昭和22年の昭和天皇の下関行幸 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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小串へご到着

下関への前、国立山口病院をご訪問するため小串へ訪れた陛下。病院へは小串駅から徒歩で向かわれた。駅から病院に至る沿道には多くの周辺住民が陛下をお迎えするため、整列した。また数日前から各集落ごとで駅や周辺の清掃を行ったという。〈小串·昭和 22年·提供=中西経一氏〉


昭和天皇の宿舎となった興安丸

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)



漁港に向かうお召車

前日から宿泊されていた関釜連絡船の興安丸から漁港へ向かうお召車。この後、下関漁港や大洋漁業の第二冷凍工場を視察された。(大和町,昭和22年·提供=下関市)


下関漁港を一望される 

冷凍工場屋上で下関漁港を視察。〈大和町,昭和22年,提供=久野郁子氏〉


下関漁港を視察

陸揚げした鮮魚を興味深く御覧になる陛下。周りの人びとは直立不動で陛下に目を注ぐ。〈大和町·昭和22年,提供=下関市〉


第二冷凍工場をご出発

周囲の人びとは万歳をしてご出発なされる陛下をお見送りする。陛下は脱帽をしてそれに応える。〈大和町·昭和 22年·提供=下関市〉


参考

長府の大火のお見舞い(参考)

長府をご訪問

この年(昭和22年)、大火に見舞われた長府へ。上写真は天皇をお迎えする住民たち。下写真は元神戸製鋼愛国寮跡に収容されていた被災者宅へ訪問したときの一枚。復興へと歩む被災者たちの大きな支えとなった。〈上:長府·昭和22年,提供 =中村佑氏、下:長府八幡町·昭和22年·提供=平岡和江氏〉


長府大火の跡

昭和22年10月、長府土居の内町の民家から出火。つぎつぎと燃え広がり土居の内町、中之町、中浜町など広範囲に広がった。終戦直後の混乱の最中の出来事であり、当時駐留していたニュージーランド兵も消火活動に当たったものの、消火機材の不足から被害は甚大なものになった。写真は長府士居の内町と長府中浜町の境界付近から忌宮神社方面を見ている。〈長府土居の内町~長府中浜町·昭和22年·提供= 下関市〉


(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)