大山咋神も長門国大津郡の出身? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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日吉神社(ひえじんじゃ)の祭神、大山咋神の鎮座地について

『古事記』に『淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑を持つ神は“大山咋(おおやまくい)神”またの名を“山末之大主神”』とあるのが初見。これを日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神、日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことと、現在、解釈していた。葛野の松尾は松尾大社の辺り!

しかし、淡海とは長門国大津郡(現在の長門市油谷町)であり、この地で日吉神社を探してみた。


① 日吉神社、長門市油谷角山724番

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オガタマノキ巨樹群、県指定天然記念物
長門市油谷角山728番地
最大木高さ17m、幹周り3.75m 

オガタマノキというのはモクレン科の常緑高木。日本固有の種。しかも島根県には見つかっておらず、萩市(旧田万川町)が北限となっている。ここには17本のオガタマノキが確認されており巨樹群としては、日本海沿岸の北限と言ってよく、それが天然記念物の由来となっている。


② 日吉神社、長門市油谷向津具上2248番地(旧向津具村大字向津具上字宮下2248番地)

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祭神: 大山咋大神
相殿: 国常立尊 国狭槌尊 訶志古泥尊 伊弉冊尊 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天津彦穂邇々杵尊 大穴牟遅尊
由緒: 桓武天皇の延暦年中、近江国志賀郡日枝山より大山咋神社を勧請 --- 近江に日吉大社創建と同時の造営か?

合祀: 旧御崎神社
祭神: 大巳貴尊 事代主尊 咩比鞴尊 瑞津比咩尊 高照光姫尊
由緒: 向津具総鎮守の神社であった。

参考: 大津郡志 P110~、神功皇后は三韓征伐のとき、雲州日之岬、筑前鏡の岬、長州向津具岬を三柱三神として御祈祷されたと伝えられる。


③ 日吉神社、長門市油谷向津具上上野東2248

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オガタマノキ巨樹群、県指定天然記念物

オガタマノキ(黄心樹)はモクレン科の常緑高木で暖地性植物。日吉神社社殿の東、北、西部に多数のオガタマノキの巨木があります。胸の高さの幹周り1.2m~3.75mで、最大のものは根元の周囲5.8m、高さ約17m。


④ 日枝山と葛野の松尾

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中央の妙見山が本来の日枝山(稗山、ひえのやま)か? 葛野の松尾については油谷町大字津黄(つおう)の小字に松尾があり、ここに葛野(くずのの)があったか?此処までは根拠のない推測である。

日吉(日枝、ひえ)と大津郡日置(へき)に確実な関連が認められる。


参考



長門市日置町(旧長門国大津郡日置)出身の日置氏と日枝、日吉とのつながりについて興味深い解説を見つけたので、丸々引用した。

大国主の誕生 ―日置氏と出雲鴨氏・秦氏とのつながり―

松尾山の麓に鎮座する松尾大社もまた秦氏の祭祀する神社で、祭神は大山咋神(オオヤマクイの神)と中津島姫命(ナカツシマヒメノミコト)です。『古事記』の大年神の系譜には、オオヤマクイは大年神と天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)との間に生まれた神となっていますから御歳神や白日神の異母兄弟にあたります。

さらに、『古事記』は、このオオヤマクイについて、「大山咋神またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオオヌシの神)。この神は近淡海国(近江国。現在の滋賀県)の日枝(ひえ=日吉)の山に坐し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を持つ神なり」と、記し、松尾大社と日吉の両方に鎮座している、としています。

『続日本後紀』の承和元年2月の記事には、「葛野郡の人、物集応永に秦忌寸の姓を賜る」とありますが、この記事からは、物集氏が秦氏と同族であることがうかがえます。実は物集氏は向日市にもいました。向日神社の近隣に物集女(もづめ)という地名がありますが、そこが物集氏の本拠だったとされるのです。

さて、日吉大社では、西本宮で大己貴神(オオナムチの神)を祀り、東本宮でオオヤマクイ祀っています。オオナムチは大国主の別名なのですが、日吉大社では、西本宮の祭神オオナムチのことを、大国主ではなく、天照大神、三輪の神と同一神である、と伝えられているのです。それだけでなく、延暦寺の古記録『山家要路記』にも、三輪の神が比叡山に降臨し、この地の主になったとあり、この三輪の神のことを、天照大神の分身で日神、ということが記されているのです。このことは向日神社の「天離る向津日山」と併せて考えると非常に興味深い点ではあります。

このように、大年神を通して日置氏と秦氏は密接な関係にあるように見えますが、大年神の系譜は、むしろ日置氏や秦氏などが結びついた結果として編まれたと考えるべきでしょう。ならば、日置氏と秦氏がお互いに近い関係になったのはどのような背景があるのか?ということになります。これについて、前出の井上辰夫(「太陽祭祀と古代氏族」)などは、日置氏は秦氏よりも、むしろ鴨県主と緊密な関係にあった、とします。鴨県主は秦氏を監督するかのようにして、ともに山城に進出していきましたが、井上辰夫のいう、日置氏と鴨県主の関係は、井上光貞(『日本古代国家の研究』)に説かれています。

すなわち、時代が少し後になった律令体制の頃に、主殿寮に仕える名負五氏が、日置・子部・車持・笠取・鴨(鴨県主)であり、日置氏と鴨県主がこの五氏に含まれている点です。さらに言えば、名負五氏の職掌の分担を検証すると、車持氏が天皇の輿車を管掌し、笠取氏が天皇の蓋笠を取り持ち、小部氏が供御の沐浴や殿庭の清掃などを行う、そして日置氏が燈燭(油火や蝋火)を行い、鴨県主が庭火の薪炭を供給した、とします。その職掌を見る限り、日置氏と鴨県主が火を受け持つ類縁の間柄にあるわけです。しかも、日置氏と鴨県主は葛城に拠点を置き、ともに丹波にも拠点を持っていたこという、地理的な理由も両氏が密接な関係にあったと考える根拠となります(参考)。








日吉大社の由緒について、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。西本宮の祭神・大己貴神については、近江遷都の翌年である天智天皇7年、近江鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた(wikiより)とあるが、実際には平安京の表鬼門として、松尾大社、八坂神社など秦氏創建の神社と一緒に社殿が造営されたのが真実であろう!


大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)は、別名 山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。

名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。『古事記』では、近江(淡海)の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある(wikiより)。

拙著では、日枝とは穀物の稗(ヒエ)ではないかと推測しており、日枝山とは稗山(ひえのやま)であり、稗を植えた山のことである。葛野(かづの)は字のとおり葛(クズ)を植えた野(畑)であろう!


鹿児島県に興味深い地名「日置市日吉町日置(ひおきしひよしちょうひおき」を発見!日置氏の入植地であることは理解していたが、日吉との関係を示唆している。

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神社名:日枝神社ヒエジンジャ
鎮座地:〒899-3101 日置市日吉町日置8755
祭神: 彦士神(ヒコジノカミ)、大山津見神(オオヤマツミノカミ)