①「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が人工的な土層発見
真田丸の盛り土とみられる層を指す奈良大の千田嘉博教授=9日午前、大阪市天王寺区、小林一茂撮影
大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将・真田信繁(幸村)が立てこもった出城「真田丸」の痕跡を求め、大阪市天王寺区餌差町で発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」(会長、千田嘉博・奈良大教授)は9日、真田丸の土塁の一部とみられる土層を発見したと発表した。真田丸の実態解明のための発掘は初めてという。
今年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は、豊臣大坂城の最外郭を巡る「総構(そうがまえ)」の堀の南に張り出して築かれた出城。大坂冬の陣で信繁が徳川方に大きな損害を与えて撃退したことで知られる。多くの絵図には半円形の姿で描かれるが、千田教授らは真田丸を四角く描いた絵図や古い地形図、航空写真などから、現在は大阪明星学園がある場所を中心に、方形の姿に復元している。
真田丸の発掘調査地点
調査では、古い地籍図で堀の痕跡のように見える区画の北側を約70平方メートル発掘し、人工的に土を盛った層を確認した。南の区画はやはり現在も堀状に低くなっており、盛り土は真田丸をめぐる土塁の可能性があるという。
調査を指揮した千田教授は、盛り土の直下が自然の地盤(地山〈じやま〉))だったことから、大坂冬の陣の講和後も真田丸は地形が大きく変わるほど破壊されておらず、現地形から形や規模を推定できると指摘。「真田丸の規模は堀も含めて東西300メートル、南北350メートルの方形に復元でき、従来考えられていたより大規模だったのでは」と話している。
② 真田丸は丸では無く四角だった(朝日新聞、参考)
③ 従来、丸く真田丸を描いた絵図と四角に描いたものがあった(参考)
⑤ 「真田丸」基礎?見つかる 初の学術発掘調査…地中に巨大な堀も 大阪・天王寺
産経ニュース(2016.12.10、参考)
慶長19(1614)年の大坂冬の陣で豊臣方の戦国武将、真田信繁(幸村)が大坂城の南に築いたとされる出城「真田丸」の基礎の可能性がある盛り土の跡などが見つかり、調査を実施した民間団体が9日、発表した。団体によると、真田丸に関する学術的な発掘調査が行われたのは初めて。
発掘は大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)の駐車場約70平方メートルの区域で実施。奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)や地元有志でつくる協議会が絵図などを基に調査した。
現場は真田丸の南端付近に該当するとみられ、地下約1メートルで人工的に盛り土がされた跡とみられる黄土色の地層が発見された。地層の特徴などから真田丸の基礎の一部である可能性があるという。
発掘に先立ってレーダーなどを使って地中を調べたところ、付近の地下に幅約40メートルの深い堀が東西約300メートルにわたって続いていることも確認。協議会は真田丸の堀の一部で、従来の想定よりも大規模な南北350メートル、東西約300メートルの出城だったとみている。
千田教授は「徳川方がすべて破壊したとされてきたが、当時の痕跡が残っている可能性があり貴重な発見だ」と話している。
⑥ 真田丸:築城当時の地形確認 大阪で初の発掘調査