茨城県筑西市から電車を乗り継ぎ約5時間、友好都市の岡山県高梁市(たかはしし)にやって来た わたくし臣(しん)。
いよいよ、標高430mの臥牛山頂上付近にそびえる国指定重要文化財・備中松山城とご対面です。

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現存天守を持つ山城としては最も高い所にある松山城。
その起源は鎌倉時代に有漢郷(現:高梁市有漢町)の地頭・秋庭重信が大松山に城を築いたのに遡るそうです。
現在見ることができる天守は、備中松山藩主・水谷勝宗(みずのやかつむね)によって天和3年(1683)から3年がかりで修築され、今の姿になったもの。
なお水谷家は、備中に移封されるまで、常陸下館藩(現:筑西市)の藩主でした。

お城の内部も公開されているので、入場料(大人300円)を払って本丸へ。
大手門に繋がる櫓は展示室になっていて、発掘された瓦などが展示されていました↓

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お城の内部です↓

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天守閣1階にある装束の間↓

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籠城時の城主一家の居室で、戦に敗れ落城の時は城主一家の死に場所となるそうです。
城を枕に討ち死に・・・という事でしょうか。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」の言葉を実感する場所です。

そして天守2階の御社壇↓

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解説板に
「天和3年(1683)、当時の城主・水谷左京亮勝宗(みずのやさきょうのすけかつむね)が この松山城を修築したその節、松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神(てんしょうこうたいじん)を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現(はぐろだいごんげん)等十の神々を勧請しこの御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行ない、安康を祈った」
とありました。

ちなみに現在筑西市に残る羽黒神社も、水谷氏の勧請とされています。

天守から見た本丸の様子↓

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天守を見学し終わった後は裏手に回り、二重櫓へ↓

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こちらも現存の遺構で、国の重要文化財に指定されています。


というわけで、水谷家と備中松山城の深い関わりをあらためて確認した後は次の目的地へ。


■岡山県高梁市
人口:34,535人(H22年5月末現在) 
面積:547.01平方km
市の木:あかまつ 
市の花:さくら 
市の鳥:ヤマセミ
特産品:桃太郎トマト、マツタケ、ゆず、白桃、栗、備中宇治茶、ニューピオーネ、アユ、ゆべし、
備中漆塗り工芸品、神楽面など
常陸下館藩(筑西市)の藩主・水谷家が備中松山藩(高梁市)に移封された機縁から、筑西市と友好都市に