投馬国(但馬、丹後・宮津)のほか、越前国・敦賀、若狭も古来から朝鮮半島、特に新羅との交流が盛んで、邪馬台国の領域であった。
敦賀はもともと角鹿と呼べれていたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の渡来によるものだと説がある。新羅の王子、天日槍(あまのひぼこ、ツヌガアラシト)の子孫が但馬国あたりに定住して、滋賀県米原地方で勢力を持っていた豪族の息長宿禰王と結婚し、4世紀、気長足姫尊(神功皇后)が生まれた(参考)。
すなわち、越前国、敦賀あたりが神功皇后の生誕地であり、ここから出発して、下関(穴門)の仲哀天皇と合流した。また、継体天皇(26代天皇、応神天皇の5世の子孫)も滋賀県の高島で誕生し、越前て育ったと云われている(wikiより)。
参考
日本書記に、その昔額に角がある人が船に乗って敦賀に着いた。話を聞くと日本に崇神天皇(邪馬台国時代に当たる)がいると聞き、加羅国(朝鮮)から仕えるために来たとここと。だが天皇は崩御したので、次の垂仁天皇に仕えて三年が過ぎ、故郷に帰ることになった。その時、崇神天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)の名前をもらい、国名を任那としたという話である。
角鹿神社は都怒我阿羅斯等を祀ってある。白城神社は、新羅と関係がある神を祀ってある。信露貴彦神社は、飛鳥時代創立という神社で、その名前から新羅に関係があるとされる。
敦賀市曙町11-68
御 祭 神
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
玉姫命(たまひめのみこと)
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
神功皇后は穴門へ向かう際、小船に分乗し、食糧や水などを補給しながら沿岸づたいに進んだ。穴門までの日本海沿岸には神功皇后にまつわる史話や遺跡が点在している(参考)。