と被差別民が独占的既得権益を取り上げられて路頭に迷ってしまった。

現在の暴力団としてのヤクザ組織は路頭に迷った武士や被差別民が団結したもので、明治維新後の法治主義の社会に抵抗しながら生存してきたと考えられる。そして、江戸時代は黙認されていたが、明治からは取り締まられる賭場や、戦後禁止された遊郭を依然として水面下で経営することとなる。

ヤクザの起源をヤクザに聞くと、元は武士で強盗から自分の家や故郷を守っていたと言う。ヤクザ組織を見ると江戸時代の幕藩体制によく似た階層構造になっており、また任侠道と武士道は同列のもので儒教が教えるような親子の絆を仁義として構築している。現在のヤクザ組織の資金源は「みかじめ料」と言う一種の年貢の徴収や賭博などの犯罪収益などであり、江戸時代までは幕府黙認で犯罪とは言い難かった。また、彼らの組織間の抗争は戦国時代の戦によく似ている。

京都のヤクザ組織の会津小鉄組の始祖の小鉄は、京都守護職の松平容保の屋敷に出入りしていた中間であった。

新渡戸稲造が説明した武士道は西欧諸外国に武士文化を美化して紹介したことに始まるが、武士道なんて元々無いことが当然の定説であり、ヤクザ組織の文化が本来の武士の文化を保存していると考えられる。


雑談1

江戸時代の支配階級の武士と被差別民(現在のヤクザ)の違いは、前者が支配階級の維持に必要な儒教(朱子学)に沿って徹底に教育されたのに対し、後者は下層階級に置かれて中途半端な仁義を教えられたことに由来すると考えられる。


雑談2

ヤクザはどうして法律で禁止された賭博、銃砲不法所持、売春幇助、麻薬取引、、、などの反社会行為を悪びれずに行うのであろうか?実は、江戸時代までは徳川幕府に黙認されて堂々とやっていた生業であったのを、明治維新後から違法とされ、収入源を失ったからであった。

被差別部落とされる地域の貧困化も、明治維新後に穢多だけに認められた屠殺などの独占的既得権益を失って顕在化したと考えられる。

現在の自治体が主催する公営ギャンブルは江戸時代までは博徒が主催していた。現代の在日韓国・朝鮮人が経営するパチンコだけが公然の賭博であり、例外となっている。寺社で主催された「富くじ」も明治後は国の管理下の宝クジなどになった。


雑談3

最近の若者の「傾奇者のようなスタイルと行動様式」をヤンキーと呼ぶが、ヤクザなどの被差別民が多いとされる地域と一致する。ある意味、不良行為の程度に違いがあるが、ヤクザと同類またはヤクザ文化の継承者とも考えられる。



参考

① 古い歴史を持ち、謎に包まれた「日本ヤクザ」の世界

チャイナネット(2011.1.18、参考)


日本には多くの暴力団が存在しそれぞれ違った歴史を持つ。その起こりも歩んで来た道も一様ではない。ヤクザの「鼻祖(元祖)」は皆、「弱いものを助け、強いものを挫く」という任侠の精神を極めた武士たちで、強盗から自分の家や故郷を守っていたと彼らは言う。自分たちが浪人の精神を受け継いでいると言う人も居る(浪人とは、日本の幕末の政治運動に積極的に参加し、藩から脱藩して、自由に各地で活躍する武士)。

他にも、ヤクザは戦国時代末期から江戸時代にかけて現われた異端児である「かぶき者(傾奇者・歌舞伎者)」が由来ではないかと言う人も居る。かぶき者は異様な風貌を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る。大きな刀や脇差を持ち、人々を脅して金品を奪ったり、罪のない人々を殺したりしていた。実際、日本の暴力団社会が形成された背景には、上記で述べたような起源が混在しているように思われる。

明治になり、武士の身分制度がなくなり、心のよりどころを失ってしまった彼らは、暴力や犯罪行為に走るようになった。闇の世界で賭博所や遊郭を経営する武士も現われた。このような落ちぶれた武士や浪人など日本社会に入ってきた新たな勢力には共通点がある。それは、社会からは受け入れられなかったということだ


日本の暴力団に所属している人のことを日本語では「ヤクザ」と言う。この「ヤクザ」と言う呼び方こそ、彼らが社会の中で蔑まれていた事を物語る。「ヤクザ」の語源は花札(日本式のトランプ)で行う博打(ギャンブル)「おいちょかぶ(Oicho-Kabu)」に由来する。札を3枚引いて合計値の一の位の大小を競うゲームである。つまり、0が一番小さい。この時に8,9,3の3枚を引いてしまうと合計が20で一の位は0なので負けとなる。8(や),9(く),3(ざ)は日本語では「ヤクザ」と読むことができる。つまり「ヤクザ」は「何の役にも立たない、価値がない」事を意味する言葉なのだ。

後に「ヤクザ」は、組織を形成して犯罪を行う「暴力団(Boryokudan)」と同じ意味で使われるようになった。マイナスの意味で使われる「暴力団」は、伝統的な信念などはなく、ただ私欲のために組織された暴力を振るう人々を指して、日本の警察が命名した。


今あるヤクザは18世紀の商売人から始まった。これらの商売人は違法すれすれのところで、賭博所を開いたり、商品を押し売りしたりしていた。彼らは「博徒(bakuto)」や「的屋(tekiya)」と呼ばれ、定住することなく、博打や物売りを生業にして世の中を渡り歩いていた。後に彼らは組織を結成するようになり、明確で厳しい等級分けと規則が敷かれた「一家」や「組」といった団体になっていく。現在の日本のヤクザにも「博徒」と「的屋」と呼ばれる二つの派閥がある。


19世紀になると、日本のヤクザたちは「ナショナリズム」や「軍国主義」といった政治的思想と結びついていく。政治家はヤクザを利用し、自分と敵対する者の暗殺に使ったり、貿易に手を出して武器を密輸したり、強いては隣国との戦争にも首を突っ込んでいた。第二次世界大戦後、ヤクザたちは混乱に乗じて、政界や経済界での勢力を強めたのだった。


日本の暴力団はマフィアと同じような組織構成になっている。「組長(Kumicho、マフィアのゴットファーザーにあたる)」が団を全て支配し、その配下に弟分や子分(若頭、若中頭など)、幹部などが服従し、ピラミッド型の階層構造を構成する。他にも、地域ごとの頭や補佐、そして顧問などが存在し、それぞれが自分の会や組をつくることによって、日本の暴力団は膨大で複雑な組織構成になっていく。小さい組同士が連盟を組み、ひとつの大きな暴力団を構成する場合もある。



暴力団は家父長制を模した序列的・擬似的血縁関係によって構築されているため、組員同士は強い絆で結ばれている。「親」は組員である「子」を自分の力が及ぶ限り守り通し、時には叱り、時には諭す。「子」は「親」に対しては、絶対的な忠誠と無条件の服従を誓う。名誉や伝統を重んじる日本の社会は、この繋がりを更に強固なものにしたと言える。しかし、もし「子」が「親」に任された事を上手く処理できなければ、「子」の犯したミスを「親」が完全にかばいきれない場合もある。その時は、「子」は処罰を受けるしかないのだ。例えば、組を抜けるときには小指を切らなくてはいけない。組の中では誰でも「親」になる可能性があるし、一方では「子」になることもある。自分より身分が上の者の前では「子」を演じ、配下の前では「親」になるのだ。


暴力団に入団するにも、擬似的な親子関係を結ぶにも決まった儀式がある。「親子固めの盃」という儀式は、まず新しく入団する者と彼の親分となる者がそれぞれ、注がれた酒を飲み、盃を交換して再び飲む。親分は注がれた酒を飲み干さなくてはいけないが、新人はすする程度で良い。


日本の暴力団には民族主義的な要素が強いが、組員には韓国人も少なくない。日本人は韓国人を軽蔑していたので、これも暴力団の存在を貶めた理由ではないだろうか。一方、日本の暴力団と韓国間で行われていた密輸は、韓国の影響力を強めたのだった。


暴力団の家族の中で、女性は軽んじられる傾向にある。組員の妻や娘でさえ、下っ端より少し良いくらいの待遇しか得られない。彼女たちは組員の性欲処理の道具にされることも頻繁にある。女性が暴力団の中で権力を握る事はないと言っても過言ではないが、例外もあるようだ。


日本の暴力団は即ち犯罪集団である。彼らは他の犯罪集団同様、暴力を使って金品の利益などを得る。違法な賭博や売春行為は暴力団の主要な稼ぎ口だ。他にもドラッグや銃、違法ポルノを密売するなど様々な方法で警察の目をかいくぐって商売している。他にも、「みかじめ料」と言って、自分の縄張りで風俗などを営業する者から用心棒代やショバ代などの名目で金品を要求する事は、暴力団の常套手段である。


また、暴力団は違法な手段で手に入れたお金で不動産や建物、娯楽施設などを合法的に経営している。


勢力の大きい暴力団は株式市場を操作する。なかには合法的なやり方を使ってくる者さえいる。彼らは会社の不祥事を探し出したり、あるいは捏造したりして、取締役を脅して株を手に入れる。ある程度の株を手に入れた後は、組員を取締役会に送り込み、不祥事を外部に漏らすなどと脅して会社の幹部たちを操る。暴力団はこのような方法で会社をコントロールし、大きな財源を手に入れるのだ。



暴力団の詐欺や脅しの手段はほとんどが綿密に計画されたものであり、日本伝統的な礼儀作法に則っている。暴力団は、会社の幹部たちをゴルフに誘い、偽の寄付金集めをしたり、割り増しの値段で商品を売ったりする。会社の幹部たちは直接脅迫されているわけではないが、その「要求」の裏には脅しがあることをしっかり分っている。そのため、彼らは大人しく暴力団と手を組むのである。


「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年1月18日



② 日本における任侠とヤクザ文化(wikiより)、、、ヤクザの任侠道は武士道とは同列のものである。




③ ヤクザのルーツの博徒と的屋の起源(wikiより)、、、江戸時代より遥かに古代から存在したが、飢饉・騒乱などで増加し、徳川幕府によって社会の底辺に位置付けられたと考えられる。



④ “サムライ”とヤクザは似ている?

ロボウの枕(2017.9.4、参考)

KAGEHIME


今回はいつもと毛色の違ったお話し、番外編です。時代劇やヤクザの話を見聞きしながら武士とヤクザは似ているなんて思ったことはありませんか?

どちらも武力を根幹として活動し、主君(親分)と盃を交わせば御為めに命をなげうつ覚悟、義(スジや男)を人生旗のど真ん中に張りかかげる…。

鎌倉、室町、戦国、江戸…と武士も時代ごとにやや違うのでひとくくりにまとめるのは多少乱暴ですが、結論から言ってしまうと、下剋上の時代-戦国期の武士たちはエグいほどヤクザ気質、他人の領土を奪う手口や見せしめのいやらしさ、裏切りや疑心暗鬼の残虐さはヤクザ顔負けの話が山ほどあります。

さらに民から徴収する税金(年貢、ヤグザ風にいえばミカジメ)に関して“風林火山”が有名な武田信玄はとくに苛烈、のちに甲斐の国を手に入れた徳川家康が現地調査の際、あまりの高税に仰天したという逸話もあるほどですから、びっくりですね。(ちなみに江戸時代の税金は幕府の土地ではおよそ五公五民でした。現代日本の累進課税は最高半分をもってゆくため所得上位層は江戸の気分が味わえます)

その武士も、江戸時代になると変わってゆきます。戦の絶えた時勢にしたがい戦闘よりも統治者たる役割が重視され、ひとりで幾人もの首級をあげる鎧武者より、ソロバンはじきのうまい者や、目端の利く者、弁の立つ者が重宝されはじめるのです…。カネやコネがもの好まれ、刀づくは嫌われます。飛び火でヤケドをしかねませんし、血で血を洗う抗争となれば幕府から目をつけられ、藩そのものが潰されかねません。

ヤクザに照らせば、昭和から平成へうつり、暴力団関連法の整備・強化や人びとの眼差しの変化にさらされた末、昭和の武闘派ヤクザの権力が衰えて平成の経済ヤクザが脚光を浴びもてはやされるようになったのは、まるで時代のワンシーンをくりかえしたものとも思えます。

どちらも、時代が組織内の出世コースを定めており、その入口も、入口をひらいた者たちにしてみれば自分の生き方を否定するような形です。…ただ、同じ立場であった徳川家に形を強制された武士たちのほうが、より「時代に見放された」感をむき出しにしているのでしょうか。。

ところで、武士社会では平和になった際、下剋上をくりかえさないよう、主従関係をもっとも尊くみなす朱子学という学問が採用されました。武士の大半はそれまで「学問なんて馬の糞ほども役に立たない!」と豪語する連中ばかりでしたが、戦国を書物でしか知らない子孫の時代になると骨の髄まで浸透し、『親子は一世、夫婦は二世、主従は三世(さんぜ)』との格言は当時の武士道徳をよくあらわしています。親や妻より、主君と交えた絆が尊く、主君を裏切ることは絶対の悪となり、さらに主君と家臣団との間の強固なむすびつきによって主君は象徴的な意味を帯びはじめ、藩主が幼年であってさえ領国の運営にすこしも問題のないほど組織は盤石になっていきます。

一方、ヤクザはこの域に達するまで組織を盤石のものとできていません。利害が前に押しでて戦国時代のまま、この点で、江戸期の武士と似てはいない。ただし、武士も人間ですから易きに流れがちで、江戸後期、タガが外れかかった武士たちを前に『寛政の改革』を主導した松平定信は、こう言い放ちます。

四民のうち、農工商で天下の用は足る。上に立つ士の商売とは、ただ『義』の一字を売ること。この義理は色もなく香りもなく、買いだす所も売る所もない。『義』をたがえぬを職とし、百姓・町人等も恐れ敬うのは、士は職するところが高いからだ。いまどきは、常に利害のみを勘弁し、義理の方が疎くなっている。利を得なければ一飯を得られない商人と相応の禄を得る士は違い、士でありながら利欲に迷うは畜類にひとしいではないか

上の文の『義』を、『仁義』や『男』と読み直せば、現代ヤクザの題目にもなりそうな気がしませんか? 松平定信が強調したのと同じく、ヤクザがやたらこのような字を掲げたがるのは、現実の実態がこれとまさに正反対であるからなのです。


⑤ 男はつらいよ?『サムライとヤクザ』

HONZ(2013.4.13、参考)

鰐部 祥平



はたして任侠道とは武士道の末裔なのだろうか。武士とヤクザは映画、ドラマ、小説からアニメまで様々なメディアで幅広く描かれている。両者は歌舞伎などの古典芸能に限らず、現代の国民にも絶大な人気を誇る「男」の形であることは間違いないだろう。どこか似た精神性を感じさせる。しかし根本的に何かが違う気もする。武士とヤクザの関係性とはどのよなものなのか。そこにはどんな歴史的関わりが存在するのだろうか。

そもそも、武士道とは江戸時代以前からある、「男道」に端を発する。熊沢蕃山という人が『集義外書』に「胴短めに足の長めなるが本の男の生まれつきとなる」と書いている。これは戦士たるもの抜刀をする際にこのような体型の方が有利であるということだ。つまり「本の男」とは戦う男のことを指している。藩山の時代(1619-92)は武士以外も帯刀しており、このことからも男道が武士に限られたものではないことがわかる。

ただやはり、日本国内で戦士の代表格といえば侍である。戦国の頃の侍にとっても「男」とは単なる生物学的な男性を指すのではなく、戦う「男」であることが求められた。時に侍は自らの犯した罪により、「男を止め」させられた。これは、戦闘員である侍から非戦闘員の身分に落とされる罰のことだ。「男」を止めさせられることは、戦士である侍にとっては死と同等の重みがあることなのだ。そしてそれは、後に発生する任侠道にとっても重要なことであった。侍と任侠は共に「男」を貫かねばならない点で同類なのだと著者は語る。

慶長17年に25歳の若者が江戸市中引廻しの上、磔にされる。大鳥逸平だ。この若者は当時、江戸を代表するかぶき者。幕府が大鳥らをを弾圧したのには大きなわけがある。これら、荒くれ者達の多くは武家奉公人なのだが、彼らの横の連帯は、主人として使える旗本への忠義以上に強固なものとなっていた。それは、政権にとって都合の良い縦の連帯から逸脱である。このような連中の数が増え続けることは、やっと天下を手に入れた徳川家にとって歓迎できるような事ではない。こうして戦乱の世の終息する中、男を貫こうとした彼らは次第に衰退していく。

だが、いつの時代にも戦士向きの男達は生まれる。大鳥らにとって変わった男達は旗本の不良青年たち。水野十郎左衛門に代表される旗本奴とそれに対抗した町奴だ。ところでこれら、かぶき者や旗本奴はその後の任侠とは大きな違いがあるように思う。彼らには、後の任侠に(実際の任侠というより、多分にイメージなのだが)見られるような「弱きを助け、強きを挫く」という精神が存在しないのだ。自らの綺羅を飾り、力と勇敢さを誇示することに重点がおかれている。その一方で町奴の代表格である幡随院長兵衛の本業は小普請人足の口利きであり、そのため社会的弱者に日常的に接していた。また行政の手からこぼれ落ちた諸問題などに直面することも多く、そのような問題に取り組むことで、彼らは男を磨いていたようなのだ。このことが弱者救済と反権力を内に秘めた、侠客精神に繋がっていく事になる。

だが、旗本奴、町奴も幕府によって弾圧される。その後は、武家奉公人である陸尺と呼ばれる駕籠かきが江戸の男伊達の座を占めることになる。一方で18世紀頃になると、旗本たちのは精神的に武装解除され、武士道は官僚の処世術のようになり果てていた。

陸尺たちは職業上、身長の規定があり、「上大座盃」と呼ばれるもっとも重宝された連中は176センチから182センチほどの長身であったという。屈強な体格で気性が荒く、喧嘩を重ね、徒党を組み、博打を打ち、大酒を飲む。そんな男達は当然ながら軟弱化した旗本を恐れず、気に入らない旗本に罵詈雑言を浴びせることもよくあったようだ。罵られた侍は聞こえないふりをしてやり過ごした。武家は彼らをコントロールできず困っていた反面、どうやら失われてしまった武威を、彼をはべらせることで体現させたいたようだ。

戦乱の時代、戦争を生業にしていた男達が、旗本や大名へと昇華していく中で、彼らは精神的に武装解除されていく。しかし、武力によって平和を構築した武家政権には、どうしても一定の武威が必要であった。ある程度の緊張関係をはらみつつ、武威を武家奉公人にアウトソーシングすることにより維持する武家。その中から、まれに傑出した男達が現れた。そんな彼らの精神や行動が実物以上に伝説化されることにより、キャラクター化されたヤクザと、武士道の亜流のような任侠道が出現した。武士道と任侠道は、遥かな昔から戦士たちの内に潜む行動規範や精神、そして美意識を内包しているという意味では同根なのである。そして、江戸の封建制度と長い平和の時代を経て、それぞれ別の形で発展した男の道である。それは多分に象徴的であり、必ずしも現実の男達を反映していないこともしばしばなのだが…

本物のヤクザは決してロマンチックな物ではない。それでも我々、日本人はキャラクターとしてのヤクザを愛している。かつて旗本達は彼らを忌み嫌いながらも彼らの武威に依存し、その男伊達に密かな賞賛を念を抱いていた。現代、草食系男子などと呼ばれて久しい私達にも、それと同じような思いがあるのかも知れない。自己の内から、失われてしまった「男」への渇望として、その存在を求め愛し続けているのではないだろうか。