伏拝の峰、仲哀天皇殯葬地、下関市の華山山頂 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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伏拝の峰(ふくはいのみね) 下関市豊田、菊川

下関市の豊田、菊川にまたがっている山がある。華山(げざん:高さ750m)とよばれる美しいかたちをした山である。ずっと昔は、山伏たちが、修行をしたところだともいわれている。

この山の頂上は、ふたつに分かれていて、東の方を岩屋の峰(いわやのみね)といい、西の方を西の嶽(にしのだけ)、または伏拝の峰(ふくはいのみね)ともいっている。

その西の嶽には、嶽の宮(だけのみや)という小さなほこらがある。このほこらは、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の墓のあとだともいわれている。

仲哀天皇は、クマソ(九州のごうぞく)との戦いにやぶれ貴場(きば)までにげてきて、そこで里の人たちのもてなしを受けたのち、歌野(うたの:宇多野とも書く)というところまで来られた。

その時、先頭を歩いていた武内宿禰(たけうちのすくね)が古びた一軒屋の軒下に、若い女が立っているのを見つけ、「お前は、この土地の者か。」とたずねた。女は、戦の姿に身をかためた宿禰におどろいたのか、何も答えなかった。

しかし、宿禰が、「あとから来る者たちへ、われわれのことを言うではないぞ。口がさけても言うではないぞ。よいか。」と言うと、女は、「うん。」とだけ言って、うなずいた。

それから天皇の一行は、華山の方へと急いだ。

それから小半時(こはんとき:約1時間)もたったころ、みるからに荒々しい男たちが馬に乗ってやってきた。クマソの軍勢であった。

その先頭の男が、さきほどの若い女を見つけて馬をとめ、「女、このあたりに武者(むしゃ)は来なかったか。」とたずねた。しかし、女はさっきの約束を守ってだまっていた。二度、三度と聞かれたが、それでも女は返事をしなかった。

すると、クマソの大将は、この女は何かを知っていると思ったのか、馬から飛び降りると、刀をすらりと抜いて、ぴたりと女の顔に押し当てた。「言わぬか。どこへ行った。言わぬとお前の首をはねるぞ。」大将は、刀で女のほおをたたいた。

女はすっかりこわくなって、とうとう小さなあごを左へ2、3回ふってみせた。口さえきかなければ、先ほどの約束をやぶったことにはならないと思ったのだ。「あっちじゃと言っとるぞ。それッ、追え!」大将は、若い女を突き飛ばすと、馬に飛び乗り、左の方角に追いかけていった。

そして、クマソの軍勢は仲哀天皇の軍に追いつき、いっせいに矢をはなち、刀をふるってせめかかった。天皇の一行も勇敢に戦ったが、とうとう力つき、天皇は矢にあたってなくなってしまった。

天皇の死を知ったお妃(おきさき)の神宮皇后(じんぐうこうごう)は、天皇が亡くなったことをみんなにかくして、こっそりと豊浦の北三里の山中に埋葬させ、天地(あまつち)の神々をまつり、戦いに勝てるよう祈った。

そして、クマソを討たれた。

神宮皇后が、天皇の冥福(めいふく)とクマソ討伐の成功を祈ったことから、西の嶽を伏拝の峰とよぶようになったとつたえられている。

題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

赤印: 仲哀天皇殯葬地、下関市菊川町大字上岡枝
青印: 華山
下の青印: 桜井八幡宮
ピンク印: 豊浦山神上寺


参考