下関と水産業としてのフク | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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昭和10年頃、唐戸魚菜市場(昭和8年完成)、青果部・バナナ部・鮮魚部・雑部から成る(ふるさと下関より)

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昭和40年代、フクを捌く、唐戸市場(ふるさと下関より)

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昭和後期、下関フク加工出荷協同組合、一夜干し(ふるさと下関より)

{57C7429E-F79D-46EF-8D0C-3C18B34D9453}昭和30年代、唐戸市場(下関フク連盟より)

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昭和50年、南風泊市場(下関フク連盟より)


参考

① フク食の解禁(参考)

明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。

豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛した。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。


② 下関とフク(wikiより)

下関とフク(しものせきとふく)は、フクの集積地としての山口県下関について記述する。下関など西日本では、フグの事を濁らずに「ふく」と呼ぶ場合が多い。これは、フグが「不遇」に繋がり、フクが「福」につながるからなど、諸説がある。若年層は普通にフグと発音することも多い。

下関の天然トラフグの約6割は遠州灘沖で漁獲されたもので、15年ほど前から海流の変化で、遠州灘沖が国内屈指のトラフグの漁場となり、浜松市内の舞阪漁港で大量に水揚げされるようになった。国内に流通しているトラフグのうち、天然物は僅か1割ほど。

下関は、日本で水揚げされる天然のトラフグクサフグなど8割近くが集まり、また長崎県や熊本県で、主に生産される養殖トラフグも大部分が集まる一大集積地である。下関に集まったフグはここで売買され、毒を持つ内臓部分などが除去する加工が成されたあと、東京や大阪の消費地へと運ばれる。

特に下関の唐戸魚市場は、1993年(昭和8年)に開設されたフグの取引所として知られ、大型船が接岸できる立地を生かした南風泊(はえどまり)市場は、日本最大のフグ取り扱い市場として知られている。山口県は1989年にフグを県魚と指定。このように下関とフグは象徴的な結びつきが強い。


③ 春帆楼(参考)


④ 下関フク連盟(参考)


⑤ フクの港、南風泊漁港(下関市彦島)の今昔

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平成28年(2016年)

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1970年(昭和45年)

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1920年(大正9年)


⑥ 下関フグ市場「最後」の競り 「築地と違い帰ってくる」

朝日新聞(2018.10.16、参考)

白石昌幸






全国で唯一、フグを専門に取り扱う山口県下関市の南風泊(はえどまり)市場が16日、現在の市場での営業を終了した。施設を建て替えるためで、今後は隣接の仮設市場で仮営業する。新市場は2022年度中に現在の場所でオープンの予定だ。

「最後」の競りは16日未明から行われた。競り人が威勢のいい声を上げながら、筒状の袋の中で指を握り合って価格を決める独特の「袋競り」で、三重県沖などでとれたトラフグを次々と競り落とした。

南風泊市場は1974年11月、唐戸市場から分離して開設された。漁船が大型化してフグの水揚げ量が増えて手狭になったためで、市場は水揚げしやすい広い岸壁やフグを生かすための水槽などを備えた。集荷・販売を一元的に扱っている。

市場を運営する下関唐戸魚市場の見原宏社長(63)は「長年この市場で競りをしてきたから寂しいし、育ててもらった感謝の思いもある。築地市場と違って4年後にはここに帰ってくる。仮設市場に移っても一生懸命、売っていきたい」と話した。(白石昌幸)