弥生時代を通して九州地域と大和地域は争いを繰り返し、特に弥生時代末期には東西二陣営の争いの様相を呈していた。これが倭国大乱であった。その中で平和な国があった。それは下関(穴門)を首都とする初期秦王国であった。
弥生時代初期から中期は小さな国々が乱立し、中央の大和政権らしき国が銅鐸で周辺の小国を配下に付け、銅剣が出土する西の国々と戦争していた。弥生時代末期、中国地方(初期秦王国の範囲)は銅剣も銅鐸も出土していない。銅鐸は王達の主従を確認するもの、銅剣は実際の戦争に用いる武器であるから、中央の邪馬台国に対等に属した地域には何も必要無いことになる。別の考え方は、初期秦王国が最初にまとまり、東の大和あたりは銅鐸で主従関係を結び、西の銅剣出土地域と戦争した。そして首都は中央の大和の纒向に置いたと、考える。
卑弥呼を巫女として擁立して崇神天皇が政治を取り仕切り、纒向に邪馬台国の首都を置いた。この時代は初期秦王国と協力して、九州北部(高天原)に卑弥呼を置いて邪馬台国をまとめ、争いが収まった。この時代は三角縁神獣鏡が主従関係の印であった。
卑弥呼が没して、崇神天皇のみになると四道将軍を派遣するなど不安定になったが、天皇没後、台与を立てて平和となった。
参考
倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争だとする意見もある(wikiより)。
女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の歴史書『三国志』(魏志倭人伝)や中国の正史『後漢書』「東夷伝」に記述されている(wikiにより)。
倭国大乱は、畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。 銅剣、鉄器などの武器の分布から戦場は主に北九州であろうが、神武天皇ゆかりの地が大体、倭国大乱の地に対応している。
魏志倭人伝に、その八年(247年)、王頎が帯方郡太守に着任した。倭の女王卑弥呼と狗奴(クマ)国の男王卑弥弓呼は元より不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣して(帯方)郡に詣でさせて攻防戦の状況を説明した(参考)。
これが、卑弥呼時代の紛争である。その難升米(なしめ、なしとめ)、すなわち梨迹臣(なしとみ)が居た場所は滋賀県伊香郡木ノ本町である(参考)と言う、北陸説である。狗奴国と考えるのが、陸(くが・玖賀)、あるいは北陸(くぬが)と呼ばれた国である。木之本の北、すなわち現在の北陸地方に在った国である。
崇神天皇の四道将軍の派遣が台与の前の男王時代の争いであろう。