満州事変の成功から満州国の建国、第二次世界大戦の敗戦へと突き進む軍国日本の流れは陸軍の統制派によって主導された。
この統制派の主要人物として東條英機や石原莞爾が有名であるが、彼らの出身地は戊辰戦争において賊軍に属しており、当時は既に消滅していた長州閥に反発していた者たちだった。
参考
皇道(こうどう)派は荒木貞夫・真崎甚三郎(まさきじんさぶろう)らが率いる陸軍内の派閥で、彼等の急進的な国家改造案に共鳴した青年将校層の支持を得た。
統制派は皇道派に反発して中堅幕僚層が形成した派閥で、中心人物の一人永田鉄山が相沢事件で倒れた後も東条英機(ひでき)・石原完爾(かんじ)らが勢力を広げ皇道派を圧迫していく。
両者は激しく対立したが、相沢事件・二二六事件で皇道派は危険分子と見なされ勢力を失い、主導権を握った統制派が以後の国家総動員体制を確立していく。
統制派は皇道派に反発して中堅幕僚層が形成した派閥で、中心人物の一人永田鉄山が相沢事件で倒れた後も東条英機(ひでき)・石原完爾(かんじ)らが勢力を広げ皇道派を圧迫していく。
両者は激しく対立したが、相沢事件・二二六事件で皇道派は危険分子と見なされ勢力を失い、主導権を握った統制派が以後の国家総動員体制を確立していく。
② 統制派は反長州閥を掲げた一夕会から発生している。1936年(昭和11)の2.26事件を制した統制派は陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る(wikiより)。
③ 統制派の東条英機の父祖は旧盛岡藩、そして石原莞爾は旧庄内藩の出身であり、石原莞爾は1931年(昭和6)の満州事変を主導し、日米決戦も想定していた。旧盛岡藩や旧庄内藩は戊辰戦争においては賊軍として抵抗した。とりわけ、旧庄内藩の出身者で西郷南洲遺訓を信奉する者達は(長州閥の)明治政府に批判的であった(参考)。
⑥ 1936年(昭和11)の2.26事件の戒厳令の施行を推進した陸軍参謀本部作戦課長だった石原莞爾大佐は陸軍皇道派の青年将校の蜂起を逆利用して、陸軍統制派による軍事独裁体制の樹立を図った。この様にして2.26事件を制した統制派が結果的に第二次世界大戦に突入して、敗戦につながった。