二・二六事件と下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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二・二六事件に参加した陸軍の青年将校に下関出身者がいた。田中勝中尉である。長府の才川に生まれ、旧制豊浦中学から熊本陸軍幼年学校に入学した陸軍のエリートであった。旧制豊浦中学の卒業名簿には田中勝の名前はないと言われるが、抹殺された訳では無く、エリートコースの幼年学校に入学する為に旧制中学をわざわざ中退したようだ。

二・二六事件の首謀者の一人の磯部浅一は現在の長門市油谷町の出身であった。この地も衆議院選挙区としては下関市と同じ区域に属し、また平成29年現在の内閣総理大臣・安倍晋三の祖父、安倍寛と川を挟んで近所であった。

安倍寛も当時の政府の金権腐敗を糾弾し、戦争反対を主張した政治家であり、磯部浅一と互いに影響しあっていたとも考えられる。また、母方の祖父、岸信介元首相は学生時代、北一輝を畏敬し、禁書を借りて筆写した感激を戦後、明かしている(毎日新聞、参考)。

二・二六事件の歴史的評価は著者の能力を越えるが、明治維新から約70年経ち、長州閥と言う力が無くなり各種派閥が跋扈しており、再度、昭和維新を起こそうとした下関の歴史の一つとして記録したい。

陸軍皇道派の起こした二・二六事件の鎮圧の結果、「粛軍」の名の下に皇道派など軍反対勢力を一掃し、また「事件の遠因は政財界にある」と政府にも責任を追及し、陸軍統制派の意のままになる政治体制が次第に固められて、日本は戦争への道を突き進んでいった(東洋経済、参考)。
 
そして、個人的には大蔵大臣の高橋是清の殺害が最も残念であると思っている。この結果、陸軍統制派による軍事費拡大路線に走って行くことになる。ちなみに、彼は初代日銀下関支店長であった。


参考

① <あのころ>
「二・二六事件」起きる 青年将校が決起

共同通信(2017.2.26、参考)
 
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1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校がクーデターで「昭和維新」を目指した「二・二六事件」が発生した。政府要人を殺害、首都の中枢部を4日間にわたり占拠したが昭和天皇の怒りを買い投降した。写真は反乱軍の本拠、山王ホテルを警備する鎮圧部隊。


② 田中勝(wikiより)


山口県下関出身。幼い頃に実母と死別する。熊本陸軍幼年学校を経て、1933年(昭和8年)に陸軍士官学校を卒業。陸士在学中に肋膜炎を患ったため、卒業は一期遅れの45期である。この頃より革新思想への傾斜が顕著となり、養母・信子から磯部浅一との面会を止めるよう忠告される。1935年(昭和10年)に砲兵中尉となる。同年12月27日、又従妹の平山久子と結婚同年末に小岩に転居する。

1936年(昭和11年)2月以降、蹶起(決起)の打ち合わせのため、自宅を空けることが多くなる。夫妻で過ごす最後の夜となった2月24日には磯部浅一との打ち合わせに新妻を伴ったことが、磯部の記録に残されている。2月26日、二・二六事件において、下士官12名に夜間自動車行軍と靖国神社参拝を名目に、野戦重砲兵第7連隊の下士官12名を率いて千葉市川を出発。この際、26日午前3時頃、東京三宅坂への移動途中に自宅に立ち寄っている。靖国参拝、宮城遥拝の後、午前5時ごろ、自動車隊は陸相官邸に到着し、渡辺錠太郎教育総監及び東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社)襲撃の部隊輸送に関与した

同年7月5日陸軍軍法会議にて叛乱罪で死刑判決を受けた。7月7日、面会が許可されて妻及び家族と面会し、妻の懐妊を知る。田中の本心を感じ取れなかった妻はもう一度一人で面会に現れ、田中はこれを喜ぶとともに「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」と心情を吐露した。7月12日、銃殺刑に処された。満25歳没。

久子夫人は実家の下関に身を寄せ、同年10月に男児が誕生した。田中は遺書の中で、子の名前と、将来は「国家の干城」となすよう(=軍人にするよう)記していたが、息子は河野の兄・の紹介でサラリーマンになった。久子夫人は資格を取り、幼稚園教諭となり定年まで勤めた。養母・信子は、勝の父の死去後、出家し円信尼となった。


③ 元砲兵中尉 田中勝 実兄は訓導(参考)

元砲兵中尉田中勝(二六)は下関市外長府町字才川田中富作氏の次男で豊浦小学校から県立豊浦中学、熊本幼年学校、陸軍土官学校を経て見習士官として下関軍砲兵連隊に勤務し任官と共に千葉野軍第七連隊付となり今日に至ったもので実兄早苗氏は現在下関市関西尋常小学校の訓導である。


④ 磯部浅一(wikiより)

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山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。

高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。同年10月陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第80連隊附を命ぜられた。1929年(昭和4年)10月に陸軍歩兵中尉に進級。1932年(昭和7年)6月主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。1933年(昭和8年)5月に経理学校を卒業、主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官した。同年6月に近衛歩兵第4連隊附を命ぜられ、1934年(昭和9年)8月陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、野砲兵第1連隊附に移った。

早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの中心人物として知られていた。1934年に発生した陸軍士官学校事件において村中孝次らとともに反乱を企てた容疑で逮捕された。翌年3月停職、4月に釈放された。その後「粛軍に関する意見書」を執筆・配布し、8月に免官となった。村中と同居して反乱計画に熱中した。相沢事件以降は憲兵・警視庁警官が二人の周囲を警戒・監視している。村中が相沢事件の裁判闘争を重視する「理論派」であったのに対して磯部は「行動派」であった。

1936年(昭和11年)の二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画・指揮に当たった。首相官邸において銃声を聞き行動が開始されたことを知った瞬間について、「とに角云ふに云へぬ程面白い 一度やつて見るといい。余はも一度やりたい あの快感は恐らく人生至上のものであらふ」と回想している

陸相官邸玄関において、統制派の片倉を見かけこれに拳銃を一発発射し、拳銃を足元に落として軍刀を抜いたがその場にいた真崎甚三郎になだめられた。左こめかみを負傷した片倉は陸相専用車で病院へと運ばれ処置を受けた。事件後の新聞で、片倉に「馬鹿!」と怒鳴られて気圧され拳銃を落としたのだと報道されたのを見て「腰をぬかしたのは断じて余に非ず、余の腰はピンと張ってい」た、「なぜピストルを棄てたとか なぜ軍刀を抜いたとか問われても 理由は全くわからん」と述べている

斎藤は、陸相官邸において激昂する将校がおり、「片倉も生きていると云う事だ、俺一人でも行って殺してやる、状況によっては軍人会館偕行社をも襲撃する予定だとわめて居る」者がいたと述べており、これは磯部のことであると思われる

反乱が失敗に終わったことが明らかとなり、青年将校たちが自殺するか投降するか決め兼ねている中で、磯部は「余はどうしても死ぬ気が起こらなかつた、自決どころではない 山王ホテルから逃走して支那へ渡ろふと思つて 柴大尉(柴五郎)に逃げさせてくれとたのんだ位ひであつた、どこ迄も生きのびて仇うちをせねば気がすまなかつたのだ」と回想している

事件後の軍法会議では7月5日の第一次判決において死刑を宣告された。磯部と村中の二名については北、西の裁判の都合上、7月12日に処刑された他の死刑囚とは分離された。1937年(昭和12年)8月19日に北、西、村中とともに銃殺刑に処された。

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旧大津郡菱海村(現長門市油谷町、右下)と磯部浅一記念館(左上)、安倍寛の家は掛渕川の北岸(旧大津郡日置村)である。

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磯部浅一生家跡にある碑

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磯部浅一生家跡にある碑


⑤ 磯部浅一の生家の隣村の日置村長は安倍晋三の祖父、安倍寛だった

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wikiによると、安倍寛は「金権腐敗打破」を叫んで1928年(昭和3年)の総選挙に立憲政友会公認で立候補するも落選した。1933年(昭和8年)に日置村村長に就任し没するまで務めた。その後、山口県議会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した

支那事変中は1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東条英機らの軍閥主義を鋭く批判、無所属・非推薦で出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。戦後、日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した

エピソード: 大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松蔭)」などと呼ばれ人気が高かったという。寛の長男である晋太郎と娘との結婚話が持ち上がった岸信介は「大津聖人の息子なら心配ない」と述べたという。


⑥ 高橋是清(参考)

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世界恐慌・昭和恐慌ののち、犬養毅・斎藤実・岡田啓介各内閣の蔵相を務めた高橋是清は、恐慌後の景気回復策として軍備をふくめて積極的に公共投資を行い、需要拡大、生産の増加をめざしました。この政策がうまくゆき景気が上向きになってからは、財政の悪化を避けるため軍事費拡大の抑制をすすめていましたが、二・二六事件により高橋は命を落とします。

一方、二・二六事件後誕生した広田弘毅内閣は、高橋財政路線を捨て、陸軍の要求を受け入れ再び軍事費拡大の方向に進んでゆくことになります。


⑦ 二・二六事件、昭和維新と民主主義(参考)

北一輝の主義主張は民主主義国家の実現であり、二・二六事件に参加して生き残った人は今でも間違っていなかったと誇りを持っていた。


⑧ 北一輝と岸信介(参考)


⑨ 長州閥が消滅して腐敗した軍部主導政治の改革を目指した二・二六事件の失敗が軍部独裁を完成させた(参考)