旧庄内藩と満州事変 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西郷隆盛の遺訓をまとめた「西郷南洲遺訓」が旧庄内藩士により編纂され、明治22年の大日本帝国憲法発布の特赦によって西南戦争での西郷隆盛の賊名が除かれたのを機に、全国に配布された。しかし、西郷隆盛の遺訓と言うよりも、西郷隆盛の名前を借りた明治政府を良い意味で批判する文書であった(参考)。元々、旧庄内藩は戊辰戦争で幕府側の急先鋒で、戦では負けなしであった。

ところで、満州事変を起こし、成功させて満州国を独立させた主な人物は、思想的には大川周明、実務的には石原莞爾であったことは歴史上明らかであると言える。実は彼らは山形県(旧庄内藩)の出身で、旧制荘内中学の同窓生であった。特に、大川周明は西郷南洲遺訓を何度も読み込み、この精神を学んでいた。

どうも、彼らは最後まで賊軍として戦った旧庄内藩士の精神的末裔として、政府に対して批判的と言うか、コンプレックスを抱いていたようだ。彼らのコンプレックスのエネルギーが満州事変と言う暴走を起こし、結果的に満州国を独立させることに成功し、日本を第二次世界大戦へと突き進ませることになったのである。


参考

① 大川周明(wikiより)


その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義
、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した

山形県酒田市出身。祖先は代々「大川周賢」を襲名してきた医者の家系である。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。また『南州翁遺訓』(西郷隆盛が遺した言葉を庄内の人々が纏めたもの)を何度も読み、明治政府に批判する西郷の精神を学ぶ。

戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。


② 石原莞爾(wikiより)


明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。

明治34年(1901年) - 山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に入学するも同年に中退。

明治35年(1902年)9月 - 仙台陸軍地方幼年学校に入校(第6期)。

世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。

関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。

石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。


③ 庄内藩(wikiより)

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。

幕末〜戊辰戦争

1855年幕府から北方警固を拝命し、1859年の6藩分領以降陣屋のある浜益と天塩増毛を除く)を領有した。 元治元年(1864年)江戸市中警護の功により、17万石の格となり、慶応元年(1865年)に改めて、かねてから庄内藩の預地となっていた村山郡谷地地方などを中心に2万7,000石を加増され、領知高は16万7,071石余に達した

慶応3年12月(1868年1月)、上山藩などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられ実行、戊辰戦争の口火を切るとともに、後に明治政府軍による徳川家武力討伐の口実や、奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなった

1868年の戊辰戦争では、1867年、松平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄による藩論の統一を経て、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した新庄藩、久保田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した佐賀藩(正確には佐賀藩内の武雄鍋島家)の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。

列藩同盟盟主の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。明治元年9月26日(1868年11月10日)庄内藩も恭順した。結果的には恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には会津藩とともに、当時のプロイセン王国に対して駐日代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている

明治元年12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた「西郷南洲翁遺訓」が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人 荘内南洲会により南洲神社が運営されている。

明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。同年、胆振国虻田郡を領有している。明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県や鶴岡県への改名を経て、1876年8月2 21日に山形県に編入された。

尚、当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士・清河八郎がいる。

尚、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。

山形県の日本海沿岸


④ 荘内南洲会と南洲神社(参考)


⑤ 板垣征四郎(wikiより)

関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にて死刑判決を受け処刑される。

岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。

祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸へ護送され、増上寺に幽閉される。後に釈放されると、岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗るようになる。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳は気仙沼郡郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。

盛岡中学では三級上に米内光政が居た。陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越謙吉から厳しい訓育を受けた。大越が日露戦争の奉天会戦で戦死すると、その遺児である大越喜久子と後に結婚することとなる。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山や小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。


⑥ 東條英機(wikiより)

東條家は安房の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。