九州の装飾古墳の源流は中国大陸の壁画古墳であった。中国大陸の壁画古墳で特に青竜、白虎、朱雀、玄武の四神、または原初神の伏義と女媧、天井の宿星図などが描かれているものには、秦人(もしくは秦の始皇帝)の所縁の人物が葬られているようだ。
高句麗壁画古墳が従来から日本の壁画古墳のルーツとされ、また前方後円墳の原型と思しきものもあったが、これも秦に由来するもののようだ。
特に、高句麗壁画古墳での墓誌つきの墳墓の安岳3号墳に描かれた角抵(すもう)や、同じく徳興里古墳に描かれた流鏑馬(やぶさめ)は現在でも日本の国技や伝統神事であるが、はっきり秦に由来すると書かれた文書があった。
*注: 中国大陸の古代、秦人は日本民族と同族で、文化・言語ともに共通していた(日本語の起源、参考)。
参考
九州全域に分布する装飾古墳を紹介して、中国大陸由来であることを示すブログ(参考)があった。
古墳時代の5~7世紀になると九州には独特の装飾古墳文化が展開する。(弥生時代は揚子江下流域の呉あたりから稲作を主体とする渡来人が入植したが、古墳時代後期は大和政権を支える秦氏が後を追ってやって来て支配者になったように見える)
その中で、岡崎 敬(九州大学名誉教授)の論説からの引用を要約したものをここで紹介する:
① 壁画古墳の起源は中国であることを示すために、「漢代塼室(せんしつ)墳における壁画は、現在のところ河南、河北、山東、山西、遼寧、甘粛の各省および内蒙古の自治区に広く及んでいる」ことを紹介している。
*注: しかし、中国(現在の中華人民共和国の略)と言っても、古代の中国の版図、民族構成を確定出来るものではない。少なくとも漢人(ハプログループO3、O2)の系統か秦人(ハプログループD2)の大きくどちらかを明示しなくては意味がない。以下、中国と書かれた箇所は秦の系統か漢の系統かを識別する必要がある。
*注: ただし、壁画古墳に青竜、白虎、朱雀、玄武の四神が描かれているものは明らかに秦人(秦の始皇帝)の末裔によると考えられる(参考)。また、原初神の伏義と女媧を描いた壁画古墳も同じく秦人(秦の始皇帝)の末裔と考えられる(参考)。
② 高句麗壁画古墳の源流も中国
◆徳興里古墳:墓主の名前が墨書された数少ない古墳で、14行154文字の墓誌が記されている。 この墓誌によれば、 被葬者は幽州刺史の鎮という漢人官吏で、 409年に77歳で没したことを伝えている。後室の四面には墓主のほかに馬射戯図(射御=流鏑馬)、高床倉庫、蓮花文、七宝行事図で埋め尽くされ、 天井には宿星図があり、周囲を彩色された火炎文や蓮花文が飾っている。 また前室にも墓主像のほかに13郡太守図、 鎮の家臣図があり、 それぞれに官職名が記されている。 ほかにも騎馬行列図も描かれている。
高句麗壁画古墳とされる墓は鴨緑江と大同江流域に集中しているが、このあたりは、紀元前108年に前漢の武帝が4郡を置いて以来、玄菟郡下の少数民族棲息地域として中国文化の影響を多く受けてきた。事実、ここに最初につくられた安岳3号墳は中国人の墓であり、そこに見られる様式も明らかに中国発祥の様式である。これを、(依然として積み石塚をつくり続けた高句麗の中で)支配層の一部が中国由来の封土墳に壁画を施す様式を採り入れた。そうした流れの必然として、描画も中国人絵師によるものと思われる。6~7世紀になると四神が登場するようになるが、青竜・玄武・白虎・朱雀をテーマとした四神もむろん、太陽と三本足烏・月とヒキガエルもみな、中国古来の信仰精神によるものである。
※高句麗古墳の壁画について、集安市にある五盔墳4号墓(6世紀築造)の壁画には、神農氏が稲の束を持っている姿がある。石室内部の天井には皇帝の象徴である黄龍、その下には奏楽図、その下の角に伏義と女媧、さらにその下に四神図となっている。伏義が掲げる太陽の中には三足の烏が描かれており、女媧が掲げる月の中には蟾蜍(ひきがえる)が描かれている。
築造時期が6世紀というと時代的に微妙ではあるが、私は、これらも中国人の墓ではないかとみている。仮に高句麗人の墓だとした場合、高句麗支配層の間には中国の信仰的精神性が相当深く浸透していたことになる。
これらの積石塚古墳の年代が古ければ古いほど、日本列島に伝わった可能性は低くなる。というのも、ご承知の通り3世紀はむろん4世紀末までは、倭国と高句麗の接触はない。史実としてみられる高句麗との接触は4世紀末頃からの敵対的接触で、高句麗の(墓制という)文化が伝わるような交流も接触もない。
何よりも、墓制というものは信仰的精神性や葬送祭祀儀礼とセットで、いわば民族的アイデンティティの核ともいえるものである。その墓制と信仰的精神性や葬送祭祀儀礼が、文化交流のなかった高句麗から日本列島に伝わったという理屈は成立しない。高句麗の積石塚古墳のはっきりしない形状からみても、「前方後円墳、前方後方墳である」という見方そのものを懐疑せざるを得ない。
◆『史記』李斯列伝
二世皇帝が甘泉宮にいるとき、角抵の技を競わせたが、それは演劇や雑技と同じくらいの見せ物だった。
この角抵について、應劭と文穎が次のような注釈をつけている。
應劭曰:戦国の時、武道を学びたしなむ礼がやや多くなり、男子が相対して(力を比べて)誇示するをもって娯楽とした。秦はこれを角抵と名づけて呼んだ。角とは力の技なり、抵とはぶつかり合う(抵触)なり。
文穎曰:秦はこの娯楽の名を角抵となす、両者が相当り力比べをす。角技は、射御(馬を御し弓を射る。流鏑馬)と同じ技、故に角抵というなり。
⑥ 日本の壁画古墳の源流も中国
ここであえて強調しておく。
④ わが国では、日本の壁画古墳の源流を高句麗壁画古墳とする言説がいまだに存在する。だが、それが間違いであることが判明した。
※高句麗の積石塚古墳には前方後円墳、前方後方墳などがあり、日本の前方後方墳、前方後円墳の原型であるという意見もある。(慈江道慈城郡の松岩里106号墳は前方後円墳で、松岩里1地区56号墳は前方後方墳といわれている)。
何よりも、墓制というものは信仰的精神性や葬送祭祀儀礼とセットで、いわば民族的アイデンティティの核ともいえるものである。その墓制と信仰的精神性や葬送祭祀儀礼が、文化交流のなかった高句麗から日本列島に伝わったという理屈は成立しない。高句麗の積石塚古墳のはっきりしない形状からみても、「前方後円墳、前方後方墳である」という見方そのものを懐疑せざるを得ない。
*注: 後期旧石器時代あたりから、高句麗地域やさらに北の地域との交流の歴史が、黒曜石の交易などで証明されている。
⑤ 墓誌つき中国人の墳墓・安岳3号墳に描かれた角抵(すもう)も、同じく墓誌つき中国人の墳墓・徳興里古墳に描かれた流鏑馬(やぶさめ)も中国発祥であることを証明しておく。
◆『史記』李斯列伝
「是時二世在甘泉、方作角抵優俳之観」。
(是の時、二世甘泉に在り、方(まさ)に角抵、優俳の観を作(な)す)。
(是の時、二世甘泉に在り、方(まさ)に角抵、優俳の観を作(な)す)。
二世皇帝が甘泉宮にいるとき、角抵の技を競わせたが、それは演劇や雑技と同じくらいの見せ物だった。
この角抵について、應劭と文穎が次のような注釈をつけている。
應劭曰:戦国の時、武道を学びたしなむ礼がやや多くなり、男子が相対して(力を比べて)誇示するをもって娯楽とした。秦はこれを角抵と名づけて呼んだ。角とは力の技なり、抵とはぶつかり合う(抵触)なり。
文穎曰:秦はこの娯楽の名を角抵となす、両者が相当り力比べをす。角技は、射御(馬を御し弓を射る。流鏑馬)と同じ技、故に角抵というなり。
このほかにも、『漢書』武帝記、『後漢書』夫余伝のほかに、『日本書記』皇極天皇紀にも、角抵を見せ物や賓客を迎えるイベントとして催したことが記録されている。
⑥ 日本の壁画古墳の源流も中国
ここであえて強調しておく。
私たちはこれまでに、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画をとりあげては、「高句麗壁画古墳の影響うんぬん」という意見を見せられ・聞かされてきた。だがその実は、「中国に由来する高句麗古墳壁画との関連」というのが歴史学的・考古学的にも正しい。