伊邪那岐命は古事記では淡海の多賀に鎮座されていると言う!そこで、淡海の正しい場所、すなわち長門国大津郡あたりに多賀の名前を探したところ、多賀神社(長門市油谷後畑三八八五番地)を発見した。
天照大神と素戔嗚命は伊邪那岐命の子、宗像三女神はさらに孫になるが、この地は出雲、宗像大社の沖ノ島、北九州に最短距離にあり、神代の世界を語るに適した場所にあった。
この多賀神社のさらに南に狩音という地名があるが、唐人(カロート)の転訛である。また近くに畑と言う地名もあり、渡来人の集落を偲ばせる。
伊邪那岐命の居所、和銅5年(712年)編纂の『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記載がある。『日本書記』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。
『古事記』以前の時代の近江の多賀は、滋賀県の多賀大社の一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀った神社との説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀大社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している(wikiより)。
この説が正しく多賀大社は元々、伊邪那岐命の鎮座する神社ではなかった!古事記では正直に淡海の多賀と書いたか、古事記の他の記述で淡海と近江を意図的・政治的に混同させており、伊邪那岐命の居場所が間違えられた!
滋賀県付近には志賀、多賀、甲賀、伊賀など賀の付く地名が目立つ、その他、佐賀、加賀、雑賀などの地名は和銅5年(712年)に出された好字令による法律で、地名変更が強制されたとか(参考)!これにより歴史を追跡出来なくなっている。712年とは古事記が完成した年で、720年に日本書記が完成した。すなわち、日本の正史である記紀の記述に都合のいい地名に変更させられたと考えて差し支えない!従って拙著の様に、万葉集や神社伝承、伝説などから記紀の些細な矛盾を見出して、地理的・考古学的な結果と付き合わせて、正しい歴史を再生させることになる!