こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて、ずいぶん前の話で恐縮ですが・・・
以前記事にした日本橋三越本店の「第59回日本伝統工芸展」鑑賞後、都内でもう一か所、立ち寄って来た場所があるのでご紹介します。

それはこちら、台東区竜泉にある朝日弁財天(水谷弁天院)です↓

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わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市には江戸時代、下館藩という藩がありました。
実はここ朝日弁財天(水谷弁天院)は、その下館藩の藩主だった水谷(みずのや)氏の下屋敷があった場所。
以前にも、上野不忍の池にある弁天堂を下館藩主・水谷勝隆公が築いたことはご紹介しましたが、この朝日弁財天(水谷弁天院)もまた、勝隆公が建立したものなのです。

いただいた御朱印にはしっかりと「水の谷」の文字が↓

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こちらも朝日弁財天でいただいた「朝日弁財天ゆらい記」に、こう記されています↓

「弁財天の信仰篤かった備中松山城主水の谷伊勢守勝隆は、寛永の初め上野寛永寺を創建された天海大僧正と謀り、上野忍の池に弁財天を建立すると同時に、勝隆の下屋敷であった此処水の谷の邸内にも屋敷神として、弁財天をお祀りし、いわゆる姉妹弁天とし、西方にあたる不忍を夕日、東方にあたる水の谷を、朝日弁財天と称した。」

「ゆらい記」には備中松山藩主とありますが、水谷家が下館から備中松山に転封となったのは寛永16年(1639年)なので、「寛永の初め」の建立であれば、下館藩主とするのが正解でしょう。
下屋敷は面積約2万坪で、元禄年間に水谷家が無嗣廃絶となった後は、その子孫である旗本・水谷主水の下屋敷となったようです。

そして現在の朝日弁財天(水谷弁天院)の本堂↓

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大東亜戦争のため昭和20年に失われたものを、昭和23年に朝日弁財天奉賛会が復興、昭和56年に増改築されたそうです。

弁天池と池にかかる橋↓

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「ゆらい記」にはこうあります↓

「昔この下屋敷は外周に濠に模した大濠渠をめぐらし、宅地、池、田、畑という混成の団地をなしていたが、特に池は2,400坪の広さを持ち、琵琶形に造られた約50坪の中の島には、松や柏などの大樹が鬱蒼と茂り蒼々とした底深い水を湛えた池には、菱やジュンサイなど美しく浮び池畔には江戸時代から有名な料亭松原や、歌舞伎狂言でも有名な三千歳の寮、その他瀟酒な別荘が点在し、文人墨客の往来も絶えなかった。」

このように賑わっていた弁天池も、東京市の要請で関東大震災の焦土処分場に提供することになり、埋め立てられてしまったそうです。
残念。
この時、文豪・久保田万太郎は弁天池の変貌を惜しみ「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んだといいます。
また、樋口一葉の「たけくらべ」に「去りにし四月の末つかた桜は散りて葉桜のかげに藤の花見という頃春季の大運動会とて水の谷原にせし事ありしが・・・」との一節もあり、正式な地名ではないものの、この地が「水の谷」と呼ばれていたことがわかります。

なお、現在境内地には遊具などが置かれ、台東区が管理する公園となっています↓

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町おこしの一環でしょうか、近年(昭和50年代から)、台東区の7寺社に祀られている七福神を「下谷七福神巡り」と称して巡礼できるようになっているようです↓

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というわけでみなさんも、お近くまでお越しの際はぜひお参りしてください。