長府の大火、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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著者の母方の実家は下関市長府の乃木神社参道入口の右側三軒目において、布団・農機具の販売などをする店を経営していた。しかし、不幸なことに昭和22年の大火で全財産を失い、一族は先祖の墓を立善寺に残して、長府を去って新たな地に移住することとなった。

ちなみに、立善寺も被災したようで、鉄筋コンクリート造となっている。


参考

(写真に見る水道90年より)

「しものせきなつかしの写真集」下関市史別巻より)

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昭和22年(1947年)、長府の大火

10月17日、長府土居の内町の民家からの出火は土居の内町・中之町・惣社町・南浜から壇具川に及び、687棟が消失した。(ふるさと下関より)


長府大火の跡

昭和22年10月、長府土居の内町の民家から出火。
つぎつぎと燃え広がり土居の内町、中之町、中浜町など広範囲に広がった。終戦直後の混乱の最中の出来事であり、当時駐留していたニュージーランド兵も消火活動に当たったものの、消火機材の不足から被害は甚大なものになった。写真は長府士居の内町と長府中浜町の境界付近から忌宮神社方面を見ている。〈長府土居の内町~長府中浜町·昭和22年·提供= 下関市〉(下関市の昭和より)


下関は大きい戦災にあったが長府は別にあわなかった。ところが、昭和二二年一〇月一七日午後三時五〇分ころ、土居の内の磯部勝治方付近から出火し、土居の内、中之町、惣社町、南浜から壇具川辺におよぶ広範囲な大火となった。

焼失戸数七〇○以上、破壊一七、被災面積二八、三三六坪、被災者二、四○六人、負傷二一人という大惨事を招い た。真宗弘恩寺(?)が類焼の難にあった。(注: 真宗立善寺が焼失し、鉄筋コンクリート造になっている)

城下町の面影がほとんど焼け残ったのは幸せであった。(写真集 明治大正昭和 下関より)


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上掲の写真の右側の拡大。左に忌宮神社と山口銀行長府支店、右奥に見える鳥居は乃木神社のもの。

忌宮神社の東側の鳥居。

忌宮神社の東側の鳥居からみた被災地、神戸製鋼所の煙突が見える。


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昭和22年(1947年)12月、昭和天皇陛下が被災者に激励される。天皇陛下は昭和33年、38年にも下関を訪問されている(ふるさと下関より)。

長府をご訪問

この年(昭和22年)、大火に見舞われた長府へ。上写真は天皇をお迎えする住民たち。下写真は元神戸製鋼愛国寮跡に収容されていた被災者宅へ訪問したときの一枚。復興へと歩む被災者たちの大きな支えとなった。〈上:長府·昭和22年,提供 =中村佑氏、下:長府八幡町·昭和22年·提供=平岡和江氏〉(下関市の昭和より)

長府大火の被災地で、昭和二十二年十月十七日、700戸の被災を出した長府大火があり、その被災地をご視察ののち長府駅へ。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

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平成28年(2016年)現在の長府、中央の南北を貫ぬく旧山陽道の周辺から国道9号線の間が消失したことになる。


昭和天皇は大洋漁業の冷凍工場などもご覧になられた。

下関漁港を一望される

冷凍工場屋上で下関漁港を視察。〈大和町,昭和22年,提供=久野郁子氏〉(下関市の昭和より)

第二冷凍工場をご出発

周囲の人びとは万歳をしてご出発なされる陛下をお見送りする。陛下は脱帽をしてそれに応える。〈大和町·昭和 22年·提供=下関市〉

下関漁港を視察

陸揚げした鮮魚を興味深く御覧になる陛下。周りの人びとは直立不動で陛下に目を注ぐ。〈大和町·昭和22年,提供=下関市〉(下関市の昭和より)


昭和天皇の昭和22年の行幸(参考)



戦災を免れたのちの不幸な火災

昭和22年10月の長府の火災は、まさに大火というべきもので、10月17日の午後3時50分頃、長府土居の内町の民家から出火し、土居の内町、中之町、惣社町、南浜から壇具川辺におよぶ広範囲な大火となり、687棟を焼失。

被災面積94120平方メートル、被災者2406人、負傷者21人という大惨事となった。

また終戦後間もなく、進駐軍として駐留していたニュージーランド兵も消火作業に努めてくれたのであるが、この一帯が商店・民家の密集地であったことと、消火機材の不備から、結果として大きな被害を出してしまった。原因は油の引火で、損害額はおよそ1億5000万円であったという。

下関は、西日本でも広島に次ぐ戦災都市で、昭和20年6月29日と7月2日の大空襲によって焦土と化した。

せっかくそういう状況から免れた長府が、このようなかたちで大火に見舞われたのは、まことに残念なことであった。(清永唯夫)(図説「下関の歴史」より)

(彦島のけしきより)