こんにちは、みなさんお元気ですか?

ずいぶん前の話で恐縮ですが・・・
以前記事にした空海と密教美術展を鑑賞後、同じ上野恩賜公園 (うえのおんしこうえん)にある不忍池弁天堂に行ってきたのでご紹介します。

東京国立博物館を後にした わたくし臣(しん)、公園内を不忍池に向けて散策です。
途中、上野動物園、上野東照宮(国指定重要文化財)、上野大仏など見どころ一杯だったのですが、この日は時間が無く写真だけ撮って失礼しました↓

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みなさんは、上野に東照宮や大仏があったことをご存じだったでしょうか。
ただし大仏と言っても、現在残っているのはお顔だけですが・・・。

そうこうしながら歩いているうちに、不忍池に到着↓

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訪れたのは7月末だったので、不忍池名物の蓮がきれいに咲いていました。

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不忍池は上野恩賜公園にある天然の池で、周囲は約2キロメートル、全体で約11万平方メートル。
弁天堂は、池の中央に配された弁天島(中之島)に鎮座しています。

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こちらが弁天島(中之島)へと続く弁天堂の参道、そして弁天堂です↓

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実はこの弁天堂、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市にあった下館城の城主・水谷勝隆公が建立したもの。
弁天堂の解説板にも、しっかりとその名が刻まれていました↓

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以下は解説版より

弁天堂
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。
不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島(ちくぶしま)に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天堂)を築き、さらに竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁財天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。
弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁財天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。
また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」をみることができる。
大祭は九月の巳の日で巳成金(みなるがね)という。
平成10年3月 台東区教育委員会

ちなみに、水谷勝隆公は竜泉寺町にあった下屋敷の池にも弁天堂を建立したそうです。
西の不忍池が夕日であるのに対して、東の「水の谷」を朝日弁財天といいました。
下屋敷跡の池は既に無くなってしまったものの、跡地が公園となり堂宇は再建され朝日山弁天院として再建されているとのことです。
朝日山弁天院、いつかお参りしてみたいものです。


というわけでみなさんは、不忍池に行った事がありますか?


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