西郷従道は色んな太った西郷隆盛の肖像画にお墨付きを与えていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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かつて西郷隆盛に会ったことがあるとされる画家が作成したものを検討する。ここでは、薩摩藩士の床次正精によるもの版①と庄内藩士の石川静正によるもの版②と最近、鹿児島県内の縁者宅から見つかったもの版③を並べて見た。

基本的にはキヨッソーネの肖像画をベースにしたもので、丸坊主頭、丸顔、太い眉、太い目、鼻筋くらいが共通するようだが、それぞれ違う特徴と印象を持つ肖像画に仕上がっている。床次正精の版①と石川静正の版②の間で最も異なる特徴としては頭髪の禿げの位置や唇の厚み、最新の版③との違いは目元の左右の違いなどが直ぐに気づく。それにも関わらず西郷従道らが夫々の肖像画にお墨付きを与えている。

太っていないスマートな時期の錦絵の肖像画の特徴に対して最新情報を加味したものを版④とすると、弟の西郷従道の写真⑤によく似た感じがするが、版①から版③の太った時期の肖像画とは大きな違和感がある。

東京府民のよく知っている西郷隆盛は上京した明治4年2月からダイエットを開始するまでの何ヶ月かの間であり、その期間の前後の太っていないスマートな西郷隆盛に慣れている一族・親族・縁者としては極端な違和感があり得る。西郷隆盛の亡き後、一族の長である西郷従道としては内心不満があったであろうが、全然違うとは言えなかったようだ。

一族・親族・縁者から見れば、弟の西郷従道をやや老けさせて、ちょっとだけ太らせたら西郷隆盛になるのに!この不満と涙が明治維新150年記念、すなわち西郷隆盛の没後140年までも継続したのではないのか!と可哀想に思えた。

長崎歴史文化博物館が所蔵の西郷隆盛の写真⑥が、鮮明では無くて残念だが、版④または写真⑤によく似て、スマートな時期の西郷隆盛に近い感じがする。


① 床次正精版(参考)

禿げが左側頭部にあるのは正解!

「西郷肖像」は、生前の西郷を知る床次が下図を描き、それを西郷従道や黒田清輝の保証を得て完成させたもので、数ある西郷像のなかでも生前の西郷をもっともよく写すとされ、キヨソーネの西郷像に勝るといわれている

床次正精(1842-1897)
天保13年鹿児島市生まれ。旧姓は児玉。万延元年、床次家の養子となった。7歳の頃から実家の隣に住んでいた狩野派の絵師・能勢一清に学んだ。慶応元年、藩命によって長崎に赴きグラバー邸で西洋絵画を見てその写実性に驚き、以後独学で洋画を研究した。戊辰戦争に従軍し、明治5年司法省に勤務。明治8年、宮城上等裁判所に勤務。公務のかたわら梶原昇と洋画の研究。明治12年アメリカの前大統領グラント来日の際、その肖像を描き評判となった。翌年「三田製紙所」を描いた。明治22年憲法発布のときは勅命で式場、ご祝宴の図を描いた。明治30年、56歳で死去した。



② 石川静正版(参考)

明治3年と8年に本人に会っているとか!そうすると、戊辰戦争が終わって一息ついてから太り始めたことが伺える。そして、明治4年2月に上京してからダイエットを始めたと考えると辻褄が合う。

西郷隆盛肖像画(石川静正/画)

元、庄内藩士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。そして、もう一枚は大正2年(1875)に、洋画家黒田清輝の門弟『佐藤均』が、『石川静正』が描いた肖像画をもとに、描いた西郷南洲翁肖像画です。この肖像画を複数の近親者に見て頂き、お墨付きをいただいた『西郷南洲翁肖像発行趣意書』もある(参考)


③ 鹿児島県内の縁者宅から出て来た最新版(参考)

西郷南洲顕彰館に展示中

縁者宅に保管されていた。現在の一族・親族・縁者には最も故人に近い特徴を持っているとされている。


④ 上の③の特徴に加え、著者が得た特徴の最新情報に基づいたスマートな時期の錦絵の肖像画の最新版(参考)

小林清親《鹿児嶋征討戦記》〔太田記念美術館蔵〕をベースにする。


⑤ モデルとなった弟の西郷従道(wikiより)

西郷隆盛に最も近い特徴を持っている。


⑥ 長崎歴史文化博物館の西郷隆盛の写真(参考)

判別出来る唯一の特徴は左側頭部の白く見える禿げ、額と頭髪の境目あたりは弟の従道にソックリ生き写しのように見える。