田中絹代と下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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昭和43年(1968年)、先帝祭における禿役が田中絹代、左の上臈役は木暮実千代(ふるさと下関より)

先帝祭 女優田中絹代·木暮実千代(四十三年) 、市制施行八十周年記念で、先帝祭に二人が登場。前が田中絹代、後が木暮実千代。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


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朝日新聞下関版、2016.8.31

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田中絹代ぶんか館(正式名は市立近代先人顕彰館または下関市庁舎第一別館の2F)は大正13(1924)年に旧逓信省下関電信局電話課庁舎(電話交換局)として竣工しました(参考)。


参考

① 生い立ち(wikiより)

1909年(明治42年)11月29日、山口県下関市関後地村(現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女(長男慶介、次男鼎、長女繁子、次女政子(早世)、三女光代、三男晴男、四男祥平、四女絹代)の末娘として生まれる。母の実家・小林家は下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた。


② プロフィール(参考)

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③ 田中絹代 困難を糧に女優として脱皮  2014/6/15

焦がれて女優になった人だった。下関から一家で移り住んだ大阪。十歳の田中絹代は琵琶少女歌劇に加わり、楽天地の舞台に立つ。そこで出会ったのが映画だった。自分も銀幕の世界で活躍したい。その一心で彼女は松竹キネマ下加茂撮影所に入社する。

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イラストレーション・山口はるみ

■後年は監督業に挑戦
1909~1977年。兄4人、姉3人の末っ子として下関に生まれる。暮らしが立ちゆかなくなり一家は大阪に移住。絹代は終生、この兄弟たちの面倒を見ることに。17歳のとき監督・清水宏と同棲をはじめるが2年で破綻。以後、独り身を通す。「愛染かつら」「雨月物語」など話題作多数。65歳のとき「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞受賞。後年は監督業にも挑戦する。67歳、脳腫瘍で死去。

とはいえ当時十四歳の少女に大きな役が来るはずもなく、大部屋女優として数年を送る。脚光を浴びるのは松竹蒲田撮影所に移ったのち。五所平之助監督「恥しい夢」で演じた芸者の愛らしさが話題となった。以来作品にも恵まれ、二十歳を前に松竹の看板を背負うまでになる。

虚栄心があり勝ち気な反面、辛抱強い人でもあった。鎌倉山に豪邸を建て、母や兄弟を住まわせ面倒を見続けた。病気の兄の介護も負うが、生活臭を出すことを厭い、けっして人には語らなかった。

一方撮影現場では与えられた役を遮二無二こなす。本を読んで作品世界を理解することが不得手だったからいっそう、監督が求めるものを細やかに嗅ぎ取り、天性のカンで人物を立ち上げた。脚本や演出に不服を言うこともなく役に準じたという。撮影期間は、監督を信じ、愛し、のめり込む。作品の一部となることに専心したのだ。

ところがある一件をきっかけに、彼女が積み上げたキャリアはもろくも崩れる。戦後、日米親善使節を務めたときのこと。ハワイ、アメリカ本土と渡り、劇場挨拶や表敬訪問をこなして帰国した絹代の出で立ちに周囲は目を見張る。緑のサングラスに毛皮のハーフコート。報道陣に「ハロー」と一声発し、銀座をパレードした際は沿道の民衆に投げキッスを送った。これが世間の顰蹙(ひんしゅく)を買った。三カ月のアメリカ生活で身についたしぐさがつい出たのだろうが、戦争で家族を失った人々からすれば受け入れがたい言動だったのだろう。マスコミはこぞって絹代叩きをはじめる。時に「老醜」と辛辣な文字も躍る。四十を迎えた絹代にこの一言は刃となって突き刺さった。

鎌倉山の自宅にこもり、一時は自殺も考えたというが、二年後、溝口健二監督「西鶴一代女」で返り咲く。御所に仕えていたヒロインお春は、歳とともに落ちぶれていく。その後半生を絹代は体当たりで演じた。まさに老醜をさらし、存分に表現した。この作品はベニス国際映画祭で監督賞を獲得。絹代は、困難を糧に脱皮したのである。

なにかと美醜が取り沙汰されるのは、女優に限ったことではない。前時代的男性社会の名残か、未だ女性が業績を上げるたび容姿や人柄ばかりが取り上げられる。だが実際のところ、好感度なんぞ吹けば飛ぶようなもの。些細なことでひっくり返るのは、昨今話題の事象を見ても明らかだ。結局年齢性別を越えて個を支えるのは技量なのだろう。田中絹代は若さを失ったとき、身の内から湧く真の美しさが残った。この後彼女は脇に回り、「楢山節考」では差し歯四本を抜いて老婆を演じる。絹代は美人女優としてではなく、いち俳優として生涯を全うしたのだ。

[日本経済新聞朝刊女性面2014年6月14日付]

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木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。


④ 絹代の生家、ほぼ特定 海峡見える高台-下関

山口新聞、2009年12月1日(火)掲載(参考)

下関出身の映画女優田中絹代(1909-77年)の生家の場所が「はっきりしない」と、25日付本紙の「田中絹代と下関」第1回で書いたところ、読者からたくさんの情報が寄せられた。

絹代の生家は日和山周辺の「丸山町」であることは明確だが、具体的にどこかは諸説あった。日和山の山頂付近から、ほぼ入江町のほうだ-までさまざま。

絹代顕彰活動に取り組むNPО田中絹代メモリアル協会の会員でもある同市細江町、不動産業、武田修道さん(70)らが、絹代の本籍地「下関市関後地村一九五六地」から土地台帳などを調べ上げたり、関係書類を照合するなどして「ほぼ、ここではないかと推測できる」と絞り込んでいた。

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右手前が絹代の生家があったと思われる場所。高い建物が並ぶ現代でもビルの間に海峡が見える。向こう側は北九州市門司の山並み

同市丸山町五丁目の一角で、国道9号入江交差点から梅光学院方面に上がる道沿い、入江町バス停手前から西に入る路地を進んで徒歩2分くらいの場所。ちょうど西入江町と丸山町の境界だ。

車一台がやっとの細い道を曲がりながら進み、石段を上がった所が絹代の生家があったと思われる高台。現在暮らしている元会社役員Aさん(85)の話では、52(昭和27)年にAさんの父が土地約660平方メートルを買い、住宅を建てて住むようになった。関門海峡への眺めの良さを気に入って家を建てたと、小さいころに聞かされていた。

Aさんは「田中絹代さんのことは初めて聞いた。おそらく父も、生家があった場所なんて知らなかっただろう。海峡の眺めがいいからとしか聞かされていなかった」という。

敷地が広く、また戦後になって土地台帳の合筆、分筆が重なり、区画整理もあったりして、具体的にどこに絹代の生家が建っていたのか、隣接地(空き地)ではなかったのかなど不明だが、絹代の生家は井戸があったとされており、Aさん方の裏に「昔からあった」という井戸がそのまま残されていた。

Aさん方の庭は海峡に面した場所に配置され、現在は高い建物が眼下の海峡沿いに並んでいてほとんど海峡は見えないが、絹代が暮らしていた大正初期なら、海峡を一望のもとに見渡せる場所。ここに立つと、絹代がスターになった後、何度も家を変えながら、「海の見える場所」にこだわり続けた理由も、十分にうかがえる。

海を見たり潮の香に触れたりすると「下関を思い出す」と語った絹代。生家跡地を特定するより、幼児期の絹代がどのあたりから海峡を見ていたのか。そのことがもっとも女優、絹代の原風景に触れられるのかもしれない。

武田さんが具体的に調べ始めたきっかけは一昨年11月。絹代が1年1学期だけ通っていた王江小学校の校長通信に掲載された「児童氏名田中絹代 出生明治四十二年十一月廿九日 住所関後地村…」。絹代が大阪に行った17(大正6)年の簿冊にあったらしい。武田さんはこれを見て、仕事を生かし、丹念に追跡調査していた。

生家があったと思われる場所に立った武田さんは、「ここからの眺めが昔は見事だったことは十分に想像できる。この眺めの中で絹代さんは育ったと思うと感無量」と話していた。

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赤印が田中絹代生誕地、日和山東麓

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入江町のバス停近くの「港が見える丘の径碑」

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生家付近からの関門海峡、しものせき・人・物語(一)、昭和62年10月12日発行 (当時、生家は入江町界隈と日和山高台説の二説あり確認されていなかったが、この写真の撮影地点でほぼ間違いない)


⑤ 墓所

田中絹代の遺骨は分骨されており、横須賀線北鎌倉駅の円覚寺松嶺院の墓(参考)と、一家の墓がある下関の中央霊園(下関市井田)に絹代の墓があり、毎年、命日の3月21日には『花嵐忌(からんき)』と名付けられた市民墓参が行われています(参考)。

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しものせき・人・物語(一)、昭和62年10月12日発行


⑥ その他



田中絹代と

下関市出身の大女優として知られる田中絹代は明治42年に生まれ7歳まで下関で過ごした。下関なまりで演じる姿が魅力的で昭和13年の「愛染かつら」のヒロイン役で一躍有名となった。

田中の両親は共働きだったため、幼いころ親が帰ってくるまで面倒を見てもらっていたという。写真はその縁もあって絹代が家族に会いに来たときの一枚。中列、左から二番目が田中である。〈東大坪町·昭和11年頃·提供=田中裕氏〉

(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)