丸尾山砲台、壇之浦 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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重砲兵二十四珊加農砲教練とタイトルのある古写真は、数珠山砲台か丸尾山砲台のどちらかであろうと言うブログを見つけた。

背景に見覚えのある山があった。この山は火の山に違いない。古写真は砲身を右側、すなわち南方向の関門海峡(壇之浦)に向けていると考えると、この場所は丸尾山砲台であろう。

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赤印が丸尾山、中央上に火の山

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火の山ロープウェイ上駅から丸尾山(関門橋を越えて、送電鉄塔の向こう)が見える。すなわち、丸尾山から火の山が見通せることになる。

数珠山砲台なら下関市街の西部の南大坪町から筋ケ浜町あたりの小高い丘に位置するが、この丘付近から古写真にあるような大きな山は見当たらない。

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数珠山砲台あたりから見た北九州の山並み(参考)。加農砲が響灘(西方向)に向いているとすると、古写真の背景は北九州の山並みとなるはず。

 
参考

① 古写真・下関要塞 演習砲台(数珠山砲台・丸尾山砲台)か

まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示(2016.11.23、参考)

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サイズが大きく画像には収まり切れませんでしたが、写真の上部に「重砲兵二十四珊加農砲教練」のタイトルがあり、下部に「下関要塞司令部許可」「大正三年八月一日発行」の文字があります。

下関要塞は明治20年頃より建設が始まり明治28年に要塞司令部がおかれました。ただし、大正期になると不要とされたのか下関要塞の各砲台のいくつかは民間に払い下げられるようになり、陸軍の演習用の砲台としても利用されました。

演習砲台として利用された砲台は数珠山砲台・丸尾山砲台・隠山砲台・関山砲台で、うち24センチ加農砲が置かれたのは数珠山砲台・丸尾山砲台だったらしく、この古写真の砲台はそのうちのいずれかだったのでしょうか。


② 数珠山砲台(参考)、、、響灘側

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③ 丸尾山砲台(参考)、、、関門海峡側の壇之浦あたり

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④ 下関は陸軍の巨大な基地だった(参考)