戦後日本の民主主義のルーツ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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第二次世界大戦に負けた日本は米国の指導で民主主義国家に生まれ変わったと思っている。

確かにその通りではあったが、すんなりと生まれ変われた素地は既にあった。二・二六事件を起こし、そして鎮圧された人々は確固たる信念で昭和維新を起こそうとした。この昭和維新とは民主国家を実現するものであった。


参考

① 2・26事件:「行動、間違いなかった」将校からの手紙

毎日新聞(2017.2.27、参考)

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「昭和維新は当時日本の現状改革と相まって将来像の青写真を巡った朝野二分の巨きな事件」などとつづられた手紙=石綿清一さん提供

1936年に起きた「2・26事件」に参加した将校からの手紙を、元毎日新聞浦和(現・さいたま)支局長の石綿清一さん(94)=さいたま市浦和区=が保管していることが分かった。首謀した青年将校らに思想的影響を与えたとされる国家社会主義者・北一輝(きた・いっき)(1883~1937年)をたたえる内容で、事件から半世紀以上が過ぎた91年に受け取った。事件を「昭和維新」と記した文面などに、石綿さんは「『自分たちの行動に間違いはなかった』と思い続けていたのだろう」と思いを巡らせた。

手紙の差出人は埼玉県寄居町に住み、2006年に96歳で亡くなった麦屋清済(むぎや・きよずみ)さん。事件では斎藤実内大臣の襲撃に参加し、裁判で無期禁錮の判決を受け、42年に出所した。

石綿さんは毎日新聞退職後、障害児入所施設などを運営する社会福祉法人「埼玉療育友の会」理事長などに就いた。施設に麦屋さんの義理の娘が管理栄養士として勤めていた縁で麦屋さんと知り合い、親交を深めた。

石綿さんが保管していた手紙は、91年5月27日付と6月4日付の2通。今月に入り、荷物整理をしている最中に見つけた。

1通目の手紙では、麦屋さんが「私は今日迄(まで)事件関係の事はオブラートに包んだ発言だけで通してまいりました。人はどう云(い)おうと北一輝は昭和日本を形成した偉大なる人物であると私は今でも思って居(お)ります」と記している。

また2通目の手紙では「昭和維新は当時日本の現状改革と相まって将来像の青写真を巡った朝野(ちょうや)二分の巨(おお)きな事件でありました。随(したが)って事件は一切厳秘非公開の原則下の暗黒裁判でありました。裁判記録も実は軍法法廷長官は時の陸軍大臣寺内大将の指揮統制による軍事裁判でありました」などと非公開で開かれた特設軍法会議を振り返っている。

事件当時、石綿さんは中学生で現在の東京都港区に住んでおり、決起した陸軍兵士らが家の前を行進していったことを今も覚えているという。石綿さんは手紙を手に「自分たちが革命を起こそうとしたことを、最後まで正しかったと考えていたのだろう」と話した。  【内田幸一】

【ことば】2・26事件
1936(昭和11)年2月26日、陸軍皇道派の青年将校らが「昭和維新」を掲げ、下士官や兵士約1400人を率いて首相官邸などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害したクーデター。3日後に鎮圧され、非公開の特設軍法会議の末、19人が処刑された。事件に直接関わっていなかった北一輝も「黒幕」と扱われて処刑された。


② 北一輝の思想(wikiより)

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明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。

当時の内務省は、これを危険思想と見なし、直ちに発売禁止処分とした。北は、要注意人物として特高警察の監視対象となった。

著作は、第二次世界大戦後、GHQが部分的に出版を認めた。現在は全文を読むことができる。


③ 二・二六事件と下関(参考)


④ 北一輝と岸信介(参考)


⑤ 長州閥が消滅して腐敗した軍部主導政治の改革を目指した二・二六事件の失敗が軍部独裁を完成させた(参考)