邪馬台国の卑弥呼から台与の時代の混乱 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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邪馬台国の男王と目される崇神天皇の時代、四道将軍を全国平定に派遣した。これはすなわち、魏志倭人伝に卑弥呼の後、男王がたったが国が乱れたので台与を立てたら国が治った記述に対応する。


参考

四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)とは、崇神(すじん)天皇時代に全国平定のため派遣されたという4人の皇族将軍のこと、《日本書紀》では北陸に大彦(おおひこ)命,東海に武渟川別(たけぬなかわわけ)命,西道(山陽)に吉備津彦(きびつひこ)命,丹波(山陰)に丹波道主(たにわのみちぬし)命を派遣している。

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四道

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四道将軍を派遣直前の前方後円墳と前方後方墳の分布

大彦命に関しては、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である(wiki)。さらに、初期ヤマト王朝による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている(wikiにより)。

西道に派遣された吉備津彦命(別名、大吉備津彦命)の姉が、邪馬台国の卑弥呼である大倭迹迹日百襲姫命と云われている。

正始九年(248年) - またはその前後、卑弥呼が死に、墓が作られた(『梁書』では正始年間(240年-249年)に卑弥呼死亡)。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「台与」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した(wikiより)。

崇神天皇は西暦258年あたりに没している説をとると、卑弥呼の死の247年から11年間、男王の時代が続いたことになる。崇神天皇の御世(崇神天皇10年)に四道将軍を派遣したのが、この10年間に入ることになる。




倭国では、大きな戦乱は3回あった。第1回は2世紀後半の倭国の大乱、2回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国の紛争、3回目は卑弥呼の死後直後の倭国内の戦乱である(参考)。

倭国大乱は畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。銅剣、鉄器などの武器の分布から戦場は主に北九州であろう。

狗奴国の位置は、九州説、大和説とも色々あり、定説はない。しかし、以下は興味深い: 『魏志倭人伝』は女王国に属さない、狗奴国が在ったことを伝える。邪馬台国は狗奴国と激しい戦いを演じ、灘升米は狗奴国と戦っていた。その難升米(なしめ、なしとめ)、すなわち梨迹臣(なしとみ)が居た場所は滋賀県伊香郡木ノ本町である(参考)と言う、北陸説である。狗奴国と考えるのが、陸(くが・玖賀)、あるいは北陸(くぬが)と呼ばれた国である。木之本の北、すなわち現在の北陸地方に在った国である。

難升米はあるアイヌ語で理解する研究によると須佐之男命であると言う。また別名・櫛御気野(クシミケヌ)命と言う。櫛御気野命の「気野」ケヌは「狗奴」の意。即ち、狗奴國の大神でもあり「諏訪大社」のスワ神。その他、多くの研究で同様に難升米を須佐之男命としている(参考1参考2)。

西暦247、248年あたり、倭国では邪馬台国と狗奴国との間に戦いがあったとされ、その同時期か直後に卑弥呼が死去したことが記載されている(魏略や魏志の記述)。沖ノ島あたりに皆既日食があった。須佐之男命の乱暴と天照大神の天の岩戸隠れとの関連が伺える。